
彼女と仕事と鬱とS
1 赤い髪の女
親父が死んだ。
町工場を切り盛りしていた親父は、業績悪化の波に抗えず、従業員への給料、仕入れ先への支払い。
生き延びるために借金を重ねていった。まるで沈みかけた船の穴を手で塞ぐように。
けれど、限界はあった。
すべてがパンクしたのは、最後の借り入れからほんの数日後のことだ。
そして、親父は首を吊った。
遺された借金の大半は相続放棄で処理された。管財人の手に委ねられ、俺の手元には来なかった。
けれど、保証人となっていた分と、数週間前――親父に頼まれて、俺が消費者金融から借りて渡した分。それだけが、しっかりと俺に残された。
借金総額、約一億。
人ひとりが死んで、この程度で済んだのは、運が良かったのかもしれない。皮肉な話だがその分、仕入先の材料屋、仕事途中のお客には迷惑をかけることになり申し訳なかったが死の悲しみより、苦しむ親父をもう見なくて済む安堵の方が大きかったのかも知れない。
俺の名前は篠田充夫《しのだ みつお》。三十六歳、独身。
元は商社の普通の会社員だった。だが親父の死で生活は一変し、会社の仕事一本じゃ食っていけなくなった。 会社勤めのあとに、夜のバイト。いつ寝たのか、わからん日もある。
昔、デザイナーをしていた頃の繋がりが、今になって救いになっている。
後輩たちが時折、『先輩、ちょっと助けてくれませんか?』と声をかけてくる。
割に合わない仕事でも、いまはありがたい。ただ、ただ、食っていくために。
その夜もそうだった。バイト帰りの俺に、後輩の石原から電話があった。
「先輩、また仕事お願いしたいんですが……今から会えますか?」
普段なら、電話のあとメールで概要を送ってくるだけなのに――今夜は様子が違う。
ややこしい案件か? そう思いながらも、軽い気持ちで返事をした。
ほどなくして、インターホンが鳴った。
ドアを開けると、石原と杉田が並んで立っていた。
二人ともデザイン会社時代の後輩で、今はそれぞれ独立したフリーランス。
二人は同じ二十七歳、顔も良くて仕事もできる――まぶしいくらいの世代だ。
「なんだよ、二人ならそう言えよ。酒でも買ってこようか?」
口では言ったが、財布の中身は寒かった。
「いえ、今日はちょっとご相談なんで……しらふの方がいいかと」
杉田が苦笑いする。やっぱり、ただのいつもの仕事の話じゃないらしい。
ん? 結婚の報告か? いや、待て祝い金なんて今はキツいぞ――
玄関のまま、そんな余計な勘ぐりをしていると、石原が口を開いた。
「仕事の! 仕事のご相談です」
……どうやら、顔に出てたらしい。
二人を部屋に招き、腰を下ろすと、石原がすぐに切り出した。
「実は今やってる案件なんですけど……先輩にお願いしたくって」
「内容は、クライアントの意向に沿ったデザイン。あとは先輩のセンスでって、いつもの感じですね。ただ……」
『ただ』――
その言葉のあとの沈黙が、妙に長く感じた。
胸の奥が、ふとざわついた。
嫌な予感がした。
石原が少し声を落として言った。
「ただ……その、担当者がですね……ちょっと、こう……ダメというか、クセ者というか……」
言い淀む石原の横から、杉田が即座に割り込んだ。
「腐れ女ですよ!」
思わず吹き出しかけたが、言葉には出さずに眉を上げただけにとどめた。
そして、皮肉をひとさじ。
「ははぁん、なるほどな。やりにくい案件を、俺に押し付けようって腹か?」
もちろん、本気で責めてるわけじゃない。
クセのある担当なんて山ほど見てきた。支払いさえキチンとしてくれりゃ、相手の性格なんて二の次だ。
「い、嫌ですよ!そんなわけないじゃないですか!」
石原が慌てて手を振る。
「僕ら、もう断るつもりだったんですよ。ただ、その前に……先輩に一度、声だけでもかけておこうって」
その言葉に、心のどこかがあたたかくなった。
俺の今の状況を、ちゃんとわかってくれているんだな――ありがたい。
「冗談だよ。わかってる。ありがとうな」
心からの言葉だった。
この二人は、本当に可愛い後輩たちだ。
杉田は、止まらなかった。
「でも本当、腐ってますからね!あの女! 横柄、言葉もガサツ、ラインやメールの返信は来ない、打ち合わせに平気で遅れてくるくせに、いざ来たら知ったかぶりで一方的にダメ出し。こっちはプロだっつーのに!」
あらら、完全に憎まれてるな。
嫌われっぷりに、逆にちょっと興味が湧いてきた。
石原が、少し言いにくそうに口を開く。
「……でも、支払いはきちんとしてるし、仕事量も多いんですよ。正直、今の先輩には……すみません、言い方が悪いですが、合ってるかもしれないって……」
石原は優しいなぁ。
俺の現実に寄り添って言ってくれる、その優しさが沁みる。
「もちろん、受けていただいたあとで無理だって思ったら、いつでも断ってください。 僕らのことは気にせずに」
杉田もまた、俺を思ってくれている。それが伝わる。
……ありがたいな、ほんとに。
「ま、会ってみないと分かんねえし。とりあえず、その腐れ担当に合わせてくれ」
俺の返事は、即答だった。
そして三日後――日曜日の午前。
俺たちは、昔の職場近くにある、懐かしい喫茶店にいた。
「間も無く着くそうです」
二杯目の珈琲を注文した石原の電話に例の腐れ担当から電話があった。
