
機嫌のいい人は、感情の風通しがいい人だった
玄関を開けると、台所から「おかえり、今日ね」と声がした。
続きを聞く前に、私は「ごめん、あとで」と言って、そのまま洗面所に入った。
蛇口の水の音の向こうで、家族が黙ったのがわかった。
ついさっきまで、職場では誰より愛想よく笑っていたのに。
頼まれごとも、理不尽な一言も、「大丈夫ですよ」で受け止めていたのに。
どうして、いちばん大切な人の前でだけ、こんなに不機嫌なんだろう。
そんな自分が、ずっと嫌でした。
「外面のいい人」だった私
昔の私は、外では物わかりのいい人でした。
嫌なことを言われても、曖昧に笑って、その場をやり過ごす。
波風を立てないことが、大人のふるまいだと思っていたんです。
でも、飲み込んだ怒りは、消えてはくれませんでした。
行き場をなくして、胸の奥にたまっていく。
そしてそれは、いちばん安心できる場所で、不機嫌という形になってあふれました。
怒りは、感情の中でもいちばん力が強いのだと思います。
その出口をふさいでしまうと、困ったことが起きました。
私の場合は、怒れなくなるだけでは済まなくて、素直に喜ぶことも、思いきり悲しむこともできなくなっていきました。
あの頃の私は、うれしいことがあっても心がうすぼんやりしていて、泣きたい夜にも、なぜか涙が出ませんでした。
感情に、ぜんぶ、ブレーキをかけていたからです。
機嫌のいい人は、怒らない人じゃなかった
私は長いこと、機嫌のいい人とは、いつもにこにこして、決して怒らない人のことだと思っていました。
だから、怒りを我慢することが、いい人になる近道だと信じていたんです。
でも、まわりを見渡してみると、不思議なことに気づきました。
一緒にいて心地いい人ほど、よく笑って、よく怒って、よく悲しんでいる。
「それは嫌です」と、はっきり言う。
うれしいときは、遠慮せずに笑顔になる。
悲しいときは、隠さずに悲しむ。
翌日には、引きずっていない。
感情をためこまないから、後に残らない。
気持ちが、いつも風通しよく流れているんです。
むしろ、いつも曖昧に笑っている人のほうが、見えないところで息苦しそうでした。
そしてその息苦しさは、本人だけでなく、そばにいる人にも静かに伝わっていきます。
不機嫌は、ひとりで抱えているつもりでも、空気になって、まわりまで重くしていました。
初めて断った日
ある日、終業間際に、明らかに私の担当ではない仕事を頼まれました。
理不尽だとわかっていても、いつもなら「はい、やります」と言ってしまうところです。
でもその日は、手が冷たくなるのを感じながら、言ってみたんです。
「ごめんなさい。それは、できません」
心臓が、うるさいくらいに鳴っていました。
言ったあと、怒られるかな、嫌われるかなと、頭の中をいろんな不安が巡りました。
けれど相手は、少し驚いたあと、「そっか、わかった」と言っただけでした。
拍子抜けしました。
そして、帰り道、ふと気づいたんです。
胸が高鳴っていたことが、なんだか少し、うれしかったと。
こんなふうに心が動いたのは、本当に久しぶりでした。
ずっと眠っていた感情が、ゆっくり目を覚ましたような感覚でした。
ぶつかることは、つながること
それから少しずつ、言えなかったことを言うようにしてみました。
家族にも、友達にも。
「今のは、ちょっと嫌だった」
「本当は、こうしてほしかった」
ときには、言い合いになることもありました。
言葉が強くなって引けなくなり、あとで気まずくなる。
それでも不思議なことに、そのあとのほうが、ずっと距離が近くなっていたんです。
満足したふりをして不満をためこんでいたころには、この熱がありませんでした。
ぶつかることは、心がちゃんと生きている証拠で、ひとつのコミュニケーションなのだと思います。
感情を動かす練習のようなもの、と言ってもいいかもしれません。
ただ、ひとつだけ、決めていることがあります。
相手の欠点をあげつらって、傷つけるようなことは言わない。
言いたいことを言うことと、相手を傷つけることは、別のことだからです。
「私はこう感じた」を伝えるのは、相手を尊重すること。
「あなたはダメだ」と突きつけるのは、相手を壊すこと。
その線だけは、見失わないようにしています。
今、思うこと
「大人なんだから、感情的になっちゃいけない」
そう言って、自分の感情にふたをしてきた人は、きっと少なくないと思います。
でも、大人になるというのは、感情を殺すことではなくて、
感情と上手につきあえるようになることなのかもしれません。
笑いたいときに笑う。
悲しいときには、あたりを気にせず悲しむ。
嫌なことには、やさしく、でもはっきり「嫌です」と言う。
そうやって、心の中の空気を入れ替えていった先に、
本当の意味での「機嫌のいい人」がいるのだと、今は思います。
もし今夜、あなたが理由もなく不機嫌で、
その不機嫌さに、自分でも疲れているのなら。
それは、あなたの性格が悪いからではなくて、
言えなかった言葉が、出口を探しているだけなのかもしれません。
まずは、小さなところから。
「それは、嫌でした」
そのひとことを、居合わせた人に、伝えてみてください。
怖いのにうれしかったら、それはあなたの心がちゃんと動き出した合図です。
感情は、動かしていい。
あなたは、もっと、自由に感じていい人です。