
50代になって分かった「無駄に過ごす時間」の意味
「今日も一日、無駄にした」
そう思い込んでいた時期が、
30代の頃、僕にはあった。
今思えば、あれは明らかに
自分を責める声だった。
実力が足りないのではないか。
この程度では、上司から頼りにされない
のではないか。
本当はもっと伸び伸びと仕事がしたいのに、
そうできていない自分が情けなかった。
環境のせいだと分かっていながら、
それを言い訳にしている気もしていた。
気づけば、
仕事も、人間関係も、
何もかもが自分の後ろを通り過ぎて
いくように感じていた。
そんな日々が、ある日、限界を越えた。
何かを変えようとしたわけじゃない。
ただ、これ以上、自分の声を聞き続けられ
なかった。
僕は、逃げた。
釣りという趣味に。
昼は何気なしに仕事をしていた。
けれど頭の中は、いつも釣りのことばかり
だった。
早朝と夜。出勤前と退社後、
ほぼ僕は釣りばかりしていた。
釣り師は
心に傷があるから釣りに行く。
しかし、彼はそれを知らないでいる。
この一節を知ったのは、
釣りを始めてから、
十年ほど経ってからのことだ。
そのとき初めて、
自分は、仕事が嫌で、
釣りに逃げたのだと理解した。
逃げたことを、悔やんではいない。
むしろ、
自分の風向きに、時代が変わるまで、
やり過ごしていたのだと思っている。
短気を起こしていたら、
あのとき、退職願を出していただろう。
自分の立ち位置で、静かに風を読む。
そんな時間帯も、人生には必要なのだ。
そして、数年。
釣りは驚くほど上達していた。
気温や天候、風向きから、魚の居場所が、
読めるようになった。
釣れる日と釣れない日の違い。
その意味も分かるようになった。
もう十分だ。
そう思ったとき、
僕は静かに竿を置き、
仕事に戻った。
「釣り」をはじめたのは、
成果を出すためでも、
上手くなるためでも、
人に認められるためでもなかった。
あとになって分かったことだが、
それは、
風を読む感覚を
身体に留めておくための時間だった。
あの頃から、
僕は少しずつ、
一日を裁かなくなっていった。
何も変えなかった。
変えたのは、今日を裁く、僕の目だけだった。