なるほど、1時間遅れは普通のようだ。
程なくして扉につけられたベルがカランと鳴った。その音に反応して、店内の空気が一瞬だけ揺れる。
視線のいくつかが自然とそちらに向かう。
細身の体にぴたりとフィットしたチャコールグレーのパンツスーツ。くるぶしの覗くパンツの裾からは、艶のある黒のプレーンパンプスが覗いている。肩から下げた大きなバッグはパンパンに膨らみ、いまこの瞬間も現場へ向かう途中のような、そんな張り詰めた気配をまとっていた。
バッグの隙間から突き出た図面ケースが彼女の背中を押すように揺れ、歩くたびに「プロの匂い」が漂う。
明るい茶髪…いや、ほんのり赤を帯びたセミロングの髪が、店内の柔らかい照明にきらりと反射する。整った綺麗な顔立ちに凛としたメイク、長いまつ毛の奥にある瞳は鋭く、目尻を跳ね上げたアイラインが意志の強さを際立たせていた。
その仕草すべてに「無駄」がなく、何も言わなくても――この人は仕事ができる。そんな確信だけが、静かに場を支配していた。
赤い髪の女は、石原と杉田を見つけるなりニコッと笑い、片手を上げて言った。
「やっほ」
綺麗な顔立ちに、明るく屈託のない笑顔。
一瞬、店内の空気がふわりと軽くなったような気がした――が、すぐに違和感が押し寄せた。
……やっほ? 初対面の相手を一時間も待たせといて、開口一番それか。
普通ならムッとくるところだろう。
けど、不思議とそこまで苛立ちは湧かなかった。どこか、その無神経さすら計算に見えたのかもしれない。
横をちらりと見ると、石原は困ったように眉を下げ、杉田はしっかりと眉間にシワを刻んでいた。
ああ、やっぱり彼らは内心ムカついてるんだな――そんな顔だった。
そして女は俺と目が合うなり、笑顔を崩さずに歩み寄ってきた。
「こちらが先輩の方? すみませんね、遅れてしまって」
そう言いながら、石原と杉田が口を開くより先に、大きなバッグをごそごそとあさり、名刺をスッと差し出してきた。
にっこりと、あくまでも柔らかく。
『AiPLAN(アイプラン) 代表 営業・プランナー 岡部佳美《おかべ よしみ》
広告作成・企画・販促物全般』
名刺の肩書きを見て、ふと思う。
――なるほど、個人事業主か。しかも代表で営業でプランナー
「はじめまして。篠田と申します」
こちらも真顔で名刺を受け取り、丁寧に応じる。
俺が名前を言った瞬間、彼女は大きな眼で俺の眼を見た。
脳内メモリに名前と顔を刻むように。
岡部はすかさず話し出した。
「先輩さん、いや篠田さん ほんとすみませんね。なんか急にふたりが『もう手を引きます』とか言い出すもんだから、慌てて『じゃあ誰か紹介してよ!』ってなって……で、良い人がいるって聞いて、ついご足労いただいちゃって」
しゃべる、しゃべる。テンポが早い。
そして俺の反応を待たずに、畳みかけるように続けた。
「でもね、第一印象、優しそうだし、ちゃんとしてそう! なんか、うまくやっていけそうな気がします〜。よろしくお願いしますね」
そう言って美人特有の眉間にシワをつくるクシャっとした笑顔を俺に向けた。
……まだ、引き受けるって言ってないんだけどな。
どこかで小さくため息をつきたくなるような、そんな空気に呑まれる感覚。
けれど俺の中で、それを拒む余裕はもはや残ってなかった。
仕事量と支払い条件。
今の俺にとって、それが最重要だ。相手が社長だろうと腐れ女だろうと、背に腹は代えられない。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
気づけば、俺の口からその言葉が出ていた。自動的に。
岡部はそれを聞くなり、石原と杉田の方を見てクスッと笑った。
「で、ふたりは先輩にこんなおいしい仕事、あっさり譲っちゃっていいの? ……先輩想いなのねぇ? ふふふ」
その調子で二人が何か言いかけたのを、すかさず遮るように、さらに続ける。
「じゃ、早速だけど――今進んでる案件の説明、してもいいですか?」
まったく、マイペースな女だ。
けれど、たしかにこの女、仕事を掴んで離さない嗅覚を持っている。
そう直感した。
「あ、どうぞ。お願いします」
――おいおい、ちゃんとした自己紹介もそこそこに、いきなり仕事か。
まぁでも、俺のことは石原と杉田からそれなりに伝わっているんだろう。
そう思えば、不思議でもない。
岡部が差し出してきたのは、熱帯魚専門店のチラシ案件だった。
仕様はB4サイズの片面フルカラー。
素材のデータはCD-Rに焼かれていて、それをその場で手渡された。
ちゃら書き荒めのラフスケッチも描かれていて、要望の雰囲気もざっくりとは見える。
前回の見本からトンマナもしっかり理解できる。
正直、そこまで難しい仕事じゃない。
この程度なら明後日には一度、初稿を送れそうだ。
ひと通り話が終わり俺は、ほんの少しだけ口角を上げて言った。
「この最初のお仕事なんですけど、ギャランティは……見てから決めてもらって構いませんよ」
「さっすが〜先輩さん! お言葉に甘えます〜!」
またあの笑顔だ。嬉しそうに目を細めて、立ち上がるなり、まくしたてるように言った。
「じゃ、よろしくお願いしますねっ! 私もう行きますんで〜! ありがとうございましたー! 今後とも、よろしくお願いしますー! また電話かメールしますね!
