
不寛容な排除を企てる者たちへ
寛容な社会や文化は、ただ無条件にすべてを受け入れることでは維持できない。社会の根幹を脅かすような「本質的な不寛容(他者の権利や存在を力づくで押し潰そうとする暴力)」に対しては、毅然として対抗しなければ、結果として寛容そのものが死滅する。この構造は、国家や社会の秩序だけでなく、私たちが楽しむ趣味や表現の領域においても全く同じように働いている。
いま、ネットやコミュニティのあちこちで見られるのが、「自分が好まない作品や表現を『キモい』『不快だ』という主観的な理由だけで攻撃し、社会や視界から排除しようとする動き」である。彼らはそれをあたかも「正義の行使」や「当然の権利」であるかのように振る舞うが、それは大きな間違いだ。
まず大前提として、特定の作品や表現に対して「キモい」「自分には合わない」という個人の感情や評価を抱くこと、あるいは「自分は見ない・関わらない」という選択をすることは個人の自由であり、何人たりともそれを縛ることはできない。しかし、問題の本質は「心でどう思うか」ではなく、その個人的な不快感を免罪符にして、ルールを守って活動している他人の発表の場や権利を力づくで奪おうとする「不当な侵奪行為(行動)」にある。
他者の権利や表現の場を「自分の気に入らない」という身勝手な理由で排除しようとするその姿勢こそが、コミュニティの多様性や自由を内部から食い潰す「最大の不寛容」である。
そして、この愚行は結局のところ、自分自身の首を確実に絞める結果に繋がる。なぜなら、「キモい」「不快だ」という基準や感覚は絶対的なものではなく、人間によって、時代によって、コミュニティによって全く異なるからだ。「私の基準で気に入らないものを排除してもよい」という前例を自ら認めてしまうならば、明日には「別の誰かの基準」によって、あなた自身の好きなものや大切な表現が「不快だ」と断じられ、同じように排除される未来を自ら肯定したことになる。
だからこそ、不寛容な排除には決して屈してはならない。個人の主観的な嫌悪感を理由に他者の権利や場を奪うことを容認する社会は、誰もがいつ標的にされるか怯える「不寛容の総身」へと変貌していく。
「〇〇を排除せよ」という身勝手な言葉の刃は、巡り巡って、「貴方を排除せよ」というブーメランとなって自分に突き刺さるのだ。
「薬屋のひとりごと」「レジスタ!」付近で燃えている事柄にあまりに腹が立ったので書いた文章である。怒りこそが原動力、なのだ。