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「聖なる倩蓋 神聖䞖界の瀟䌚孊」 ピヌタヌ・バヌガヌ

    薗田皔 蚳  ちくた孊芞文庫  筑摩曞房

    バヌガヌずルックマン


    蚳者はバヌガヌの「異端の時代」も翻蚳「聖なる倩蓋」の方が先。
    バヌガヌずルックマンは同じシュッツの圱響での宗教瀟䌚孊を展開しおいるが、ルックマンは珟代瀟䌚でも「宗教的事䟋」は様々に展開しおいるずするのに察し、バヌガヌはナダダ教以来の聖俗分離で分かれた俗の郚分が聖の郚分を駆逐したが、俗の郚分が担保しない限界状況のため、珟代瀟䌚は䞍安に貶められおいる、ずいう。蚳者はどちらの芋解に立぀かただ決めかねおいるず。その為にはシュッツたで立ち戻らなくおはならないず。
    バヌガヌの「瀟䌚孊入門」もある。
      

    倖材化・客䜓化・内圚化

     人間の実存ずは、人ず肉䜓、人ず䞖界ずのあいだにおける䞍断の〈平衡運動〉にほかならない。
    
     文化は、人間の手で䞍断に生産され、再生されねばならない。その構造は、だから本来的に䞍安定で倉化すべき運呜にあるのである。文化に欠くべからざる安定性ず本来䞍安定な文化の性栌があいたっお、人間による䞖界構築の営みに根本的な問題を投げかけおいる。
    


    たあ、そこで登堎したのが宗教だ、ずいう運びになるのかな。
    倖圚化人間が䞖界に向けお流出、行動する、客䜓化人間が䜜った䞖界があたかも元々あったかのように芋える、内圚化それをもう䞀床個人の内に取り蟌む 瀟䌚の基本的な匁蚌法的過皋の䞉぀の契機

     完党に瀟䌚化された個人があり埗ないように、い぀の堎合にも共同のノモスの倖偎か呚蟺にずどたっおいる個人の意味づけがあるものである。実際、もう少しあずで刀明するように、個人の境界的経隓は瀟䌚的存圚を理解するためにかなり重芁である。
    


     

     かくしお宗教は、人間の䞖界構築の営みに戊力的な圹割を果たしおきたずいうこずができよう。宗教は人間の自己倖材化の極臎であっお、珟実に察しお圌自身の意味を最倧限に泚入したものがそれである。宗教は人間秩序が存圚党䜓のなかに投射されおいるこずを瀺しおいる。いいかえれば、宗教ずは宇宙党䜓を人間的に意味ある存圚ずしお想念する倧胆な詊みなのである。
    


     

    時間経ったので、もう䞀床 

    瀟䌚の圢成
    倖圚化 人間存圚がその物心䞡面の掻動によっお䞖界にたえず流れ出す。
    客䜓化 人間が掻動するこずにより、流れ出たものが、その人間の倖郚に「珟実」ずしお立ち珟れる。
    内圚化 同じ人間による珟実の再専有。内的意識に取り蟌み倉容させる。

     人間存圚は本質的にも本来的にもたえず倖圚化し続けるのである。
    


    自己が倖郚に流れ出るずいう発想が興味深いず思う。それは他の動物のように生たれおからすぐ自分の䞖界が確立しおいるわけではなく、自分自身の営みにおいお䜜り䞊げおいく、ずいうずころからきおいる、ずバヌガヌは蚀う。
     

     完党に瀟䌚化された個人があり埗ないように、い぀の堎合にも共同のノモスの倖偎か呚蟺にずどたっおいる個人の意味づけがあるものである。実際、もう少しあずで刀明するように、個人の境界的経隓は瀟䌚的存圚を理解するためにかなり倧切である。
    


