
八百万の神とお好み焼き
八百万の神とお好み焼きには、どこか通じるものがある。
厳格な教義を掲げて「これ以外は認めない」と排他的でなく、なんでも包みこんでくれる。
八百万の神々は八百万というだけあって、山にも川にも、石ころやトイレの神様まで鎮座していらっしゃる。
なんでも受け入れ、互いに衝突せず、神社にふらっと立ち寄れば不思議と心が穏やかになる。
すべてを包み込むようなユルさと懐の深さは癒しの神様だ。
その神聖な精神を、最も美味しく、最も庶民的なかたちで体現しているのが「お好み焼き」ではないかと思う。
お好み焼きの懐の深さは、神々のそれといい勝負をしている。
キャベツと小麦粉があれば基本は成立するし、豚肉を入れようが、イカやエビの魚介を放り込もうが、冷蔵庫の片隅でしなびかけた野菜を刻んで混ぜようが、すべてを完璧に受け止めてくれる。
なんなら炭水化物であるそばを中にぶち込んでも怒られない。
栄養バランスを見ても、肉、魚介、野菜、小麦粉が一体となり、これ一枚で完全食になり得る。
他のおかずを必要とせず、ただそれだけで美しく自己完結している姿は、もはや一つの小宇宙だ。
味付けの寛容さも尋常ではない。
王道のソースはもちろん、さっぱり醤油でも、マヨネーズの海に溺れさせても、青海苔や鰹節を雪のようにまとわせても、すべてを美味の着地点へと着地させる。
西洋のピザと比べてみると、その自由度の高さがより際立つ。
ピザも具材のバリエーションは豊かだが、どうしても「ピザ生地」という厳格なステージと「チーズのトッピング」という掟から外れることは許されない。
イタリアの誇る伝統的な美学がそこにはある。
それに比べてお好み焼きはどうだ。「お好み」という名前がついている通り、そもそもルールすらない。
混ぜて焼くだけという大雑把な作法の中に、人間の欲望と自由がすべて詰め込まれている。
ときどき無性に「お好み焼きが食べたい」と脳裏をよぎる時がある。
あのソースの焦げる香ばしい匂いを思い浮かべ、鉄板の前に陣取ると、日々の細々とした悩みや面倒くさい理屈がどうでもよくなる。
肩の力を抜いて、なんでもありの生地にヘラを入れ、目の前の熱々を口に運ぶ。
我が家のテーブルの上の鉄板もまた、ささやかな神殿のようなものかもしれない。