あ、ふたりとも元気でね!ではではーっ!」
立て続けに言葉を並べながら、パッと伝票を手にレジへ直行。
精算を済ませると、そのまま旋風のように喫茶店から出て行った。
……まさに嵐。
去っていったあとの静けさに、昔見た怪獣映画を思い出した。
突然現れ、街をぐちゃぐちゃに踏み荒らして、散々暴れたあげく、ふいっと空へ飛び立って行く怪獣。
そのあとに残される、あの呆然とした静寂――それと、まさに同じ感覚だ。
「……なんか、すごいガチャガチャした人だね」
苦笑い混じりに二人に尋ねると、杉田が肩をすくめて言った。
「でしょ? あれ、いつものことなんですよ。下手すりゃ一時間遅れなんてまだマシで、ひどい時なんか、二時間以上遅れてきて、打ち合わせは一〇分とか二〇分で終わりです」
石原が申し訳なさそうに、ぽそっと付け加えた。
「まぁ、あんな人なんで……とりあえず今回の案件だけやってみてください。
もし合わなさそうなら、そのときは遠慮なく断ってもらっていいですから。 すみません、ほんと……」
「いやいや、大丈夫だって」
俺は椅子から立ち上がりながら言った。
「データもあるし、ラフもある。勝負早そうだし、金払いが良いんなら、全然OK。やってみるよ。ありがとうな」
そう言って、三人で喫茶店をあとにした。
後ろのドアベルが小さく鳴った頃には、もう次の段階に気持ちは切り替わっていた。
嵐のような打ち合わせだったけど、意外と悪くない――
そんな予感が、胸の奥にほんの少しだけ残った。
喫茶店を出たあと、三人でしばらく駅前まで歩いた。
もう昼を過ぎていたが、食欲は不思議と湧かなかった。あの嵐のような時間で、腹の中までかき混ぜられたような感覚だった。
信号待ちの間、誰とも口を利かずに空を見上げた。
薄い雲が途切れがちに流れ、やけに遠く見えた。風が冷たい。日差しだけがやけに優しい。
ぽつりと杉田がつぶやいた。
「……まぁ、でも先輩ならなんとかしますよね」
「そんな雑な投げ方あるか ま、…なんとかするけどね」
笑いながら返すと、杉田も石原もほっとしたように笑った。
彼らなりに気を遣っていたのだろう。気まずくならないよう、俺の一言を待っていたのかもしれない。
駅で別れたあと、俺はまっすぐ家に戻った。いや、戻るしかなかった。 休日バイトの時間までは、あと二時間ちょっと。
急いでデータ確認のためPCを立ち上げ、ざっと資料の中身をチェックする。CD-R、ラフ、メモ書き、添付された過去のチラシ。
……まぁ、情報量はそれなりに揃ってる。クセはあるが、内容としてはむしろやりやすい部類かもしれん。
だけど。
――このテンションに、ついていけるか?
それが問題だった。
データのファイル名が、たとえば「AQUA3_四月祭り!★_あたし案」とか「参考にして!これイケてたやつ◎」とか、ひとつひとつが地味にパンチある。
メモ書きも絵文字付きで、
【ここの文字、目立たせたい!!→でもやりすぎNG(汗)あと、サカナ感出して!<□彡←これはイカ】
いや、たしかに情報としては伝わるんだけどな。
……たしかに、伝わるんだけどなぁ。
ふと、溜め息まじりに笑ってしまう。マジメにやろうとしてるからこそ、なんだか可笑しい。
ただの天然か、それともあえて崩してるのか。
どちらにしても、独特のセンスであることは間違いない。
午後四時。ひと段落したところで、コーヒーを入れて一息つく。
そのとき、スマホが震えた。
ピロン
LINEだった。送り主は、もちろん――岡部佳美。
【岡部:
お疲れさまでーす!データ、見れました?
何か分からないことあったら、いつでもLINEください!
(わたし、けっこう夜型です笑)】
既読をつけるだけにして、少し考えた。
いま返信したら、絶対チャット状態になる。
だけど『けっこう夜型ですって』……いや、夜更かしするから遅刻すんじゃねえの?
肩をすくめて、結局短く返す。
【篠田:
お疲れ様です。今日はありがとうございました。
データ無事見れました。
ひとまず確認しましたので進めてみますね。
また分からない点があれば連絡します。よろしくお願いします】
返事は早かった。
ピロン
【岡部:
わー!ありがとうございます!助かります!!★
先輩って、やっぱできる男って感じ〜
(てか、文章が真面目すぎて、逆にドキドキしますWWW)】
うん、やっぱりテンション高ぇな。
なんというか、温度差というより気圧差って言った方が正しい。
でも……悪い気はしない。
俺に対して必要以上に気を遣わず、遠慮なく自分の言葉でぶつけてくる。その軽さが、なんだか救いにも感じる。
やたらと気を使われるのも、疲れるだけだ。