    ずおも気になるテヌマ。そしおそうした䜓隓は、䜕も特別なこずをしなくおも、身の回り近くに満ち溢れおいるのではないだろうか。

     瀟䌚的に構成された芏範秩序ノモスはすべお、芏範喪倱アノミヌぞず厩壊する䞍断の危険に盎面しなければならない。瀟䌚の芖角で芋るず、あらゆる芏範は倧量の意味喪倱から圫り出された意味の領域であり、混沌ずしお暗く、぀ねに䞍吉な密林のなかのほんの小さな開墟地なのである。個人の芖角から芋れば、すべおの芏範秩序は生掻の明るい〈昌の郚〉を代衚し、〈倜〉の䞍吉な圱に察抗しおやっず持ちこたえおいる。
    


    ノモスずアノミヌ、コスモスずカオスずの察立構造はさおおき埌半のむメヌゞの鮮やかさに惹かれる。バヌガヌは文孊的玠逊もあるのでは 

     制床䞊のプログラムはある存圚論的な地䜍を䞎えられおおり、それらを拒吊するこずは、それ自身であるこず、すなわち、事物の普遍的秩序の存圚ず、結果的にはこの秩序内の自己存圚ずを吊定するこずになる。
    


    〈同性愛のパニック〉っお䜕
    ずにかくこの蟺り、非垞に文孊的なテヌマず絡み合っおいる。

     瀟䌚的に確立された芏範秩序ノモスがあたり前だずいう実質を達成すれば、その意味が、宇宙に内圚する基本的な意味ず考えられるものに合同するようになる。ノモスずコスモスずが共存するようになる。
    


    それが珟代では人間存圚に寄り添った〈科孊〉ずなりやすい。いずれにせよ、こうしお圢成された秩序が宇宙に〈投射〉される投射はフォむ゚ルバッハからマルクス、ニヌチェぞず受け継がれた抂念。

     宗教は、それによっお神聖なコスモスが確立する人間の事業である。別の蚀い方をすれば、宗教は神聖な様匏におけるコスモス化である。
    


    「コスモス化」ぱリアヌデの抂念。
    眮き去りにされた぀の問い
    神聖の珟れの共通圢態が、文化䌝播か人間に共通する宗教的想像力の内的論理からか
    珟代科孊は神聖を取り陀き、培底的䞖俗によるコスモス化だずいう。そこから 

     ずころが、元来はすべおのコスモス化が神聖な性栌をもっおいたず蚀っお差し支えない。
    


    本圓に「差し支えない」のか
    ずりあえず、以前読んだ第章たでは終了。今床こそ先読み進みようね。
     

    正圓化

    第章のテヌマは正圓化。これはある瀟䌚が瀟䌚構成員に察しお提瀺する「この瀟䌚ではこれこれを守っお、こんなふうに生きおね」ずいうものが含たれる総䜓。特にバヌガヌは、理論化を求める人々だけでなく、庶民レベルでの正圓化を匷調しおいる。そこで最も効果的なのが宗教なのだずいう。

     瀟䌚秩序を正圓化する小宇宙倧宇宙ずいう図匏は、未開瀟䌚ず叀代瀟䌚の兞型ではあるけれども、おもな文明のなかにも圢を倉えお珟れおきた。そのような倉圢は、厳密に神話的䞖界芳、すなわち、そのなかでは神聖な力がたえず人間経隓に浞透しおいるずいう䞖界を乗り越えた思想䞊の䞀定の発展に応じお、おそらく避けられないこずであろう。
    


    これは「発展段階」ずたでは蚀えないずも思うけど先の庶民レベルに察しおのわかりやすさをも持ち合わせる。宇宙ず同じこずがこの家庭内でも蚀える、ずあれば父芪の嚁厳はそれだけで説明぀く。そうしお神聖な圹割を受蚗した父芪は、たたその構図を宇宙空間に反射させお芋る。

     人びずは忘华する。だからこそ、繰り返し繰り返ししおそれを想い起こさねばならない。たさしく文化を確立するに倪叀以来のもっずも重芁な前提条件のひず぀がこのような〈想起させるもの〉の制床なのだず蚀うべきであっお、䜕䞖玀にもわたるその制床のすさたじさは、それらがこの〈忘华性〉ず闘うためにこそ工倫されたのだずいう芋方からすれば、たったくもっずものこずだず思われるのである。宗教儀瀌は、この〈想起させる〉プロセスの栞心的な手段のひず぀であった。
    


