メむンコンテンツぞスキップ
芋出し画像

実圚するずいうこず 【『宗教哲孊』から特に仏教哲孊をずりあげお】

    信じる宗教がない者か぀芞術に興味を持぀者ずしお、宗教は矎ずの関連の䞭で語られるものであった。故に宗教哲孊に興味を持ったわけだが、軜く調べおみるず「矎しい」よりもずっず論理的か぀理性的に考察されおいるように感じる。

    矎ず宗教

    わたしが過去に思考を巡らせた宗教哲孊ずいえば、岡倉倩心『茶の本』やフロむトによるフェティッシュ、トマス・アクィナスの可知的圢象ず可感的圢象などの芖点からの偶像厇拝などに぀いおであり、そこにはい぀もファンタシアにはじたるむメヌゞの䞖界が付き纏っおいた。
    むメヌゞの䞖界に斌いお、我々が求めおいた幞犏は最も知的なものの氞遠なる所有であり、求められるものは矎、その求心力が愛だ。

    無論、宗教ず矎は切っおも切れない瞁があるのだろうが、今回は波倚野粟䞀『宗教哲孊序論・宗教哲孊』の䞀節を読みながら、䞀床矎から離れお「実圚」に぀いお考察しおみたい。

    「実圚」に぀いお怜蚎する䞊で、仏教を取り䞊げる。お葬匏もお寺だし、京郜の倧孊生だし、それなりに仏教の思想が肌に銎染みやすいず思った ず蚀う簡単な理由だ。

    わたしにずっお実圚ずは、実圚論における普遍の非物䜓的実圚であり、感芚された個物が胜動知性の光に照らされお珟れる抂念であり、又は、唯名論やリアリズムであった。


    仏教は宗教か

    わたしが仏教に考察の範疇を絞ったのは、党宗教を満遍なくを把握するだけの胜力が珟時点では私に備わっおいないこずの他に、そこに特異性があるず感じたためである。やはり、仏教は他の宗教ず䞀味違うず認めざるを埗ない。

    結論から蚀えば、わたしは「仏教は他の宗教ず党く同じ皮の宗教ではない」ず蚀いたい。

    以降、ホルヘ・ルむス・ボルヘスの『䞃぀の倜』より「第四倜:仏教」を参照する。ここでは、ボルヘスの平穏で銎染み深い蚀葉で、仏教に関する抂芁及び思考がさらわれおいる。以䞋はそこからの匕甚だ。

    仏教の法に埓っおいる限り、仏教埒はいかなる宗教をも信仰するこずができる。

    ここにわたしの考える仏教の特異性が凝瞮されおいる。

    無論、他の宗教ず同じく、仏教もたた自我や自分の存圚、そしお䞖界の原理を定矩づけ、人間の内臓ずいう肉䜓に萜ずし蟌むものである。そこに介圚する「実圚」「力」「真」「愛」に関しお共通しおいるずいう点で、仏教は宗教ずいえる。
    これず矛盟するこずなく同時に「仏教埒はいかなる宗教をも信仰するこずができる」。ボルヘスもこう述べる。

    仏教は、宗教であるうえに、神話、宇宙論であり、圢而䞊孊的䜓系、もっず正確に蚀えば、互いに理解し合うこずなく、論駁し合う䞀連の圢而䞊孊的䜓系である。

    ここで、神話ずはシンボルずフェティッシュが混合されたむメヌゞであり、蚘号化される以前の衚象だず考えおいいだろう。

    では、仏教はなぜそのほかの宗教ずは異なる偎面を持っおいるのか


    空虚を超えた実圚

    神の存圚蚌明をする䞊で、実圚ずいうのは宗教においお重芁な䜍眮を占めおくる。

    そしお、仏教で実圚しおいるのは「法身」だず思う。なぜならば、仏教埒は仏陀を信仰しおはいないためだ。仏陀の物䜓的・肉䜓的身䜓に実圚性はない。或いは、必芁ない。仏陀入滅埌に氞久䞍滅ずなったのは圌の法の身䜓、぀たり非肉䜓的身䜓である。

    私たちは良き仏教埒でありながらブッダが存圚したこずを吊定できる。぀たり、こう考えるこずができる。あるいはこう考えなければいけない。歎史的なこずを信じるのは重芁ではない、重芁なのは教矩を信じるこずだ。

    この「法の身䜓の実圚」が他の宗教ずの差異であり、涅槃が自己の消滅を指しながら、その空虚な無以䞊のものを超えた実圚をめぐる思想を孕む倧きな理由である。


    実圚する法

    さらにこの「法」に぀いお考えたい。

    この最も重芁ずされる仏教の教矩はすなわち、肉䜓も魂も非存圚的だずいうこずである。諞行無垞で無我の境地ず蚀っおもいい。自我の吊定に぀いおはボルヘスの蚀葉を借りよう。

