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箒だけが、動いていた

    飲食店の店長をしていた頃の話だ。

    冬だった。

    閉店後の店に、

    私一人が残っていた。

    何時だったか、

    覚えていない。

    時計を見る気力も、

    なかった。

    蛍光灯だけが白く、

    いつもと変わらない明るさで、

    床を照らしていた。

    その白さが、

    妙に腹立たしかった。

    *

    あの夜、

    何かが決定的に終わった。

    何が終わったのかは、

    今も言えない。

    ただ、

    終わったという事実だけが、

    身体の中心に、

    重く、

    冷たく、

    沈んでいた。

    店は静かだった。

    椅子は整然と並び、

    テーブルは拭かれ、

    レジは締められていた。

    すべてが、

    明日を迎える準備を終えていた。

    私だけが、

    終われずにいた。

    私はカウンターに手をつき、

    しばらく動けなかった。

    何のために、

    やっているんだろう。

    答えは、

    どこにもなかった。

    *

    気づくと、

    手に箒(ほうき)があった。

    取ろうとした記憶はない。

    気づいたら、

    握っていた。

    身体が、

    いつもの閉店作業を始めていた。

    私の意志とは、

    関係なく。

    床を掃き始めた。

    端から端へ。

    一定のリズムで。

    なぜ動いているのか。

    わからなかった。

    心は、

    もう動いていなかった。

    それでも、

    箒だけが、

    動いていた。

    *

    ある一点で、

    手が止まった。

    止めようとしたのではない。

    止まっていた。

    その一秒だけ、

    時間が音を失った。

    ただ――

    明日、

    ここに誰かが立つ。

    声ではなかった。

    思考でもなかった。

    翌朝、

    スタッフが厨房へ入ってくる。

    この床を踏む。

    その足に、

    顔はなかった。

    名前もなかった。

    誰か一人ではなく、

    誰かの今日だった。

    その瞬間、

    手が、

    また動き始めた。

    *

    涙は出なかった。

    もう、

    出るものが残っていなかった。

    床が、

    少しずつきれいになっていった。

    誰かに褒められるためではない。

    店のためでもない。

    そうしていなければ、

    立っていられなかった。

    ただ、

    それだけだった。

    箒を置いたとき、

    床は、

    静かに光っていた。

    *

    翌朝、

    私はまた店へ来た。

    スタッフが来た。

    「おはようございます」

    いつもと変わらない朝だった。

    誰も知らなかった。

    あの夜のことを。

    床がきれいだった理由を。

    それでよかった。

     

    (マガジン「本の断片」より)

     
    この夜のことは、書にも書いた。

    第三命題「泥中の一手」

    『To be 大志 ―優しく、強く生きる哲学―』

    Kindle版・ペーパーバック版



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    閉店後の厨房の床で、心が止まった夜から書き始めました。命の反射、指名、泥中の一手、愛の独り言、受け傷、遅咲きの開眼。その底に流れる、間、積層、そして在。哲学エッセイ『To be 大志』Amazon刊行。ここには本の断片と、その後に書いた言葉を。

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