
エッセイ:思考という贅沢|國分功一郎『暇と退屈の倫理学』とメタ認知
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今日は珍しく、日頃考えていることを書いてみようと思います。note副業に関係があるような、ないような話です。
noteを始めて一番に感じたこと
それは、「思考は贅沢である」ということ。
この手の話をSNSでするのは実はあまり得意ではなくって。なぜなら、何を「贅沢」と感じるかは人によって違うので、「世の中には食べることすら贅沢な子どもたちもいるんですよ!」のような、言いたいこととずれた反応が返ってくることがあるからです。
スルーするか反応するか、対応の仕方はいろいろあります。でもできることなら、そもそもそういう場面に出くわしたくないなぁとずっと思っていました。
本当に避けていたもの
ところがnoteを始めて、文字を通して自分と向き合うことを続けてみると、気づいたことがありました。私が避けていたのは、SNSでのすれ違いではなかった。考えるという行為そのものだったのかもしれません。
SNS恐怖症だった私がどうしてnoteを軸にした副業は半年も続いたんだろうかと考えていたのですが、もしかしたら「書く」が「デトックス」に繋がっていたのかもしれないです。
— ふくり (@Fukuriwork) October 2, 2026
noteってよくも悪くも執筆するときは
誰も自分の領域に足を踏み入れることはない。…
考えることを避けていた頃の私は、はっきりいって消耗を通り越していました。二つの意味で「はい」になりかけていたんです。
ハイになって、やたらと饒舌な文章を綴ってしまう日もあれば、
灰になって、文字が歪んで頭に入ってこない日もある。
考える疲れがたまってくると、自分で自分をコントロールできない感覚に陥ります。そう、メタ認知ができなくなるのです。
メタ認知を失って、はじめてわかること
でも裏を返せば、メタ認知ができない状態にいたからこそ、考えられることのありがたさを痛感できたんです。
だから私は、「思考は贅沢だ」と思ってしまうのです。
中途半端なメタ認知と「暇」
國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』には、現代人がどうやって暇と退屈を持て余すようになったのかが綴られています。
この本を読んでいると
「現代の人類は、メタ認知というものを“中途半端に”知ってしまったんじゃないか」と、どうしても思えてしまうんです。
「俯瞰」とか「構造」とかで物事を考えられるようになると、なんだか視座が上がったような気になりますよね。人によってはそれを“神の視点”だと勘違いして、全知全能になったかのように、すべてが退屈に見えてしまう。
その背景には、ネットやSNSの普及が大きく関わっていると思うんです。色んな人の価値観が自分の中に入ってくるようになって、メタ認知できる範囲が急激に広がってしまった。口コミや動画の要約を見れば中身を知った気になれるし、AIを駆使すれば膨大なデータの海を掌握できるような錯覚にも陥りやすくなります。
暇や退屈というのは、いわばメタ認知を中途半端に知ってしまった者たちの成れの果てなのかもしれません。
全力で考えること、堂々と浪費すること
國分さんは、終わりのない「消費」と、満足して終われる「浪費」を分けて考えています。
要約や口コミで知った気になるのは、きっと「消費」のほう。いくら情報を摂っても満たされないのは、そのせいなのかもしれません。
反対に、ひとつのことに全力で向き合って味わい尽くすのが「浪費」。何事にも全力で向き合えば、思考に全振りできる。それこそまさに「贅沢時間」を堪能できるんだと思います。
消費社会を意識できているその視点そのものが、もう贅沢なのかもしれません。それなら、せっかくその場所までたどり着いたんだから、私は堂々と浪費していきたいなと思うのです。
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