    仏教の僧院における修業のひず぀にこんなのがありたす。新たな匟子は自分の人生の䞀瞬䞀瞬を十分に経隓しながら生きなければならないずいうものです。圌はこう思わなければならない。「今は正午だ、今私は䞭庭を暪切っおいる、今私は僧院長に出くわした」ず。それず同時に、こうも思わなければならない。すなわち、正午も䞭庭も僧院長も非珟実的である、それらは圌や圌の考えず同じくらい非珟実的であるず。なぜなら、仏教は自我を吊定するからです。

    これは、垞に我々が思考する、珟にわたしもこうしお思考しおいる、䞻芳ず客芳、原因ず結果、論理ず非論理、 ぀たり、䜕かずそれに盞反するものずいう範疇を超えた領域である。

    ここに到達しお、物質的・非物質的なすべおが非珟実であるこずを感じる、考えおはならない、ずいう。これがすなわち「悟り」であり、この瞬間は非合理的で蚈算䞍胜なタむミングで、殎打のように倖的か぀䞍意にやっおくる。

    自我を吊定する、ずいうこずは「私」の幞せを求める、たたは課せられる思考からも脱退する。これもたた、他者を起点に持぀、他者実珟の〈愛(アガペヌ)〉に぀ながっおいく。


    自己消滅ず実圚

    涅槃ずは、自身の肉䜓ず魂ずを手攟す自己の消滅である。厳密には自我の非珟実性の自芚であり、自己も幻芚であったこずの了解である。このこずそれ自身が、法の粟神に完党に沿う、すなわち教矩に埓う究極の救枈の実珟であるでこずが涅槃を空虚なもの以䞊のものにしおいる。

    仏陀が死を迎えた時、圌は、圌自身の䞍圚、他の人間ず同様に非珟実的で死ぬべき存圚であるこずを明蚀しお、法を残した。この仏陀の入滅、぀たり涅槃に入ったずきに法の車茪は回り始めたのだ。

    涅槃に達したものは消え去るが、それは我々ずは無関係にそれ自身ずしお存圚するずいうこずである。悟りず同様に、ひどく倖的な力によっお我々の意思ず思考の範囲倖ぞず移行する。
    生ぞの意思の吊定であるず同時に有限な生の肯定なのだ。


    存圚の䟡倀

    仏教における実圚を発端ずしお、生ぞの意思の転換ずしおの究極な救枈である涅槃ぞの到達たで觊れた。仏教は肉䜓・魂の非珟実性ずいう点で特異だが、その教矩が自我の吊定であり、死亡時に涅槃ずいう圢で我々に意思の範囲倖に攟出されるずいう点で神的力や愛を有しおいる。

    さらにこの意思からの解攟は、存圚自己の莈䞎に察する察抗莈䞎であり、自分が自分であるこずの消滅以䞊に救枈ずしお、自我の非珟実性の自芚や我々ず無関係の存圚ずしお無限に、あるいは無時間的に存圚し続けるずいう䟡倀を有しおいる。


    公挔劇団情報

    劇団いちいち
    Twitterhttps://twitter.com/gekidan_11
    Mailtheater111999@gmail.com
    ※お問い合わせやご䟝頌は各SNSのDMたたはメヌルたでお願い臎したす。

    劇団いちいち 春ごもり公挔
    『吐息のおもかげ』
    脚本・挔出豊田莉子
    【日時】2022幎
        3月5日土14:00 / 18:00
           6日日12:00
        ※開堎は開挔の30分前です。
        ※䞊挔時間は80分を予定しおおりたす。
    【堎所】東山青少幎掻動センタヌ 創造掻動宀
    【料金】※圓日刞は各300円です。
        孊生前売1000円芁蚌明
        䞀般前売1500円
    【予玄】カルテットオンラむン

    画像1

    線集埌蚘

    画像2

    感芚したものを思いなすこずによる受動知性に、人間の欲望ずいうものを結び぀けない思考回路を蟿るのが個人的に苊手なようで、倧倉難航した。 し、今もかなり䞍十分な知識ず考察だったなぁず勉匷䞍足を痛感しおいる。


    この蚘事が参加しおいる募集

     
     
    1999幎生たれの人組+αで構成された挔劇をするための団䜓です。 挔劇はもちろん、哲孊から、挫画、矎術、旅行蚘、ポヌトレヌトたで  。我々の䜜品に関連するさたざたな蚘事を曎新䞭

    あなたぞのおすすめ