辺野古沖ボート転覆事件:それは、神への信仰なのか?教会への忠誠なのか?
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それは、神への信仰なのか?教会への忠誠なのか?
🕊️ 一人の牧師が死んだ
名護市辺野古沖。修学旅行の海上見学中に、抗議船が転覆した。乗っていた高校生と、船長が死亡した。船長は、日本基督教団・佐敷教会の牧師だった。生徒たちを船に乗せる「平和学習」のコースは、この牧師自身が学校側に提案し、三年前に始まったものだった。
事故当日、日本基督教団は対策本部を設置し、こう発表した。「高校生とご家族、ご関係者の皆さまに心より慰めをお祈りいたします」。
祈りの言葉は、出た。だが、それだけだった。
⛪ 教団は、何をしたか
事故から半年が経つ。教団が組織として遺族に謝罪した記録は、無い。
一方で、教団は動いていた。事故直後、船を運航していた市民団体に対し、同志社国際高校との連絡窓口を自分たちが担うと申し出た。そして同時に、遺族への謝罪については「今は動かないでほしい」と要望した。
市民団体側が実際に謝罪文を公表したのは、五月一日。事故から一ヶ月半後である。
自分たちは謝らない。だが、他者が謝るタイミングには、口を出す。この非対称を、どう理解すればいいのか。
✝️ 信仰と忠誠は、同じではない
神への信仰と、教会という組織への所属は、本来イコールではない。
信仰は、神との関係である。教団は、その関係を制度として支える器に過ぎない。器が中身を体現している間、両者の区別は意識されない。区別が試されるのは、器が中身から外れたときだけだ。
今回、器は外れた。死者を出した当事者組織でありながら、自ら謝罪の言葉を発さず、他者の謝罪のタイミングだけは管理しようとした。これは、信仰が要求する態度だろうか。それとも、組織防衛が要求する態度だろうか。
答えは、明らかだ。
🔔 信者に問う
日曜礼拝に、あなたは通っている。その足を運ばせているのは、何か。
教団の判断を、そのまま神の意志として受け入れているなら、それは信仰ではない。組織への無条件の帰属である。
教団の判断と、自分の良心が一致しているかどうかを、その都度、自分で確かめているなら、それは信仰である。忠誠は、その確認作業の結果として、後からついてくるものに過ぎない。
今、確かめてほしい。半年間、あなたの教団が遺族に何を語り、何を語らなかったか。それを知った上で、なお日曜日ごとに通い続けているとして——その足を運ばせているものの名前を、あなたは、答えられるか。
信仰を捨てろとも、疑えとも、言わない。だが、無選択な所属を、信仰と呼ぶことだけは、やめるべきだ。それは、信仰を空洞化させる。
不信を感じることは、信仰の敵ではない。むしろ、信仰がまだ生きている証拠だ。何も感じないことの方が、恐ろしい。
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No.1798.