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天音とララのちょこっとごはん<Ⅰ>(#シロクマ文芸部)

     波の音が耳に優しい夕暮れ時の海沿いの遊歩道。
     私はララと連れ立って、少し長めの散歩に出かける。
     愛犬のララはミニチュアダックスフンドの3歳の女の子。人懐っこく無駄吠えをすることもない。特に躾をした覚えはないのに、人に触れられるのが大好きで、散歩中に声をかけられると、すぐに仰向けになってお腹を見せる。見知らぬ人でも優しく撫でてもらうと、嬉しそうに尻尾をぱたぱたと振ったりするのだ。
     ララは今日もリードを引っ張ることなく、私の歩調に合わせて歩いている。海風を受けながら軽やかに歩く姿は、散歩を心から楽しんでいるようだった。
    「まだ暑いけど、波も静かで気持ちいいね」
     ララに話しかけるように呟くと、私の顔を見上げて小さく首を傾げた。
     水平線の向こうでは、燃えるような夕日がゆっくりと海へ沈もうとしている。

     2026年春、インテリアコーディネーターの仕事を始めて9年目になるこの年に、私は祖母がひとり暮らしをしていた家を改装し移り住んだ。
     職場までは車で1時間ほどかかるようになったが、通えない距離ではない。家賃の負担がなくなったおかげで、経済的にもずいぶん楽になった。
     それに、コロナ禍をきっかけにリモートワークが定着し、出社は週に2日ほどで済むようになっていた。ララも広い庭付きの古民家を気に入ってくれたようだ。

     朝夕の散歩を日課にしていた私とララだったが、今日はいつものコースから外れて、右の横道に入ってみることにした。
     ララはいつものように、遊歩道から浜辺に下りて波打ち際を走りたいのだろう、何度も海の方角を振り返っていたけど、「たまにはいいじゃん」と、リードを引っ張った。
     右に折れる横道は今回初めて歩く道だ。人が二人並んで歩くのがやっとの道幅で、その両脇に民家が肩を寄せ合うように立ち並んでいた。
     もともと小さな漁港だったこの町は、過疎化が進み空き家が目立つようになっていた。高齢者の一人暮らしも珍しくない。祖母も10年前まではその一人だった。
     昔ながらの土塀に囲まれた民家が並び、手入れをする人のいなくなった庭や玄関先には、雑草が伸び放題になっている家も少なくない。
     しばらくララと歩いていると、一軒の庭先で老婆が野菜を洗っているのが目に入った。ララは足を止め、鼻をひくひくと動かして匂いを確かめている。玄関の表札には『荒木』と書かれていた。
    「こんにちは」
     声をかけてみたが、耳が遠いのか反応はない。
    「あのー、こんにちは」
     今度は少し声を張って、一歩近づいてみた。
     するとようやく気付いてくれて、手を止め顔をこちらに向けてくれた。
    「ああ、こんにちは。どちら様?」
    「すみません。今散歩中で、この春からこちらに移り住んできた者です。月森天音つきもりあまねと言います」
    「月森さん……月森千代子さんの親せきの方?」
     祖母のことを知っているらしい。
    「はい。祖母の家に今住んでいるんです。ご挨拶が遅くなりなりました」
    「千代子さん、元気かね?」
    「はい、京都の叔父の家で同居を始めて、元気にしているようです」
    「ああ、そうだったね……」
     荒木さんは視線を落し、縁側に腰かけ手招きをする。
     誘われるがままに、私も隣に腰を下ろした。
    「千代子さんはいいね。親孝行の息子さんがいて……」
    「親子喧嘩もしているようですよ」
     祖母は連れ合いの祖父を亡くしてから20年以上も一人で暮らしてきた。そのせいか、体は衰えても気丈さは少しも変わらず、「口だけは達者だ」と叔父が苦笑するほどだった。
    「それでも、幸せだわね」
     荒木さんは手拭いで顔の汗を拭いながら呟いた。
    「この家も昔は14人の大所帯で賑やかだったんだけどねぇ。今じゃ私一人きりだわ」
     荒木さんはぽつぽつと話し始めた。
    「去年あたりから物忘れがひどうなって、息子夫婦が施設に入れって言ってくるんよ。パンフレットをいくつも送ってきて、『どこがええかね』って……」
    「息子さん、心配されているんですね」
    「心配しちょーのかもしれん……何かあったら困ると思っとるんだろうねぇ。迷惑はかけられんけん、そろそろ覚悟を決めんといけんとは思うとる。でも、この家を空き家のままにしとくわけにもいかんけん、壊して更地にするって言うし、私の知らんところで話がどんどん進んで、ご先祖さんに申し訳のうてねぇ……」
     令和6年から、適切に管理されていない空き家は『管理不全空家』として勧告を受けると、固定資産税の優遇措置が外されるようになった。息子さんは、そのことを気にしているのかもしれない。
     古民家をリノベーションして賃貸物件にするという手もあるが、荒木さんにとって、この家は住まいではなく家族の歴史そのものなのだ。取り壊されれば、その思い出まで失われてしまう――そんな寂しさを抱えているのだろう。
    「天音さんって言ったかね。千代子さんの家も古うて、物持ちだったけん、片付けは大変だったでしょう」
     確かに片付けは大変だった。価値のある物などほとんどなく、物を捨てられない性分だった祖母は、壊れた家具や欠けた食器をそのまま使っていたし、ビニール袋や紙袋を溜めこみ、古本は部屋の隅にうず高く積まれていた。母やその兄弟たちの部屋はそのまま時間が止まったように残されていて、古着も山ほどあった。
     祖母を説得しながら、親族みんなで片付けを進めたが、本当に骨の折れる作業だった。使えそうな物はリサイクルショップへ持ち込み、それ以外は段ボールへ詰めていく。
     片付けるということは、思い出を捨てることでもある。祖母は、私たちが『廃棄』と書かれた段ボールへ品物を入れていくたびに、悲しそうな顔をしていた。
     そして廃棄業者のトラックがその箱を積み込んでいくのを見送ると、肩を落としてぽつり、「どうして捨てるかねぇ……」と呟いた。
     その祖母と同じように、戦後の物のない時代を生き抜いた荒木さんもまた、長年暮らした家と別れる決断を迫られているのかもしれない。
    「千代子さんに会ったらよろしく伝えてね。入居施設が決まったら連絡しますって……」
     そう言うと、荒木さんは腰をさすりながら、「よっこいしょ」と立ち上がる。
     私の足元で伏せていたララも、中断していた散歩の再開の合図と思ったのか、立ち上がり尻尾を振った。
    「さっき畑で採れたきゅうりだけど、*あばかんほど生ってしまって……食べてくれんかね?」
     ビニール袋に、見事なきゅうりを一本、また一本と詰めていく。気づけば十本ほどになっていた。
    「そんなにたくさん!」
     私が驚くと、荒木さんはにっこり笑った。
    「漬もんにしたら日持ちするし、捨てるのはもったいないけんね」
     そう言って、袋いっぱいのきゅうりを差し出す。
     それを見ていたララが「ワン」とひと声鳴くと、荒木さんはたらいの中から一本のきゅうりを取り上げ、ぱきりと二つに折った。
    「食べるか?」
     ララの鼻先へ差し出すと、匂いをくんくんと嗅いでから、ぱくりとひと口かじる。しゃくしゃくと小気味よい音を立てながら、おいしそうに食べ始めた。
    「ははっ、美味しかろう」
     その様子を見て、荒木さんは声を上げて笑った。
    「ありがとうございます。いただきます」
     荒木さんにお礼を言うと、私は右手にララのリード、左手にきゅうりの入った袋を提げ、ララと一緒に散歩を再開した。
     そして家に戻る頃には夕日はすっかり沈み、部屋の中は薄暗くなっていた。
     台所の明かりをつけ、夕飯の支度を始める。
    「きゅうりを食べなくちゃね」
     水を飲んでいるララに声をかけ、私はまずララのごはんを作ることにした。