惰性で務める昼間の会社、若い子たちに指示される雑用中心のバイト、金のためだけに、夢なんかじゃなく借金返済のための労働で俺はいつしか心を無くしたような空気の中で生きていた。
昼も夜も働いて、疲れ果てた顔でコンビニ弁当を食う毎日。
そんな俺に「できる男って感じ〜」なんて言ってくる奴は、そりゃあ居なかった。
……だから、ちょっとだけ、嬉しいのかもしれない。
日が暮れかけて、部屋の中に差し込む光が赤みを帯び始める。
そろそろバイトに向かう時間だ。
パソコンを閉じ、スマホの通知を確認すると、またLINEが一件届いていた。
【岡部:
そういえば、あの熱帯魚屋さん、実はわたし、
メダカすら飼ったことないんですよね〜笑笑
魚のこと、何も分かってないのに営業してて、我ながらスゴいWWW
じゃ、また連絡しまーす!お仕事ファイトです★】
やっぱり、おもしろい女だ。
現場をかき回しながらも、ちゃっかり仕事は取ってくる。
無知を笑い飛ばすほどの胆力を持って、自分の空気を作って周りを巻き込み走り続ける。
そんな感じの仕事スタイルかな。
そんなデキる営業――岡部佳美。
この女が、これから俺の生活にどう入り込んでくるのか。
まだわからない。でも、確かに何かが始まった気はしている。
バッグの中で揺れていた図面ケースの影が、今もなお、目の奥に焼き付いて離れなかった。
2 告白
翌日、会社の仕事を終え、バイトを済ませ、帰宅後ようやくデザイン作業に取りかかった。
会社は朝八時から夕方五時まで。バイトはその一時間後、六時から九時まで。
家に帰って飯食って落ち着けるのは、いつも二十三時前 その繰り返しだ。
幸い、前日にほとんど仕上げていたこともあり、熱帯魚店の広告は予定よりも早く完成した。
その旨を岡部に連絡しようと電話をかけたが、応答はなかった。
時間は十二時前。
まあ、早い人ならもう寝ている時間だ。無理もない。
留守番電話に一言残し、完成データはメールで送っておいた。
そして翌日、昼休み。
再度電話をかけてみたが、またもや繋がらなかった。数回のコールの後、留守電に切り替わったが、今回は何も残さず電話を切った。
もう一度だけ――そう思ってリダイヤルしたところ、三コール目で通話が切られた。
「ブッ… プーーーー」
……打ち合わせ中か何かだったか。
でも着信は残る。折り返しが来るだろう。そう思って、俺はそのまま仕事に戻った。
夜になりバイトも終え、帰宅してカップラーメンに湯を注いだ時だった。
ケータイが鳴った。画面には「岡部」の名前。
「もしもし? どう?できました?」
開口一番、明るすぎるくらいの声が飛び込んできた。
「え? 昨日メールでお送りしましたよ。届いてませんでしたか?もういっかい送りましょうか?」
俺は少し焦った。宛先間違ったかな?
「えっ、そうなの? じゃあすぐ確認して連絡しますねー!」
そう言って、一方的に通話は切られた。
……ああ、そうだった、こういう感じか。
事前に石原と杉田から聞いていた印象とぴたりと重なって、苦笑まじりにため息が出た。
そのまま食事を済ませ、風呂にも入らずにダラダラと時間が過ぎていった。
二時間ほどが経ち、ふと時計を見ると、もうすぐ深夜二時になろうとしていた。
――連絡、来ないな。
思わずケータイを手に取ったが、時刻を見て思い直す。
いくらなんでもこの時間に電話をかけるのはまずい。
相手は俺ら世代のデザイナーじゃないんだから。
その夜は、風呂も後回しにして、布団に倒れ込んだ。
次の日の夜、ようやく彼女から連絡が来た。
「篠田さん、すごいですね! 本当にいいです! 今までのと比べても、断然良いですよ!特価品コーナーの見せ方とか、もう……さすがです!原稿にもラフにもなかったのに、あそこまでやってもらえるなんて、クライアント絶対喜びますよ!」
褒め言葉のオンパレードだった。
――久しぶりに、誰かに褒められたな。
この歳になると、滅多にないことだ。
別に特別な意識でやったわけじゃない。
今まで通りの仕事を、今まで通りにこなしただけだ。
そんな褒め言葉を受け取った瞬間、ふいに石原と杉田の顔が浮かんだ。
……あいつら、どんな仕事をしてたんだ?
「じゃあ、すぐクライアントに見せてOKもらいますね! 返事がきたら、また連絡しまーす!」
彼女はまたしても、勢いそのままに通話を終えた。
振り回されてる感は否めない。
けれどその勢いに、妙な温度があるのも確かだった。
しかし、その後一週間――岡部からの連絡はぱったりと途絶えた。
さすがに気になってこちらから電話をかけてみるも、留守番電話へと繋がるばかりだった。
……まさか、ヤラれた?逃げられたか?