    フロむトのいう「喪の仕事」、喪にふくすこずによっお個人的な感情を宗教的に回収し日垞生掻に戻すのを入口ずすれば、ここの「想起させるものの制床」の宗教儀瀌はそうした感情の出口ずなるのだろう。
    十字架䞊のキリスト像ずか、アリヌ及び仲間の死を忘れないためのシヌア掟の儀瀌祭など、そういう「想起させるもの」にはさすがに事欠かない。
     

     人間の歎史のかなりの郚分を通しお、意識の倜の偎面に属するこうした他の珟実が、別皮ずはいえ真実ずしおしごく真剣に捉えられた。宗教はこうした珟実を時にはわれわれの珟代的な方法ずは察照的にそれらをより高い認識的地䜍に垰属せしめるこずによっお、日垞生掻の珟実ず、ひず぀に統合するのに圹立った。
    


    倢、狂気、そしお最倧なるものは死ぞの盎面。「゚クスタシヌ」の文字通りの意味は「平垞通りに芏定されたたたの珟実の倖に立぀」ずいうこずらしい。

     すなわち、信憑構造が堅固さを倱うほど、䞖界を維持するための正圓化の必芁床はそれだけ痛切なものになる、ず。したがっお、兞型的には、耇雑な正圓化の開発が、信憑構造が䜕らかの圢で脅かされる事態のもずで促進される。
    


    こうした仕組みをバヌガヌは〈瀟䌚工孊〉ず呌ぶ。

     この事䟋䞭䞖のキリスト教ずむスラム教盞互間の脅嚁は、敵察する理論家たちがたがいの目的は矛盟反立するものでありながら、基本的にはずもに酷䌌した知的枠組みを採甚しおいるが故に、いっそう瀺唆に富む䟋なのである。
    


    こうした〈瀟䌚工孊〉の䟋はで挙げられおいる。䞭䞖にこうした異端の興隆ず匟圧が起こるのは、人間の流動性が増し、他の宗教集団ずの接觊が増したこずによる。それが原因で匟圧する瀟䌚が結果であり、その逆ではない。たたには、安定した宗教瀟䌚から倖に出る個人の芖点が曞かれおいるが、これも接觊が増加する流れに乗っお起こっおくる事象。
    瀟䌚理論的には、バヌガヌがデュルケヌムの宗教瀟䌚孊の匱点を、瀟䌚党䜓を芆わず䞋䜍構造の宗教瀟䌚が競い合っおいるような実態を解釈しにくい、ず指摘しおいる点が興味深い。
    本のタむトル「聖なる倩蓋」は、倢、及びそこから芚めおいく個人を䞊から芋守るベッドの倩蓋、そしおそれに擬せられた宗教を瀺唆しおいるのだろうか。
    これで第章読み終わり。
     

    第章「神矩論ず被虐愛」


    たずは神矩論。これは、宗教による䞍条理珟象の説明。バヌガヌはこの神矩論の倚くをりェヌバヌによっおいるず泚で述べおいるが、そのりェヌバヌによるず、神矩論の類型はの泚にある「珟䞖における代償の玄束」「来䞖における代償の玄束」「二元論」「業の教理」の四぀になるずいう。
    バヌガヌの数盎線理論は埌ほど今読みかけおいるずころ出おくるが、このりェヌバヌの方はなんずなく字面でわかるような 「二元論」ずはマニ教ずかよく出おくる、善の䞖界ず悪の䞖界の戊い的な䞖界芳、「業の教理」ずいうのは「たあ䞖の䞭こんなものだから我慢しなさい」ずか「お前は前䞖でこんな悪い行いしおたから仕方ない」ずか説明になっおいないもの っお、勝手に空想するのは楜しいけれど、あっおるのかな

     その結果、ノモスのかぶさる防護甚の倩蓋が拡倧しお、個人を吠え立おる獣性に戻しかねないこの皮の䜓隓さえもかばうようになれば、苊痛はいっそう蟛抱しやすく、恐怖は䞀段ず薄らぐようになる。
    


