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【第3章①:離婚調停2回目】「子どもに会わせたくないから会わせない」は通用していいのか

    子どもに会えていない。
    半年以上、わが子の成長を一切見ることができていない。


    それでも私は、冷静に、誠実に、関係の修復や、子どもとの関わりの機会を模索してきた。
    感情に任せて怒鳴ったこともなければ、支払うべき金銭を拒否したこともない。
    むしろ、自分が改善すべき点を認め、譲れるところは譲ってきた。

    そんな中、ようやく面会交流の実現に向けて、
    「第三者機関」の活用をこちらから提案した。
    相手と直接関わる必要がない安心な形で、子どもと会うことができる。
    費用はすべてこちらが負担するとも伝えた。

    それでも返ってきた答えは、

    「精神的負担が大きいので今は難しい」
    「細かい点が気になるようです」


    という、曖昧で抽象的な言葉だった。

    ⸻

    子どものための制度が、親の感情で止められている


    面会交流は、親のための制度ではない。
    子どもが両親と関わり続けるための“権利”を保障する制度だ。

    それにもかかわらず、今回の対応からは、
    その視点が完全に抜け落ちていた。

    相手が「精神的負担」と言えば、子どもとの面会すら実現できないのか。
    「細かいことが気になる」からといって、半年以上も父子の関係を断っていいのか。

    ⸻

    書面で出したこちらに対し、相手は電話一本


    こちらは正式に書面で申し入れをしている。
    それに対する相手方代理人からの返答は、「電話のみ」だった。

    書面で出せないというのは、
    裏を返せば「責任を持てない」「内容を残したくない」という意思表示でもある。
    記録に残したくない主張を、正当な主張と言えるのだろうか。

    私は次回、正式に書面での理由提示を要求するつもりだ。
    協議を進める前提として、最低限そこは明確にしてもらわなければ、
    何をどう譲歩すればいいのかさえ判断できない。

    ⸻

    「子どものために」が、置き去りにされている現実


    こうして文章にしてみると、
    「会わせたくないから会わせない」という個人の感情だけで、
    制度も、権利も、福祉も、すべてが飲み込まれていく。

    私は、自分のために会いたいのではない。
    子どもの心に“父親はここにいる”という実感を残すために、会いたいのだ。

    この問いを、多くの人に投げかけたい。
    「子どものために」と言いながら、
    その実、“子どもを自分のもの”のように扱っていないだろうか?

    ---
    今このnoteを残しておく事で、将来僕の子どもに、両親がどんな主張をしていて、なぜ会えなかったのか、を理解してもらいたいと思ってる。

    正直、もうすぐ会えるのではないかと期待していたから、すごく残念ではあるし、相手方にも少しは良心があると思っていたよ。。

    もう半年、君はどれくらい成長したかな。。

    辛いけど、相手が会わせない理由を一つづつ潰して、会えるまで努力していくよ。。

    2026年7月24日記

     
     
    大切な君へ そして、同じように子どもを想うすべての父へ 離婚調停中。父としての権利を失わないため、頑張っています。

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