幸い、まだ本番のデータは渡していないが、不安だけがじわじわと広がっていく。
そんな矢先、ようやく携帯が鳴った。
画面には「岡部」の文字。
「もしもーし! お客さん、とっても喜んでくれましたよ! 即OKでした!」
開口一番、それだった。
思わずムッとして、口をついて出た言葉があった。
「あの……大丈夫ですか?」
「え? 何が?」
「いや、少しレスポンスが悪かったので。何かあったのかなと思ってしまって」
一瞬、間が空いた。
「……すみません。あの……実はあまり体調が良くなくて。まったく動けない日があって……浮き沈みというか、なんと言うか」
しまった。余計なことを言ってしまった。
「え?あ…こちらこそすみません。ご病気とは知らず、失礼なことを言ってしまいました」
「ううん。病気じゃないよ……。ただ、時々鬱が来るの。今日は大丈夫だけど」
鬱――
親父が亡くなる直前、あの人も同じような状態になっていた。
「……あまり無理なさらないでください。データ、どうしましょう? OKなら印刷に回さないといけないですし、何ならこっちで俺から手配しましょうか?」
「ねぇ、篠田さん住まいはどこですか? 今から取りに行ってもいいですか?」
「えっ、今からですか? …ああ、でももうすぐ最終電車が……」
「大丈夫。あたし電車は乗れないの。パニック障害があって、人混みがダメなんです。だから車で行きますよ」
……なるほど。
いろいろと、抱えているんだな。
だからこそ、動けるときは一気に動こうとするのかもしれない。
勝手な想像だが、俺はそう思って、住所を伝え会うことにした。
それから一時間も経たず、インターホンが鳴った。
玄関のドアを開けると、そこにはあの笑顔があった。
明るく、人懐っこく、綺麗な顔立ちのその奥に、病と戦うもうひとつの顔がふいに重なって見えた。
「ごめんなさいね、夜遅くに。上がっても大丈夫です?」
遠慮のない物言い。
図々しいというよりも、人のプライバシーに踏み込むことをためらわない性格――だが、不思議と不快ではなかった。
その雰囲気の裏にあるものが、見えた気がしたからかもしれない。
彼女は、頑張って普通を装っている。
そう感じたとき、なぜだか放っておけない気持ちが湧いてきた。
部屋に招き入れ、湯を沸かして、湯呑みにお茶を注ぐ。
用意していたCD-Rを手渡しながら言った。
「すみません、散らかってて。これが本番データです」
「ありがとうございます。ところで、あの特価品の部分なんですけど……」
彼女はCDケースを眺めながら続けた。
「詳しい説明が入っていて、すごく分かりやすくなってたんですけど……この商品、知ってたんですか?」
対象は、水槽の水をクリーンに保つためのバクテリア繁殖用装置。
俺は軽く頷いた。
「調べて、追記しました。せっかく良い商品なんですから、ちゃんと伝わった方がいいと思って」
「すごい……そこまでしてくれる人、初めてです」
目を見開いて、岡部が感心したように言った。
「たいていの人は、原稿通り、ラフ通りにやって終わりなのに」
「そうですか? でも、そういうところをきちんと詰めないと、デザイナーとしての意味がないと思うんです。指示通りに作るだけなら、ただのオペレーターですから…」
――しまった。
言葉が滑った。
誰かの仕事を蔑むような物言いは、しないようにしていたのに。褒められてうれしくなって調子にのってしまった。
不意に、石原と杉田の顔が浮かんでしまった。
「素晴らしいです……!」
岡部はまっすぐ俺を見た。
「そんなデザイナーをずっと探してたんです。これからも長くお付き合いしたいです。よろしくお願いします!」
そう言って手渡された封筒には、五万円が入っていた。
想像していた金額よりも、ずっと多い。
嬉しそうな笑顔と、大きな目がこちらを見つめてくる。
一瞬、岡部がとても可愛く見えた――
……馬鹿か、俺は。
仕事だ。仕事。これは仕事だ。
心の中でそう言い聞かせながら、俺は封筒を静かに受け取った。
「いや……仕事のやり方は、ただ自分がこうありたいと思ってるデザイナー像に沿ってるだけなんです」
少し照れ隠しのように笑って、続けた。
「でも、こうして仕事が続くのはありがたいです。本当に、こちらこそよろしくお願いします」
その言葉に嘘はなかった。
生活のため――というだけじゃない。自分を必要としてくれる存在がいるということ、それが心から嬉しかった。
同時に、石原と杉田にも感謝の気持ちが湧いた。
彼らがこの縁をつないでくれなければ、今こうして話していることもなかったのだから。
そのときだった。
「…っと……すみません。…ちょっとだけ……横にならせてもらっても、いいですか?」
岡部の声がかすかに震えていた。
視線を向けると、彼女は肩で大きく息をしていて、額からは汗が滲み出ている。顔色は真っ青だった。
「え? だ、大丈夫ですか? どうされました?」
倒れかける岡部に近寄り肩を掴んだ。
小さく華奢な身体は震えていた。
慌てて座布団を二つ折りにして、彼女を横たえさせる。
寝室からタオルを持ってきて、水で濡らし、彼女の額と目元にそっと当てた。
「……ありがとう。たまにこうなるんです。少し休めば落ち着くので……すみません、ちょっとだけ…」
「少し休めば大丈夫なら……良かったです。無理しないでください。 何か必要なものがあれば言ってくださいね」
「……ありがとう」
目元を隠すタオルの下から覗く唇。
その形が、妙に艶やかに見えた。
――こんなときに、何を考えてるんだ俺は。
変な性癖でも芽生えたのかと、自己嫌悪が一気に襲ってきた。
ほんの十分ほどで、彼女はゆっくりと身体を起こした。
「……ありがとう。本当に、もう大丈夫です」
「こういうの、よくあるんですか?」
「……うん。鬱の影響かもしれません。突然、倒れそうになっちゃうことがあるんですよ」
「病院には……行ってるんですか?」
「ううん、行ってない。怖くて……なんか、どうしても足が向かなくて」
「そうですか……でも、あまり無理なさらないでくださいね。できれば、ちゃんと診てもらったほうがいいと思いますけど……」
「……うん、ありがとう。でも……私は大丈夫」
――病院を避ける人。
そういう人もいる。わかってはいるが、どうしても心配が先に立ってしまう。
でしゃばりなのは解ってるが言葉が出た。