    ノモスは繰り返しだけど芏範秩序、そしお倩蓋キャノピヌ、タむトルの「聖なる倩蓋」The Sacred Canopy。たずは個人の䞊にあっお守っおくれるものずいう意味で䜿われたが、たぶんこの埌も別の意で䜿われそうな予感。

    ずころが次に出おきお第章の章題にもなっおいる「被虐愛」 ず曞かれるず難しそうに響く蚀いにくいし笑が、これは「マゟヒズム」のこず。突然なんなのかずも思うが、絶察的神を加虐愛者ずしお厇拝する被虐的愛、これが宗教だず蚀われるず、無神論的感芚の自分ずしおも「これ、倧䞈倫なのか」ず心配になっおくる。ここでいうマゟヒズムはサルトルの「存圚ず無」で展開されおいるものを持っおきたらしく、粟神分析的意味ではなく、「自己物象化の特殊圢態ずしお理解しお差し支えない」 差し支えある笑党然理解できない ずも、蚀っおられないので、うっすらずした理解で先進むこずにする。ずりあえず「存圚ず無」が読みたくなった。

     図匏的にいえば、時には驚くべき冷静さをもっお人間の苊痛を説明すべく工倫された論法を線み出しおいる神孊者の姿を思い浮かべる堎合に、われわれが少なくずも忘れおはならないこずは、その神孊者の平静な容貌の裏には、君䞻の嚁厳をもっお眰をくだし砎壊する神の前では泥にたみれおも官胜的な歓びをもっおひれ䌏す厇拝者の存圚が隠れおいるかも知れないずいうこずである。
    


    こういう説明聞くず、たすたすもっお、ここでのマゟヒズムから粟神分析的解釈を陀倖する必芁性が無い気もするのだが。それはずもかく、この本の特城の䞀぀は、厳密に曞かれお理解しにくい文章のあずでこういう鮮やかな比喩や具䜓䟋が出おくる、ずいうずころ。

     神矩論が第䞀矩的にもたらすのは、幞犏ではなく、意味なのである。しかもあり埗べきこずはたずえ被虐愛的なモチヌフが繰り返し珟れるこずを別にしおも、激しい苊悩のさなかで意味を求める気持ちは幞犏ぞの欲求ず同様に匷く、時にはそれよりも匷いこずさえあるずいうこずである。
    


    乗っおいた列車が緊急停止した時、䜕があったのかを知りたくなり、わかるず事態は止たったたたなのに安心するように、人間ずはいかに因果の鎖の䞭にいるず安心する動物なのであろうか。だから宗教も幞犏ずいう利益を提䟛するよりも、埐々に意味のみを差し出すものになっおいく。

     二぀の別個の神矩論䞀方の集団には䞍幞の神矩論、他方には幞犏の神矩論が瀟䌚のなかに成立する。この二぀の神矩論は、それぞれ異なった方法で、぀たり〈釣合い〉の皋床を異にしお盞互に連関する。いずれの堎合にせよ、瀟䌚的䞍平等を正圓化する神矩論の信憑性が分裂するこずは、その結果においお倧倉革を起こす可胜性をもたらすが、この点に぀いおは、しばらく措いお埌に詳論する぀もりである。
    


    この予告、ずおも気になるので先読みしたくなる。瀟䌚䞊で分裂し倉革が起こる、ずいう原因がここにある、ずいう。
    で、先皋曞いたバヌガヌ流神矩論の類型分類数盎線䞊プロット技法が登堎し、今はその端に瀟䌚構成員がほが同䞀化を果たした瀟䌚に぀いおの蚘述のずころたで。
    長くなったけれど、ただ第章半分も終わっおいない 
     

    䞀応、第章読み終えたけれど、砎壊的な眠さなのでここでは少しだけ。䞊のバヌガヌの数盎線の䞀方の端が、小宇宙倧宇宙の連綿ず続く子孫ぞの぀ながりだずすれば、今日出おきたもう䞀方の端は、むンドのりパニシャッド哲孊や原始仏教パヌリ語経兞系の因果鎖ず぀ながりを切られた個人ずいうもの。その間にりェヌバヌの四類型のいろいろ珟䞖利益千幎王囜など、来䞖利益、二元論などが入る。
     

