
風の中に、イタリアの音がした
昔、ロードバイクに夢中だった時期がある。
愛車は、DE ROSA TEAM。
たしか2010年頃のモデルだったと思う。
グレーのフレームに赤の差し色。
コンポーネントはCampagnoloのATHENA。
ホイールはフルクラムだった。
イタリアの自転車に、
イタリアのパーツ。
今こうして写真を見返してみても、
やっぱりカッコいい。
あの頃は、よく走った。
少しでも速く。
少しでも遠くへ。
坂道では苦しいのに、
登り切ると、また走りたくなる。
ロードバイクとは、
不思議な乗り物だった。
でも今、あの頃を思い出したとき、
最初に蘇ってくるのは、
速さでも距離でもない。
風と、音だ。
走っていると、
風が身体の横を流れていく。
川沿いでは少し冷たく、
山へ入れば空気の匂いまで変わる。
そして、ペダルを止める。
カラカラカラカラ……
後ろから聞こえてくる、心地いい
フルクラムの独特の乾いたラチェット音。
風の音。
タイヤが路面を転がる音。
そして、ラチェットの音。
ペダルを止めた瞬間、
その音だけが妙に鮮明に聞こえた。
あの音が好きだった。
なぜ好きだったのかと聞かれても、
うまく説明できない。
ただ、あの頃の自分は、
「イタリアの音がするなあ」
と思っていた。
DE ROSAは、
もう手元にはない。
あれから、ずいぶん時間が経った。
自転車との付き合い方も変わった。
今の相棒は、
WilierのMTB。

考えてみれば、
これもイタリアの自転車だ。
DE ROSAからWilierへ。
ロードバイクからMTBへ。
昔は、もう少し速く。
もう少し遠くへ。
今は、もう少しゆっくり。
もう少し、この風景の中に。
最近は、
「目的地のないチャリ散歩」と称して、
カメラを持って近所を走っている。
河川敷。
田んぼ。
神社。
高架下。
いつもの道。
気になる風景があれば止まる。
写真を撮る。
動画を撮る。
何も撮らず、
ただ眺めることもある。
そして、また走り出す。
若い頃より、
走る速度は遅くなった。
でもそのぶん、
見えるものは増えたような気がする。
道端の草。
川面の光。
雲の形。
季節が変わる匂い。
昔なら、そのまま通り過ぎていた風景に、
今は自転車を止める。
不思議なものだ。
あれほど速く走りたかったのに。
今は、
止まることが楽しい。
そして先日、
昔の写真を眺めていて気がついた。
DE ROSAとWilier。
ロードとMTB。
まったく違う自転車なのに、
2台ともイタリアだった。

別に、
イタリアにこだわって選び続けたつもりはない。
それでも気がつけば、
昔も今も、
イタリアの自転車がそばにいる。
もしかすると、
好きなものというのは、
そんなものなのかもしれない。
理由より先に、
心が選んでいる。
このDE ROSAの写真を見ると、
今でもあの日の風を思い出す。
橋の上。
川。
遠くの山。
写真には、
音も風も写っていない。
それなのに、
じっと見ていると聞こえてくる。
カラカラカラカラ……
あの頃、
自分は速さを追いかけていたと思っていた。
でも本当に好きだったのは、
風の中にいる時間だったのかもしれない。
DE ROSAからWilierへ。
自転車は変わった。
走る速さも変わった。
走る理由も変わった。
あのラチェット音は、
もう聞こえない。
でも、
風は今も吹いている。