「……俺、日中は会社勤めで、夜はバイトもしてるので、時間の自由は少ないんですが……。もし何か手伝えることがあれば何でも言ってください。印刷のネット発注とか、クライアントへのゲラ送付とかなら、夜中でも対応できますし。…あ、もちろん、仕事としてですが受けられますんで」
岡部が、少し笑って言った。
「ありがとう……やっぱり、優しいですね」
その潤んだ大きな目で見つめられると、また心がぐらつく。
俺は昔から、苦しんでいる人を見ると放っておけない性分だった。
これがやっかいな性格で、ヒーローものの番組が大好きな子供だったからかもしれない。
今回もそれが下心なのか、お人好しなのか、それとも小さくても町工場の社長の息子として育った、少し甘やかされた気質なのか――
自分でもよく分からなかった。
一時間ほど雑談をして、岡部は再び車に乗り帰っていった。
最初に感じたあの嫌悪感は、すっかり消えていた。
もらった封筒を開けて、中の札を数える。やっぱり五万円。多いとは思ったが、ありがたく受け取ることにした。
すると、封筒の底から小さく折りたたまれた紙が一枚、ぽろりと滑り落ちた。
何気なく拾って広げる。
メモ帳の切れ端に、細くて丸い文字で、ひとことだけ。
【『今後もよろしく料』込み! よければ、これからも私の味方でいてください】
――なんだ、これ。
一瞬、からかってんのかと思った。
何か試されてるような、そんな気持ちになった。
さっき倒れたの…演技じゃないよな。
深く考えても、答えは出ない。ただ、その『味方でいてください』って言葉だけが、妙に心に残った。
さっきの湯呑みにまたお茶を注ぎなおす。
けど、もう冷めかけていた。
「ん?」
テーブルの上には渡したはずのCD-Rがあった。
「忘れてんじゃん」
連絡しようとスマホを持ったとき――インターホンが鳴った。
玄関を開けると、また彼女だった。
「ごめんなさい、忘れ物しちゃって」
岡部はそう言って、笑顔で頭をかいた
「……今連絡しようとしたとこですよ」
「CD!あれ、ないと私、死んじゃうから」
そう言って部屋に上がりこむなり、机の上のCDケースを手に取った。
「よかったぁ気づいて。駅前まで行って信号で気づいたの。バッグに無いってわかって慌てて取りに来ちゃった。^U^ターン禁止のとこ、無理やり^U^ターンしちゃった。へへへ」
そう言って、勝手知ったる様子でさっきまで座ってた座布団にもう一度座り込む。
まるで、この部屋が昔からの馴染みの場所みたいに、自然な所作だった。
さっきの時間の続きが始まったようだ。
さっきと違うのは話し口調が最初の喫茶店の時と同じくペラペラと良くしゃべるようになった事か。
「ふぅ、ごめんなさいね、バタバタで、あせったー。」
「いいですよ。さっきはかなり辛かったみたいだったし、もう大丈夫っぽいですね」
「…変でしょ。自分でも嫌になる。元気になったり、突然エネルギー切れたり…」
岡部はちょっとうつむいた。
「あ、……俺の。…俺の親父も、鬱になってた時期があったんです。最期の方は特に…」
心の中で自分で自分に突っ込んだ。
最期とか言うな! バカか俺は
岡部は、それを聞いても何も言わなかった。
ただ黙っていた。
やべっ。俺は焦って話題を変えた。
「あ、そういえば岡部さん 絵、下手ですよね。メモに不気味なサカナ描いてましたね」
「うそ! 可愛く描けてたはずですよ!メダカ」
ちょっと顔を赤らめ彼女は言った。
「へ?あれメダカだったんですか、俺はてっきり深海魚かと」
「へぇへぇ、どうせあたしは、絵が下手ですよ」
ぷっとふたりで笑いあった。
そのあとも他愛のない話を少し続けてふと岡部が立ち上がった。
「じゃ、そろそろ……なんか、ちょっとだけ、楽になった。ありがとう」
それだけ言って、今度こそ帰っていった。
その背中は、なぜかさっきよりも軽やかに見えた。
その夜――またLINEが届いた。
【今日はちゃんと寝れそうです。ありがとう★
※あとこれ、がんばって描いてみました(これは上手く描けた)】
ピロン
続けて送られてきたのは、色鉛筆で描かれたメダカのイラスト。
……いや、メダカ、かな?
下あごが少し出てるのは特徴あってるけど、ここまで下あごを大きく描くから深海魚に見えるんだよなぁ。
けど、なんだかそのちょっとズレた感じがたまらなく可笑しくて、思わず吹き出してしまった。
「……これは、たしかに癒やし系だな」
スマホを伏せ、布団に入る。
目を閉じると、彼女の笑顔と、あのメモが、頭の中で静かに重なった。
翌朝、いつもより早く目が覚めた。
空はまだ青白くて、街の音も遠い。
部屋に静かに光が差し込んで、なんとなく、今日が少しだけ特別な日になる気がした。
昼過ぎ、仕事の合間にふとスマホを見ると、石原から着信履歴が入っていた。
バイトの前に折り返すと、すぐに出た。
「先輩……あの岡部さん、どうですか?」
少しだけ迷ってから、答えた。
「わからん。…でも、まだ断る気にはなってないよ」
「……そうですか」
電話の向こうで、沈黙がひとつ息を吸った。
「もし、ほんとにしんどくなったら……遠慮なく言ってくださいね。
俺、なんとなくですけど、あの人、どこか壊れかけてる気がしてて……」
――壊れかけてる。
それは、俺もどこかで感じていたことだった。
「おう、ありがとう。気を付けるよ」
そう言って電話を切った。
でも――
もし、ほんの少しでも修理できる部品があるなら。
もし、その部品の一つに、自分の存在が役に立つなら。
そう思う気持ちは、甘さなんだろうか。
相手が女だからか? ひょっとして惚れたのか?
それとも、助けたいなんて気持ちはただの自己満足か――
そんなことを思いながら、バイトへ向かった。
# 3 エス
あれから数日が経ったある日の昼間、彼女から連絡があった。
「あの……ごめんなさい。ちょっと……助けてください。 今日の夕方、どうしても行かないといけない仕事があるんです。 内容は次の案件の原稿をもらって、説明を受けるだけなんですけど……どうしても、身体が動かなくて……」
電話口の声は、明らかに涙を含んでいた。
「……その仕事も、篠田さんにお願いしようと思ってたものなんです。本当は自分で行かなくちゃいけないのに……」
情けない、と言わんばかりに小さく震える声。
俺は思わず、頭の中で想像してしまっていた――
泣きながら、でも必死で外に出ようとする岡部の姿を。
「わかりました。俺が行きます。場所と担当者、教えてもらえますか?