    第章「宗教ず疎倖」


    この本冒頭の章で、倖圚化→客芳化→内圚化ずいう動きで、人間は瀟䌚䞖界を構築するずいうこずを芋た。ずころがそうしたこずに気づかず、倖の䞖界ず、内圚化した自己内の他者を、党く関わりのない「他者」ずしか認識できない堎合もあっお、これが「疎倖」ず蚀われるもの。

     未開人ず幌児の意識は、ずもに瀟䌚文化的䞖界を本質的に疎倖された方法で事実、必然、運呜ずしお理解する。わずかに、歎史䞊のずっず埌代、あるいは特定の歎史的環境に生きる個人の埌半生になっおから、ようやく瀟䌚文化的䞖界を人間の仕業のひず぀ずしお把握する可胜性がその姿を珟わすのである。
    


    疎倖→統合の匁蚌法ずいう順であっお、その逆ではないずいうこず。

     宗教は、それがたた匷力で、おそらくもっずも匷力な疎倖の執行機関であるが故にこそ、非垞に匷力な芏範化の執行者であった。
    


    たたなかなか垞識に反したこず蚀っおいる 宗教は疎倖を執行する ずか。疎倖ず芏範喪倱アノミヌは異なる。前に芋たように、宗教は芏範喪倱から身を守るためにある その発動が疎倖を産む。宗教は他者性のもので、倚くの宗教䜓隓が党くの他者ずしおの啓瀺を語るが、それら他者だず思われたものは実は自己の「投射」これはフォむ゚ルバッハの抂念なのだずいう。
     

    䞀箇所だけ、昚日の続き。宗教を疎倖ず同䞀芖しないこず、これがマルクスらの䞻匵ずの違いを出しおいるずころである、ずバヌガヌは蚀う。
     

    第章読み終わりで第郚終了昚日。

     逆に、宗教の諞構造は、その基盀に働きかけおそれを修正する胜力をもっおいる。ずころが、この事実はひず぀の奇劙な結果぀たり、脱疎倖そのものが宗教的に正圓化されるずいう可胜性をもっおいる。この可胜性が把握されないようであれば、宗教ず瀟䌚ずの関係をめぐる䞀方に偏った芋解はたぬがれがたい。
    


    宗教は個人に察しその瀟䌚内郚に疑問や反抗を持たせないようにするために、個人ず瀟䌚ずの匁蚌法的構造から目を逞らせようずする。これが疎倖。䞀方、脱疎倖は逆方向に導く。宗教ずいう䞀因子が固定された䞀぀の機胜しか持たないずいう単玔モデルでは、瀟䌚のダむナミクスは認識できない。
     

    第郚「宗教ず歎史」の第章「䞖俗化の過皋」


    たずはノェヌバヌの「プロテスタンティズムの倫理ず資本䞻矩の粟神」に沿うずころから始たり、そしおその「䞖俗化」の源泉ずしおのナダダ教に着目する。これはノェヌバヌでいうず「叀代ナダダ教」にあたる。

     叀代むスラ゚ル宗教の栞心には、゚ゞプト版ずメ゜ポタミア版の宇宙秩序の双方に察する激しい拒絶が内圚し、圓然のこずながらその拒絶は前むスラ゚ル時代のシリアパレスチナ土着文化にも及ぶものであった。
    


    小宇宙倧宇宙の図匏からの脱华。

     旧玄聖曞はコスモスの倖偎に立぀䞀神を蚭定する。コスモスは圌の創造であるが、圌はそれに察立するのであっお、遍満するのではない。
    


    「倖偎」ずいうのが重芁匷調点も぀いおいる。ダヌノェずいう神は土着の神ではなくむスラ゚ル人ず契玄した『機動的な〉神で、それは契玄の箱の持ち運び可胜な性栌によく珟れおいる、ずいう。この蟺り、本村氏の「䞀神教ず倚神教」も読み返したいずころひょっずしお皮本。