    <ララのごはん>
    ★鶏むね肉(40g)を茹でて細かくほぐしておく。
    ★もらったきゅうり(4分の1本)を、小さな角切りにする。
    ★いつものドッグフードに、ほぐした鶏むね肉を混ぜ、茹で汁を少量かける。最後に刻んだきゅうりをトッピングして出来上がり。


     ララは「待て」が苦手だ。
     フードボウルを持った私が立ち上がると、もう落ち着いてはいられない。「よし!」の合図が待ち遠しくて、前足を交互にばたばたと動かしながら、「おて」と「おかわり」を何度も繰り返してしまう。
     それでもじらしていると、「クゥ~ン」と鼻を鳴らして催促をする。
    「はい、いいよ。お食べ」
     ララとのこのやり取りが私のお気に入りでもある。
     はぐはぐと夢中で食べるララを見ているだけで、幸せを実感する。

     ララのごはんを作り終えると、次は私の夕飯だ。一本だけサラダ用に取り分け、残りのきゅうりは全部からし漬けにすることにした。祖母から教わった味は、今でも私の大好物だ。

    <きゅうりのからし漬け>
    ★きゅうり1kg(約8本)をたたき、食べやすい大きさの乱切りにする。
    ★はちみつ(120g)、塩(50g)、からし粉(25g)をよく混ぜ合わせる。
    ★きゅうりを加えて全体によく絡め、一晩漬ければ出来上がり。

     サラダにしたきゅうりはシャキシャキとした歯ごたえで、とても瑞々しい。
    荒木さんの家を思い浮かべ、私ならどうリノベーションするだろうと、つい仕事モードになってしまう。
    「いけない、いけない」
     頭を軽く小突く。他人の私が口を出していい問題ではないし、余計なお世話だ。
     ただ、荒木さんが近々施設へ入ることを知れば、世話好きな祖母はきっと気に病む。そう思うと、胸が少し重くなった。
    「きゅうり、美味しかったね」
     ララの頭を撫でると、甘えるように膝の上へ乗ってきた。
     エアコンの冷風が効き過ぎていたのかもしれない。私はその小さな体を抱き寄せながら、祖母のことをもう一度考えていた。
     



    *あばかん→島根の方言で「たくさん」という意味。


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    シロクマ文芸部でのお題に沿って、『初めての保護猫』に続く新しい連載小説をスタートしました。
    小牧部長。よろしくお願いします。

     

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