
中国担当になったきっかけ
米国出張の機会
入社5年目の時に米国出張の機会が与えられた。
米国の子会社が出展する展示会のサポートという名目で、若手に経験を積ませるような意味合いがあったと思う。
毎年誰かが行っていて、その年は自分にその機会が与えられた、という感じだった。
後から思えば、それは試金石的な意味合いもあったのかもしれない。
当時、英語が全然できなかった自分は、現地で大した仕事もできず、ただただ無力感を抱いて帰ってきた。
そして、その後、米国関連の案件に声がかかることはなかった。
中国への扉
その半年後、それまで一緒に仕事をしたこともなく、話したこともあまりなかった上司から、突然、
「中国は好き?」と聞かれた。
三国志による良いイメージしか持っていなかったので、何も考えずに「好きです」と即答した。
もっとも、当時はまだ「反日」などという言葉も恐らくなかったし、
マスコミも今のような「嫌中」を煽るような報道をしていなかったので、
普通に生活していれば中国を嫌いになる要素はなかったのではないかと思うが、
逆に、三国志を読んでいなければ、「好き」と即答出来るレベルではなかっただろう。
これも後から思えば、その「中国は好き?」という簡単な質問はリトマス試験紙だったのだ。
ポジティブな反応をしたことにより、2ヶ月後にはこの上司の部下として中国担当になったのであった。
もしネガティブな反応だったら、別の人にお鉢が回っていたかもしれない。
まずはやっぱり英語
さて、それからは頻繁に中国に出張するようになったのだが、
中国では代理店の社長などと英語で会話する必要があったので、
慌てて英語を必死に勉強することになった。
中国担当なのに、まずは英語から、という情けない状況で、中国語を勉強するなどとても考えられなかった。
また、出張で毎回中国語に触れる度に、
あんな難しい言語は、勉強したところで到底自分には不可能だ、とさえ思っていた。
英語学習については、上述の上司からの、
「言語は、子供でも話せるのだから、出来る、出来ない、ではない。得意、不得意でもない。やるか、やらないか、だ。」
という一言が刺さって、やるしかないと腹を括ることができた。
そのお陰で、進歩がスローだとしても、とにかく学習を継続することだけはできた。
そのうち、アジア人が話す第二言語としての英語なら何とかなるようになり、
中国だけでなく東南アジア各国も担当することになったので、色々な国に行く機会も得た。
そして、その延長線上にまさかの上海駐在が待っているとは。
さらに、あの難解だった中国語をある程度使えるようになるとは。
大学卒業時にはパスポートすら持っていなかったのに、こんな人生になるなんて、
長い人生、どこに転機が転がっているかはわからないものである。