
花を残したら、蝶が来た──栽培とは、自然界の編集である

キタアカリ(ジャガイモ)の花に、ナミアゲハが来ていた。
今日は朝からクライアントへのシステム納入、銀行、役所と、フリーランスの事務仕事を一通り片付けた。帰宅して、ナスのわき芽について調べていた。プロはどこをどう摘むのか、植物ホルモンは何をしているのか。そうして夕暮れにベランダへ出たら、キタアカリの花にナミアゲハが来ていた。
夕暮れのベランダ。西向きで、ソーラーパネルに三方を囲まれた、日照不足のこの場所に。都市の空を背景に、アゲハはしばらく花の上にとどまっていた。
私はしばらく、それを眺めていた。
一本の動画から始まった
ある農業系YouTube、このシーンで手が止まった。
https://youtu.be/Er23vwP1cGU?si=EjYSwJRiGChD1UKT

「自然界の目的 ←編集← 人間の目的」
左側に書かれていたのは——生き残りたい、複雑にしたい、多様にしたい。右側は——たくさん収穫したい、管理可能性をあげたい、画一的に制御したい。
そして動画の中で"ノウカノタネ"のつるちゃんがこう言った。
「栽培とは、自然界の編集である」
わき芽を取る、摘芯する、誘引する——これらはすべて人間が自然を都合よく編集する行為だ、と。自然界において植物が生き延びるために身につけたリスク管理の力を、人間の目的に合わせて書き換える作業。それが栽培であり、農業であり、突き詰めれば文明でもある、と。
なるほど、と思った。そして同時に——だから私はわき芽を取るのが嫌いなのだ、とも思った。
わき芽は「ムダ」ではない
植物にとって、わき芽はムダではない。
可能性であり、保険であり、環境変化への分散投資でもある。動物に踏まれるかもしれない。虫に食われるかもしれない。主軸が失われたとき、潜んでいたわき芽を伸ばせば、もう一度人生をやり直せる。植物がわき芽を持つのは、そのためだ。
植物生理の世界を覗くと、これがまた面白い。ストリゴラクトンという植物ホルモンは、リン酸が不足しているときに「今は脇芽を伸ばすな」と指示を出す。糖が余ったときは逆に「伸びていいぞ」とシグナルを送る。植物には中央集権的な脳がない。それでも、糖の濃度、光の量、水分、ホルモンバランス——あらゆる変数を現場で総合的に判断して、そのときの最適な生存を選んでいる。
植物は、いわば地方分散型生命体だ。脳のような中央司令塔がなくても、各部位が環境を読み取り、糖や光やホルモンの状態に応じて、その場その場で生き方を変えている。
わき芽も花も、すべて植物の生存戦略だ。花芽を摘んでしまったら、アブラムシにもチョウチョにも会えない。
これはオレ自身の話でもある
私がわき芽を取らないのは、西向きのベランダで日照が足りないから——それが表向きの理由だ。収量が見込めないなら、鑑賞やグリーンカーテンとして楽しめばいい。合理的な説明として使っている。
でも本質は、もっと別のところにある。
栄養を集中させれば、確かに収量は上がるかもしれない。成果は出るかもしれない。専門性は上がるかもしれない。
でもそれは、オレの世界じゃないんだよな。
好奇心旺盛で、なんにでも手を出す。半導体の話を書き、農業の文章を書き、海の話をしながら植物工場を運営する。地域活性化にも顔を出し、ベランダで放任栽培をする。Barも出す。里山も歩く。かつては半導体エンジニアをしながら、自転車の実業団選手をやり、NPOも運営していた。「なんでも屋」と言われれば、そうかもしれない。専門性という軸で見れば、わき芽だらけの植物そのものだ。
でも、その「わき芽」の一本から、蝶が来ることもある。
https://www.instagram.com/p/DY3kIoxs9gY/

子どもの頃から、この違和感は変わらない。むしろ、50を過ぎてから強くなっている気がする。果実の最大化のために全部を編集していく——その方向に進めば進むほど、何かが失われていく感じがする。
花を残せば、虫に会える
キタアカリは、花を摘んだ方が芋に養分が回る、と言われることがある。
収量だけを見れば、その方が合理的なのかもしれない。
摘まなかった。
だからナミアゲハが来た。
あの動画はこう言っていた。植えること自体が自然への介入であり、どこまで編集するかは栽培者の自由だ、と。植物生理さえ分かれば、あとはセンスよく組み合わせるだけだ、と。
プランター栽培をしている時点で、私はすでに編集している。植物工場を運営しているという意味では、かなり深く編集している側の人間でもある。矛盾はある。でも、その矛盾ごと考えるのが好きだ。
道元の言葉を借りれば、「諸法実相」である。あらゆるものが、そのまま実相である。わき芽も花も、編集する人間も編集される植物も、ナミアゲハがキタアカリの花に止まったあの一瞬も——全部そのまま、世界の本来の姿である。
何かを編集して、別の「正しい姿」に近づけるのではなく、目の前にあるものを、そのまま見ること。
実だけを見ていると、世界は痩せる。
花を残したら、蝶が来た。
それだけのことが、今日の夕暮れに、もう一度確かめられた。