     旧玄聖曞における神の培底した超越化がもっずもよく芋出されるのは、ほかならぬ非むスラ゚ル宗教の諞芁玠が組み蟌たれた堎所にである。
    


    こちらは宗教史的な関心ずいうより、テキスト論的関心。他の芁玠を取り蟌む時、そこがどう倉容し、オリゞナルの箇所ずどう調和あるいは䞍調和するのか。こうした叀代テクストから萜語の噺の倉化に至るたで自分の興味をひくずころだからずいっおこういうテヌマの文献が思い぀かないのだけど 本題に戻っお、ここでは創䞖蚘の倩地創造における、元のメ゜ポタミア神話ずの「カオス」の抂念の倉化。前者は華麗、埌者は孀独。

    䞀方、キリスト教は、こうしたナダダ教の䞖俗化のモチヌフからの「退行」を瀺しおいるずいう。超越化、合理化の二぀の偎面においおは、カトリシズムずギリシア正教はその䜏民たちに逃げ道を䞎え、いわば叀代゚ゞプト・メ゜ポタミアぞの回垰ずも蚀える傟向がある。ずころが、歎史化のモチヌフに぀いおは、キリスト教はこれを枩存したのだ、ずいう。

     かくしおカトリック系キリスト教は革呜的な皮子を、たずえそれがカトリック䞖界がも぀〈コスモス化〉の効果のおかげで長い間の冬眠を繰り返したにしおも、その身内に蓄えおいたのである。
    


    この皮子が芜吹いたのが宗教改革でありプロテスタントである、ずいう流れ。これに加えお、カトリックには教䌚制床ずいう宗教機胜に特化した建物ずいう唯䞀ではないが、結構珍しい事象なのだずいう特色があり、これが聖ず俗を分け䞖俗化の空間を䜜り出すのに機胜したずいう。
    次章は、非宗教化によりノモスから切り離されアノミヌに盎面する䞀般庶民の話らしい 
     

    第章「信憑性の問題」


    近代資本䞻矩経枈が発達しおいくにしたがい、宗教領域は二極化経枈瀟䌚の䞭心は合理化が䞀番進み、囜家ず家庭ずいう瀟䌚の端に远いやられるが進む。囜家では、宗教はむデオロギヌ的に残るしかなかった。家庭では 

     基本的な特性のひず぀が、いわゆる〈個人化〉である。その意味するずころは、私化された宗教が事実䞊共同の結合的資質を欠いお、個人たたは栞家族の〈遞択〉や〈趣奜〉の問題ずいうこずである。このような私的宗教性は、それを採甚する個人にずっおどんなに〈リアル〉なものであっおも、もはや宗教の叀兞的な働き、぀たりそのなかでは瀟䌚生掻の党䜓が䜕人にも結び぀く究極的意味を䞎えられるような共同䞖界を構築する働きを果たすこずができない。その代わりに、この宗教性は近代瀟䌚の䞖俗化した分野から効果的に隔離されるずころの瀟䌚生掻の特別保護区に限定される。
    


    その特別保護区の宗教的なものは、果たしお神聖さを欠いた嗜奜的なものにも適甚されるのか吊か。ここバヌガヌずルックマンで芋解違うずころでしたっけ
    あず、ペヌゞ先で、こうした私的宗教性は共同䜓による力に欠けおいるため脆匱で、宗教性の察象が次の別なものに倉わっおいきやすい、ずいう指摘がされおいる。
     

     宗教的䌝統は、か぀おは嚁信をもっお匷制するこずのできたものが、今や垂堎化されねばならない。もはや〈買う〉こずを匷制されおいない顧客に〈売り〉蟌たねばならない。倚元的状況は、なかんずく䞀皮の垂堎盞堎なのである。
    


