
E.012 コメントし されて我が身を 省みる
記事の一つひとつには、それぞれの人の思いが息づいており、それを感じながらコメントすると、筆者固有の生きた思いがダイレクトに返って来ることがありますが、現在の私は、そこに感情移入することなく、AIのように受容するよう心掛けています。
人間である私に意識がある以上、受けたコメントによって意識的作用が生じるのは当然のことですが、それを自転車ライド同様に体感としてのみ受容するよう努めており、そうして受け止めた体感は、否が応にも日々の在り方に影響を与えています。
歳を重ねると日々が早く過ぎ去るように感じるのは、年齢という分母が大きくなるからだと言われているようですが、私自身は、単なる歳月という分母のみならず、積み重なって行く一つひとつの出来事の多さも、モノを言って来ると考えています。
過去の出来事であっても、ある日のある瞬間に、その事態が起こった時以上のリアルさをもって意識に立ち現れることがあり、そうした感覚的作用は、意味づけ次第でとんでもない影響を及ぼし、時には苛まれることにもなるだろうと推測しています。
池田晶子も私自身の在り方に大きな影響を及ぼしたひとりですが、彼女は「形而上と形而下」という表現を好んでいたように記憶しており、そのことを踏まえて今の私なりに考えると、十代の頃、一時期頻繁にやり取りしていた手紙のことが浮かんで来ます。
書かれた手紙という形あるものが現存するか否かにかかわらず、その当時の出来事は形なきまま現在の意識に作用することがあり、私自身、かつて書いた手紙を誰かが残していようがいまいが、我関せずという思いがあります。
そもそも、その認識の起源は、当時のとある女史が口にした「頭に来て破って燃やした」という一言にありますが、それを聞いた瞬間に浮かんだのは、何と「ラッキー」という思いそのものであり、もう気にかけずに済むという安堵が、そのまま「我関せず」という認識につながっており、今もって変わりはありません。
今もあの当時よろしく思うがままに綴っていますが、一方向の事態であれば、誰が目にしようが「そうですか」のみであるものの、双方向で重要機密事項を交わし合っていたならば、そうは行かないでしょう。
場外ホームランのように随分と話を飛ばしましたが、文章そのものが残るか否かということと、文章を交わすことで生じる関係性とは別の問題であり、ことにnoteでは、公開されるテキストデータであるが故に、双方向で思うがままに綴っての交友はしないことにしています。
あくまでも私自身の原則的な方針に留まるものですが、一人一記事、あるいは受けたコメントに対して、一度のコメントに留めることが最善だとする現在の考えがあります。
コメントし、コメントされることで生じる意識的作用を、必要以上に意味づけたり関係性を求めたりすることなく、ひとつの体感として受け止めて行きたいという思いがあり、そのような現在の在り方を省みると、良きも悪しきも、その起源のひとつは十代の頃の「文通」にあるのでしょう。