
時雨のあとで
祖父の部屋を片づけていたら、押入れの奥から、古い句帳が出てきた。
表紙は日に焼けて、角が丸くなっている。開くと、鉛筆の細い字で、五七五が並んでいた。日付と、天気と、短い言葉。それだけの帳面だった。
祖父は無口な人だった。農協を定年まで勤め上げ、毎朝同じ時間に起き、同じ道を散歩した。孫の私には、いつも「ああ」とか「そうか」としか言わなかった。小学生の頃は、それが少し寂しかった。
句帳の最後のほうは、字が震えていた。
私は畳に座り込んで、一ページずつ、めくった。
――「霜の朝 湯気だけがある 台所」
――「孫の靴 玄関に二つ 増えている」
息が止まった。
私の靴だ。夏に帰省したとき、祖父は何も言わなかったのに、見ていたのだ。玄関に増えた靴を。
その日は、十月の終わりで、窓の外は薄暗かった。ぽつ、ぽつ、と音がして、気づけば細い雨が降りはじめていた。通り雨だ。
最後に書かれた句は、半分しか読めなかった。
――「時雨るるや 言えずじまいの 」
下の五文字が、ない。鉛筆の先が、そこで止まっている。
言えずじまいの、何だったのだろう。
私は、句帳を胸に抱えて、しばらく動けなかった。雨音が、屋根を静かに叩いている。
そのとき、台所から母の声がした。
「お茶、淹れたよ。お父さんの湯呑みで、飲む?」
居間に行くと、祖父がいつも座っていた席に、湯気の立つ湯呑みが置かれていた。私は、その向かいに座った。
「おじいちゃんね、句を作るの、誰にも言ってなかったのよ」
母は、静かに言った。
「恥ずかしかったんだって。でも、あなたが生まれてから、増えたの。作る数が」
「……私、何も知らなかった」
「言わなかったからね。あの人は、言葉にしないかわりに、書いてたのよ」
私は、句帳の最後のページを、もう一度開いた。
言えずじまいの、あとに何が来るのか。「ありがとう」かもしれない。「さようなら」かもしれない。「会いたい」かもしれない。
祖父は、答えを残さなかった。残さなかったから、私は何度でも、考えられる。
私は鉛筆を借りて、その余白に、そっと一行、書き足そうとして、やめた。
これは、祖父の余白だ。
代わりに、自分の句帳を、新しく買おうと思った。
窓の外で、雨が上がっていた。雲の切れ間から、薄い光が、縁側に落ちている。濡れた庭の土が、やわらかく匂った。
私は湯呑みを両手で包んだ。
あたたかい、と思った。
祖父の席の向かいに座ったまま、私は、生まれて初めて、五七五を指で数えた。