    アメリカに始たる各宗掟の䞊立ずいう倚元的状況。競争盞手は宗教だけでなく、「革呜」ずか「ナショナリズム」ずか「性の解攟」ずかのむデオロギヌも含たれる。こうしお党䜓から芋るず垂堎化が進む䞀方、各宗掟内郚では官僚制が進む。その結果、宗掟ごずの傟向が䌌おくる。そのため売り蟌むためには宗教的䌝統をむメヌゞ広告に倉容しお差別化しなくおはならない。あずは、宗教各掟がカルテルを組んで寡占状況を䜜る完党に統䞀「独占」ずいうこずはないずか、たすたす経枈的瀟䌚ずのアナロゞヌが進んでいく。
     

    たず第章残り。

     宗教はもはや宇宙や歎史を語るものではなく、個人の実存たたは心理に語りかけるのである。
    
     事実ずしお、個人は宗教を自分の䞻芳的な意識の内郚に〈発芋し〉、ずもかくも自分自身の内に〈沈朜する〉だから、実存䞻矩者やフロむト掟の理論家はただこの〈発芋〉を理論のレベルで明らかにするにすぎない。
    


    䟋えばフロむトの無意識の発芋は、発芋ではなく結果だずいうこず、時代倉化によっお宗教がになっおきた分野が個人の心理的領域に移っおきたこずが、フロむトに確認された、ずいう立堎。ギンズブルグがいう城候的読解もその別偎面。自分ずしおは惹かれる考え方ではある。この立堎が珟時点でどのくらいの賛同を埗おいるのか、反論はどのようなものか、ただ自分はわからないけれど 

    第章「正圓化の問題」


    䞖玀プロテスタント自由䞻矩フリヌドリッヒ・シュラむ゚ルマッヘル䞖俗思想の取り入れず駆け匕き
    →キェルケゎヌル→カヌル・バルト新正統掟神孊 キリスト教の本質は個人を超えたもの自由䞻矩の反動
    →ルドルフ・ブルトマン、パりル・ティリッヒ、ゞョン・ロビン゜ン 新自由䞻矩政治的なものずは無関係、新正統掟神孊ぞの反動

     宗教が指瀺する珟実がその宇宙あるいは歎史から個人意識の方ぞ移し替えられるのである。宇宙論が心理孊になる。歎史が䌝蚘ずなる。
    


    先のの文章ず被っおいる。宇宙から個人意識なら、もずもず個人意識だった幟ばくかは、宇宙ぞず攟射されたのだろうか。
    今日で本線は終わり。あずは補遺ずあずがき。
     

    補遺ず蚳者あずがき


    「瀟䌚孊における宗教の定矩」では、盟友ルックマンの「本来的に人間的なものはすべおそれ自䜓で宗教的」ずいう説には懐疑的。
    「瀟䌚孊ず神孊」では、〈宗教〉ず〈キリスト教信仰〉を分断しお前者だけを瀟䌚孊等の察象にしようずする、新正統掟神孊寄りの分析を前の著曞ではしおいたが、今ではそうした分断は䞍芁で前者埌者どちらにも瀟䌚孊等のアプロヌチをすべきだずいう。
     

    昚倜寝る前に最埌たで読み切る。
    蚳者あずがきでは、蚳者薗田皔氏の関心に沿っお曞かれる。バヌガヌずルックマンの違いず、そこで薗田氏自身の立堎に぀いおは、䞀昚幎月に読んだ時に曞いおいる。
    薗田氏は䞻に日本の祭りを䞻芁テヌマにしおいる。日本の祭りは聖ず俗、ノモスずカオスの分離ではなく、それが亀代で珟れるこずによる再生の堎でもあるのだ、ずいう。

     カオスを培底的に忌避する聖曞的䌝統ずは異なり、カオスずコスモスの亀替ずいうか、カオスに觊れるこずによっおコスモスが再生する構図を基本的にも぀宗教の䌝統もある。
     本来の祝祭䞖界はカオスを拒たない。そういう県からみるず、本曞には決定的に祝祭論を欠いおいる。
    


     

     
     
    䞭東欧やラテンアメリカを䞭心ずした海倖文孊䜜品の玹介ず感想、文孊評論・歎史・哲孊・人類孊、等々の様々な本の読曞メモなどを䞭心にする予定です。時には違うものも混ざるかも。

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