
[コマ割と時間①]ちばてつやの大ゴマ
先日書かせていただいた、
「僕がアニメより漫画が好きな理由」という記事の中で、
漫画はアニメよりも「時間」を自分で解釈できる媒体として、漫画が好きな理由を書かせていただいた。
[コマと時間]シリーズは、そんな漫画の中のコマ割りが時間解釈に与える影響について書きたいと思っている。
新シリーズが続いてしまうことになるが、この記事は今日だなと思ってしまったので書かせていただきたいと思います。
シリーズ第一回目は、ちばてつや先生を取り上げたいと思います。
僕自身は、漫画家を目指してるわけでもなんでもないので、先生と呼ぶ関係も何もないのですが、今夜は先生と呼びたい気分なのです。
◼️俯瞰と接写のカメラワーク
ちばてつや先生は、漫画に映画的なカメラワークを取り入れた作家として語られることがある。
とはいっても、現在の漫画のようなそのアングルから描く?みたいなすごい画角はそれほどありません。
それまでの漫画が、劇場型というか、人形劇のような画角が多かったためだと思います。
中間距離のパースの効いた画角というよりは、
俯瞰したような画角と、迫力ある接近した画角が多いような気はしました。
今回は、その俯瞰した大ゴマについて特に取り上げたいと思っています。

このページは、カメラが少しずつ遠ざかっていくことで時間が感じられ、最初と最後のコマで、先に走り始めた丹下段平との距離からも時間が感じることができます。

迫力のある戦闘シーンはとにかく近い。
◼️群像劇を感じる俯瞰の大コマ
それでは、俯瞰した大ゴマを見ていきます。
これは、「おれは鉄平」の一コマ、大盛況の学生食堂に主人公である鉄平が入ってくるところです。

ここには、
昼休みの普段と変わらない食事の時間
→鉄平が入ってきて物語が転換する
というところまでが、描かれている。
ここでは、普段と変わらない食事の時間をアニメで表現しようとすれば、実際の10分、20分はかけられないものの5秒から10秒程度とってその前にも同じような風景が続いていると表現するのではないかと思います。
これを一コマで表現できるのが、漫画の素晴らしさだと思っているのです。
また、パースがあまり効いていないアイソメ的な描き方は、歴史絵巻の絵も彷彿させ、なんとなく昭和時代の群像劇をみているようで嬉しいです。
(僕はリアルタイムで読めた世代ではありませんでした)

同様に俯瞰した大ゴマで有名なのは手塚治虫先生だと思いますが、
時間の伝え方は似ているのかなと思いつつも、手塚先生と比べても丁寧な描き込みは、一人一人の人生と主人公の人生をそれぞれ大事に捉え、関わり合いを大事にしているように感じます。
また、手塚先生の方がパースを効かせてるような気もしています。

手塚先生の俯瞰の大ゴマには、隅々まで仕掛けを探したくなる楽しさがある。そこには、面白い台詞や意外な人物が置かれていて、読者を画面の中に留まらせる。
ちばてつや先生の大ゴマにも、同じように読者を滞在させる力がある。ただ、ちば先生の場合は、仕掛けを探すというより、その場にいる人たちの時間を眺めていたくなる。誰か一人の行動が大きく描かれているわけではなくても、それぞれの人物がそこで生活しているように感じられる。
手塚先生の大ゴマが「画面の中に何が仕掛けられているのかを探す時間」を生むとすれば、ちば先生の大ゴマは「そこにいる人たちの時間を眺める時間」を生むのかもしれない。
ちば先生も手塚先生も方向性の違いはあれど、
俯瞰した大ゴマに少し滞在時間を持たせるような工夫をしている。
これが、その時間軸を伝えるのに活きているのではないかと思う。
次のコマは、「あしたのジョー」でジョーが少年院から出所した日に行われた丹下ジム(まだ非公認)での宴の様子。
たった一コマですが、一晩中続いたのではないかと感じてしまいます。

ちばてつや先生の俯瞰した大ゴマには、主人公の時間だけではなく、その場にいる人たち一人一人の時間が描かれている。だから僕は、その一コマを見ているだけで、画面の中に流れていた時間まで想像してしまうのだと思います。
◼️まとめ
今日の記事は、ちょっとまだまとめたくありません。
加筆、もしくは追記時にてまとめたいと思います。
何か、もっと書きたいことがありそうな気がするし、
ちょっとまだ、考えがまとまっていないのかもしれません。
ただ、今日はこの俯瞰した大ゴマについて見直したい気分だったのです。
この漫画好きでした。
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