それと、可能なら一本だけ先方に電話入れておいてもらえると助かります。三十分で会社を出ます」
俺はすぐに会社に適当な理由を書いて早退届けを出し、彼女の客先へと向かった。
現地では、岡部が急用で来られなくなり、代理として俺が伺った旨を伝えた。
特に問題はなかった。内容の説明を受けて、原稿を受け取るだけの簡単なやりとりだった。
帰り際、担当者がふいに言った。
「篠田さんでしたっけ。あなた岡部さんと、最近組んでるんですか? 彼女、体調あまり良くないみたいですね。今日も体調不良だって聞いて……
元気なときはすごく弾けてるから、余計に心配になるんですよね。……まあ、とにかく、よろしく頼みます」
「はい、ありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします」
――どうやら、クライアントにも彼女の状態はある程度知られているらしい。
ということは、今回のようなドタキャンも、たびたび起きているということだろう。
原稿を受け取り、客先を出てすぐに岡部に電話を入れた。
……が、繋がらない。
やはりまた、具合が悪くなってしまっているのかもしれない。
留守番電話に簡単な報告だけ残し、原稿を持ち帰った。
会社は早退したし、バイトまでまだ時間がある。
せっかくなので、さきほど説明を受けた内容を元に、仕事を進めることにした。
パソコンに向かいながら、ふと彼女のことが頭に浮かぶ。
――鬱って、もっと気力を失ったり、何もかもがどうでもよくなったりするものじゃないのか?
テレビやネットで見聞きした程度の知識しかないが、彼女の様子はどこか違っているような気もする。
何か、別の病気なのか? 脳とか、神経とか……。
やっぱり、病院に行ったほうがいいんじゃないか?
今のままじゃ、あまりにも不安定すぎる。
家族や兄弟は、彼女のことをどう思っているんだろう。
家族構成なんて聞いてないけど……
いや、そもそも彼氏がいてもおかしくない。いたら、俺が心配することでもない。
そんな考えが、次から次へと頭をよぎる。
……そうこうしているうちに、バイトの時間になった。
バイトを終えてロッカーで携帯を確認すると、岡部からの着信が入っていた。
急いで、電話をかけ直した。
「もしもし、篠田です。大丈夫ですか?」
電話の向こうから聞こえたのは、少し元気を取り戻したような、でもまだ無理して笑っているような声だった。
「ええ……今日は本当に、ありがとうございました。助かりました……つい、甘えてしまって。……篠田さん、ほんと優しいですね。 あの……晩ごはんってまだですよね? よかったら、一緒に食べませんか?」
「え?あぁ、…はい、いいですよ。俺も、ちょうど今バイト終わったところなんで」
今日の内容報告もあるし、まぁいいだろう。
彼女は車で迎えに来ると言う。
場所を伝えて、少しすると――
静かな通りに、彼女のワゴン車が止まった。
「お待たせー! さ、乗って乗って!」
後部座席から、小さく吠える声が聞こえた。
「ワンワン!」
チワワだ。ロングコートチワワ。目がくりくりしていて、体は掌ほどの大きさ。
黒ベースに眉やマズルが茶色のブラックタンと言うヤツか。
「あ、この子はソラ。あたしの相棒!へへへ」
……なんだ?
さっきの電話では今にも倒れそうな声だったのに、えらくテンションが違うじゃないか。
「あぁ、元気そうで良かった。ソラくん、よろしくな」
助手席に乗り込むと、当然のようにソラが俺の膝に乗ってきた。
軽い。体温だけがほんのり伝わる。
……ん? 犬がいるってことはファミレスとかは無理だよな。
車に置いておくのも今の季節じゃ厳しいし。
そんなことを考えていると、彼女が運転席から言った。
「ね、ウチでいいでしょ? 近くだし、ちょっと在り合わせで悪いんだけど、作ったから食べてよ」
明るく、屈託のない笑顔。
まるでいいことでもあったような、軽快な口調だった。
「え? いいんですか? それより……身体、大丈夫ですか? まぁ、元気そうには見えるけど」
「うん、もうすっかり。そんなことより、本当にありがとう。助かりました。
いいお客さんだったでしょ? あたしのクライアントは、みんないい人ばっかりなんだから! へへへ。ご飯食べながら、今日の話、聞かせてね」
……なんだろう。
子供っぽい無邪気さというか、甘え上手というか。
ちょっと、いや、かなり可愛いと思ってしまった自分に、軽く警鐘を鳴らす。
「それより……いいんですか? こんな時間にお邪魔してしまって。ご家族の方とか、迷惑じゃ……」
「一人暮らしだよ。あ、ソラと二人暮らしかな」
「そうですか。じゃあ、体調悪いときとか心配ですね」
彼女は急に表情を変えた。
「……嘘。今はいないけど、同居人がいた。
まぁ、この鬱も、半分はアイツのせいなんだけどね」
「彼氏さん……ですか?」
「うん」
おっと。やっぱり彼氏がいたか。
痴話喧嘩や、すれ違いも、症状の悪化に影響してるのかもしれない。
彼女のワゴン車は、古い二階建てのアパートの前で停まった。
「ここの二階。さぁどうぞ、汚いとこだけど。あ、ソラお願い」
先に駆け足で階段を上がっていく彼女。
俺はソラを抱えて、少し遅れてそのあとを追った。
「お邪魔しまーす」
「さ、入って入って」
……部屋が、暗い。
出迎えてくれたはずなのに、部屋の明かりは間接照明ひとつ。
