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掌編小説「月」|シロクマ文芸部

    月を見るときは一緒に、と池田は言っていた。

    池田という女の子が僕の団地に越してきたのは、夏休みが終わった四年生の秋だった。父親の仕事でアメリカにいたらしく、「帰国子女」という言葉を僕はそのとき初めて身近に聞いた。
    テレビで見かけた早見優や西田ひかるのような、どこか眩しくて遠い存在。そんなイメージだった。

    ランドセルの代わりに青いナイロンのリュックを背負って教室に現れた彼女に、閉鎖的な団地の地域の小学校では、みなが珍しい生き物でも見るような目を向けた。
    しかし池田は、まったく意に介していないようだった。

    教科書もまだ持っていなかったので、隣の席の僕が机をくっつけ、一緒に見ることになった。
    物珍しさから、僕はよく国語の教科書を指さして「ここ、英語に訳して読んでみて」とせがんだ。
    池田は嫌な顔ひとつせず、得意げに読み上げた。

    「ワンス・アポン・ア・タイム……」

    僕が真似をすると、発音が全然違うと笑われた。

    ある日の帰りの会で、先生が「今夜は新月です」と言った。僕たちは新月を見ようと約束して、団地の階段の踊り場で待ち合わせをした。
    日が沈んでも月はどこにも見えなかった。池田は笑いながら言った。

    「新月ってのは見えないんだよ。太陽の陰に隠れてるの」

    「なんだよ、先に言えよ」

    「でもね、新月に向かってお願いすると、夢に未来のパートナーが出てくるんだって。アメリカの友達が言ってた」

    「そんなのあるわけないじゃん。日本にはないよ」

    「あるの。それでね、満月になるまで見続けてると、恋が叶うんだって。だから、見るときは一緒に見ようよ。満月の夜まで、ずっと一緒にね」

    そう言って池田は僕の腕を組んできた。やっぱりアメリカから来た女の子は積極的なのだなと思った。嫌ではなかった。むしろ、嬉しかった。

    次の日も、日が沈むと踊り場で夜空を見上げた。すごく細い月だった。

    「昨日は大人になったあなたが夢に出てきたの」

    「へえ。どんな格好してた?」

    「なんだか、青っぽいスーツを着てね、それから青いネクタイを締めていたよ」

    池田は少し照れたように笑った。
    それから僕らは毎晩毎晩、夜空を見た。
    それは二人の約束になった。頼りなかった月は、少しずつ太く、見やすくなっていった。

    そんな僕らを、クラスの男子たちは放っておかなかった。 廊下ですれ違うたびに「またあの二人一緒にいやがる」と囃し立てられた。
    黒板に相合傘を書かれたこともあった。給食の時間、わざと大きな声で「池田とお前がアチチ」とからかわれたこともある。

    ある時、池田と二人で廊下を歩いていると、いきなり頭にドッジボールの球をぶつけられた。

    池田が「やめなさいよ! 謝りなさいよ!」と怒った。 彼らはもっと面白がった。

    「こいつ、アメリカ女に助けてもらってやんの。だせえ。よかったな、好きな女に守ってもらってよ。ハハハハハ」

    「もう、やめなさいよ」

    「もういいよ! オレは池田なんて、好きでもなんでもねえよ!」
    僕は叫んだ。
    池田は顔を真っ赤にして走って行ってしまった。
    あんな池田は初めてだった。いつも堂々としていたのに。

    それから僕たちはギクシャクしだした。階段で会っても、僕は目をそらすようになった。

    「今日、一緒に帰る?」と聞かれても、「先に行ってて。オレはまだ用事あるし」と返す日が増えた。
    気づけば、一緒に下校することすらしなくなっていた。池田も気を遣って、声をかけてこなくなった。

    でも、その日は声をかけてきた。

    「今夜は満月だから、一緒に帰ろうよ」

    僕は周りにいた男子たちの目を気にして言った。

    「先に帰ってろよ」

    池田は少しの間、僕の顔をじっと見ていた。何か言いたそうにして、でも結局何も言わずに、小さく「わかった」とだけ返した。

    青い大きなリュックを抱えて、うつむいて校門を歩く池田の後ろ姿が見送った。

    翌朝、池田の席は空いていた。

    その次の日も、そのまた次の日も空いていた。

    僕は毎朝、登校前に池田の家に寄ることにした。けれど、玄関に出てくるお母さんは、いつも「ごめんね。今日もあの子、学校には行けないみたい」と言うだけだった。

    そんなある日、母から聞かされた。池田は僕の知らないところで、男子たちに「アメリカ人」と呼ばれ、上履きを隠され、筆箱を教室のゴミ箱に捨てられていたのだという。

    僕はそれをひとつも知らなかった。冷やかされるのが嫌で、彼女のほうを見ないようにしていたから。

    やがて池田の一家は団地から引っ越していった。
    この街で暮らすのが限界になったのか、親の仕事の都合なのか、僕は知らない。
    荷物が運び出される日、僕は自分の部屋のカーテンの陰から、その様子をずっと見ていた。
    池田の姿は、最後まで見えなかった。
    空を見上げた。
    日の沈んだ空は深い群青色で、月はどこにも見えなかった。

                  了

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    月

    #シロクマ文芸部

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