
スズラン(短編小説)
花言葉シリーズ
スズランの花言葉 再び幸せが訪れる
純粋
純潔
謙虚
「どうかご協力下さい」
中学生くらいの女の子と、小柄な母親らしい女性が街角に立ち、チラシを配っていた。
2人の空気感から、それが商業的なチラシでないことは、誰の目にも明らかだった。
時折、受け取った人が足を止める。
母親らしい女性は必死に何かを説明し、最後には深々と頭を下げていた。
チラシには、一匹の犬の写真。
真っ白な毛並みに黒い鼻先。そして大きな黒い瞳。
「探しています」
その文字が痛々しいほど目を引いた。
僕は、少し離れた場所から彼女たちの様子を見ていた。
「あの〜、お手伝いしましょうか?」
僕は、思い切って声をかけた。
彼女たちの足元には、まだたくさんのチラシが残っていた。
「ありがとうございます」
30代後半だろうか…。
娘よりも小柄なその女性は、
長い髪をひとつに束ね、必死に声をかけていた。
「あの〜、なんで、犬逃げちゃったんですか?」
僕は、思い切って尋ねた。
見るからに室内犬だ。
僕は、彼女たちに少し厳しい目を向けていた。
彼女は目に涙を浮かべた。
「ごめんなさい」
散歩の途中で具合の悪そうなおばあさんを見つけたこと。
その対応をするために、危なくない場所へリードをつないだこと。
戻った時には、もういなくなっていたこと。
彼女は途切れ途切れにそう話した。
「おばあさんは、大丈夫だったんですか?」
僕は、思わず聞いてしまった。
「大丈夫だったみたいです。」
その言葉にだけは、少し安堵の色がにじんでいた。
「そうだったんですか…」
僕は小さくうなずいた。
「すみません、用事を思い出したので、失礼します」
そう言って、その場を後にした。
急いで家へ戻り、再び街角へ向かう。
彼女たちは、まだそこにいた。
心なしか声もかすれ始めている。
僕が近づくと、胸に抱いたあたたかな塊がぴくりと反応した。
耳をぴんと立て、ちぎれそうなほど尻尾を振る。
そして、
「ワン!ワン!」
と嬉しそうに吠え始めた。
その声に気付いた親子が、一斉にこちらを振り向く。
次の瞬間、二人は駆け出していた。
僕も足を速める。
胸には白い犬。
手には、青いリードが握られていた。
「ポン太」
呼びかけと同時に、
ポン太は小柄な母親の胸元へ、飛び移った。
僕の手に、握りしめたリードだけが残った。
「ありがとうございます」
喜びの声の後、彼女の表情がふっと揺らいだ。
なぜ、この人がポン太を?
そう思ったのだろう。間違いなく。
「悪い人だったら、返さないつもりでした」
そう口にして、僕は事の経緯を説明した。
彼女が具合の悪いおばあさんを助けている間に、
僕は、取り残されていたポン太と出会った。
コンビニへ行くときに見かけ、帰って来ても、
まだ同じ場所につながれたままだった。
気になって、しばらくその場にいた。
けれど、飼い主が戻ってくる気配はない。
僕は、そのまま犬を連れて帰った。
可愛かった。
気がつけば、
シロと名付けて、このまま飼ってもいいと思っていた。
だけど、犬を探している親子の話を聞いた。
許せる理由なら、返してあげてもいい。
そう思った。
小柄な母親は、体いっぱいにポン太を抱きしめていた。
「ポン太を保護してくれてありがとうございます」
そう言った彼女の表情が、ふっと揺れた。
辛いのか、怒っているのか。
それとも、別の感情なのか。
僕にはわからなかった。
彼女の口元が、きゅっと引き締まった。
命を預かる責任を、改めて感じているのだろうか。
それとも、飼い主なのだから早く返して、ということなのだろうか。
その表情に圧倒され、僕は握りしめていたリードを彼女に渡した。
彼女はホッとしたような表情を浮かべると、
「ポン太、ごめんね。優しい人に保護されて良かったね」
そう言って、ポン太をぎゅっと抱きしめた。
その後、心配そうにしていた娘さんにポン太を預け、
彼女はもう一度、僕と向き合った。
「何度も考えました。あの時、どうするのが正解だったのか」
母親は、そう話し始めた。
「だけど、もう一度あの場面に戻れるとしても、私は同じ行動をとると思います」
少女のようなふんわりとした雰囲気からは想像できない強さを、
彼女から感じた。
僕は、申し訳ない気持ちになった。
だけど、僕も思う。
あの場面に今戻ったとしても、やっぱり犬を保護せずにはいられなかっただろう。
彼女たちに、再び笑顔が戻ったことに安堵し、僕はその場を去ろうとした。
すると、ポン太が僕を惜しむように、ワンワンと吠えた。
短い時間だった。
それでも、シロと過ごした時間はかけがえのないものだった。
別れが、つらかった。
「あの〜」
娘さんが、僕を呼び止めた。
「良かったら、時々遊びに来てくれませんか?」
その言葉に、母親も僕も驚き、思わず目を見開いた。
「ポン太がこんなになついているんだもの。このままお別れなんて悲しい。」
娘さんはそう言うと、僕たちにスマホを取り出すよう促した。
母親も戸惑っていた。
だけど、娘さんの邪気のない表情を見ているうちに、
その警戒心は少しずつ薄れていった。
少し強引だったけれど、
それも心地よかった。
僕と母親は、そこで連絡先を交換した。
*
「ポン太と娘が、僕らのキューピッドだったね。」
僕の言葉に、彼女はくすりと笑った。
休日の公園。
僕たちは同じベンチに並んで座っている。
視線の先では、高校生になった娘とポン太が楽しそうにじゃれ合っていた。
この小説は、山奥さんの小説アプリ「山奥の図書館」のために
初期の小説を加筆修正したものです。