天井のシーリングライトは点けていない。
「あの……電気、点けましょうか?」
「ごめんなさい!点けないで……。この方が落ち着くの」
彼女はそう言って、机の上にあったアルコールランプに火を灯した。
「せめて、これで勘弁を」
「お、アルコールランプなんてあるんですね。懐かしいな」
ぼんやりとした炎が揺れて、影が壁に伸びた。
やっぱり暗い。でも、鬱というのはこういうものなのかもしれない。
自分にできることは、黙って受け入れることだけだった。
「ねぇ、タバコ吸ってもいい?」
「あ、じゃあ俺も。岡部さん、吸うんですね」
二人して、アルコールランプの火でタバコに火を点けた。
「お腹空いてるでしょ? すぐ用意するから、ちょっと待ってて」
タバコを咥えたまま、彼女はキッチンで忙しなく動き始めた。
数分後、おでんの鍋を手に戻ってきた。
「お、旨そう。」
彼女は慣れた手つきで大根、厚揚げ、タマゴ、糸こんにゃくをよそってくれた。
「いただきまぁす!」
あつあつの大根を口に入れて、ふうふうと冷ましながら尋ねた。
「岡部さん、鬱って……長いんですか? 何か原因とかって……聞いてもいいですか?」
彼女は、笑顔のまま答えた。
「うん、もう三年くらいかな。
原因はね……当時の職場で、上司や同僚とうまくいかなかったり、彼と喧嘩したり、家族とすれ違ったり……色んなことが、重なっちゃって」
「そうだったんですね。今は……彼氏さんやご家族とは?」
「パパとママとは、今はもう仲いいよ。 でもお兄ちゃんとは二年以上会ってない。
彼氏…ヒロ……っていうんだけど、彼もね、この一ヶ月ほど帰ってきてない。
それもまた、鬱が悪化した理由のひとつかもね」
「そういえば……今日、電話のとき体調悪かったみたいなのに。もう大丈夫なんですか?」
「うん。強制再起動できるいいのがあるの」
「え? そんな即効性のある薬とか、あるんですね」
彼女は、少しだけ間を置いて、言った。
「……篠田さん、優しかった頃のお兄ちゃんにちょっと似てる。
心配してくれるの、なんか……ちょっと、好きかも」
ドキッとした。
「……ちょっと、呑んでます? 酔ってるとか?」
「アハハ、あたしお酒は一滴も飲めないよ。それに今、車運転してたじゃん」
と、そこで彼女は少し声のトーンを落とした。
「……エスは、やったけどね」
「……エス?」
「うん、エス」
「エスって……何ですか?」
「ううん、なんでもない。ただの再起動の薬」
「……へぇ、そんな鬱の薬があるんですね」
そのとき、俺はエスが何なのか、まったくわかっていなかった。
何かの処方薬、もしくはサプリか何か栄養剤の一種だろうと、勝手に思い込んでいた。
その後も、テーブルを挟んで向かい合いながら、おでんをつつきつつ仕事の話をした。
夜はすっかり更けていた。彼女は俺を家まで送り届けてくれた。
「ありがとう。おやすみ。運転、気をつけて」
「うん、おやすみ〜」
彼女はにこっと笑って、軽く手を振り、来た道をそのまま車で帰っていった。
俺は静かな部屋で少しだけ残りの仕事を片付け、
また風呂にも入らずに、ベッドに潜り込んだ。
エスという言葉だけが、どこか引っかかったまま――
目を閉じても、しばらく眠れなかった。
翌日 昼過ぎ、彼女からLINEが届いた。
【昨日はありがとう。
いろいろ話しすぎた気がして、ちょっと反省してるWWW
あ、ソラもありがとうって言ってるよ!】
文章は軽い。
けれど、どこかで気まずさを打ち消すために明るく振る舞っているような印象を受けた。
俺は少しだけ悩んでから、こう返した。
【こちらこそありがとう。
おでん美味しかったし、元気そうで安心しました。
無理だけは、しないでくださいね。】
既読はついたが、返信は来なかった。
数日後、次の打ち合わせが入った。
場所はひさびさに例の喫茶店。
午後二時。昼下がりの陽射しが心地よい時間帯だった。
「ごめーん、また遅れたー!」
店内に入ってきた岡部は、相変わらず明るくて元気そうだった。
席に着くなり、さっそく資料を取り出して喋り始める。
「今回の案件はね、女性向けサロンのフライヤー! ちょっとおしゃれ寄りでお願いしたいんだ〜。
ほら、こういうイメージってあるじゃない?ほの暗い照明に、アロマの香りが漂う空間みたいな!」
話しぶりは軽快だ。
「資料はこれね。あとでラフ送るね〜。たぶん夜になるけど、それでもいい?」
「もちろん、大丈夫」
俺の返事に、岡部はふと、少しだけ表情を緩めた。
「……ほんと、助かってるんだ。
最近、なかなか人と信頼関係って築けなくてさ。こういう仕事してると、特にね。
期待って、されすぎると重いし、されなさすぎると消えたくなるんだって思いません?」
ぽつりとこぼされたその一言が、心に引っかかった。
「……そうですね」
「うん。でも、篠田さんってちょうどいいんだよね。
変に踏み込んでこないし、でもちゃんと気にかけてくれてて」
俺は黙って、コーヒーをひと口飲んだ。
「……って、あたし、また語ってる?やだやだ〜。ごめんね、仕事の話だったのに!」
彼女は笑ってごまかした。
そのあとは、さくっと仕事の細かい話の続きを終えた
彼女はまたワゴン車に乗り込み、手を振って去っていった。
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