
掌編小説「待つ時間」|シロクマ文芸部
待つ時間が好き。
彼氏を待つ時間が好き。改札の柱にもたれて、人波の中から背の高い見慣れた歩き方を探す。
まだ来ない、まだ来ない、その「まだ」がいちばんエモい。
ご飯を待つ時間が好き。キッチンから漂う匂いに焦らされながら、油で玉ねぎを炒める音を聴き、バターの香りを嗅ぐ。
お皿が来る瞬間より、来る直前の五分が長くて、エモい。
アトラクションの待ち時間が好き。列の先が見えないほど長いほど、つづくおしゃべり、隣の誰かの話し声や、遠くで鳴る音楽が、少しずつ近づいてくる。
順番が来るまでの、あの助走のような時間が、エモい。
演劇の開演を待つ時間が好き。客電が落ちる、その一秒前。暗闇に沈む直前の、ざわめきが静かになっていく。
何かが始まる予感だけがあって、まだ何も起きていない時間が、エモい。
階段を上る音を待つ時間が好き。玄関の鍵が回る音から、階段を上りきるまでの、あの数えられる秒数。一段ごとに重さが変わる足音で、今日がどっちの日か分かるようになっていた。
静かに、間隔が均等なら、まだ大丈夫。
急に速くドタドタうるさくなったなら、部屋の隅の、いつものあの暗く狭い場所に体を隠す。
見つかるまでは、エモい。
布団の中で息を殺して待つ時間が好き。壁越しに聞こえる食器の割れる音。母の叫び声が、途中で止まる瞬間。
その後にくる静寂が、次に何が来るかを教えてくれた。
待っている間だけは、何も起きていなかった。
何も起きていない時間は、いつも一番安全で、エモい。
医師の説明を待つ時間が好き。搬送された義父の状態が悪ければ悪いほどいいと、祈るような心地で願っている。
最悪の知らせが届くまでの空白は、どんな娯楽よりも贅沢で、エモい。
義父の指先が止まるのを待つ時間が好き。病室で管につながれた手が、一度だけ、かすかに動く。生きようとして震える指先を、私は椅子に深く腰掛けて、何時間でも眺めていられた。
我慢できずに指を伸ばしたのは、待ち時間が終わる予感があまりにも、エモかったから。
点滴に死が混ざるのを待つ時間が好き。持ち込んだ透明な死を、管の途中からゆっくりと溶かしていく。薬液と混ざり合い、義父の体へと吸い込まれていく無垢な白を待つ数秒間は、これまでのどの待ち時間よりも速くて、エモい。
モニターの止まる音が、そして、エモい。
患者が運ばれてくるのを待つ時間が好き。サイレンが遠くから聞こえて、止まる。
救急隊員がストレッチャーを運び、治療が終わり病室へ入院してくる。その騒がしさが、エモい。
巡回の時間が来るのを待つ時間が好き。ナースコールの鳴らない静寂の中、各部屋のドアの前で一度立ち止まる。扉の向こうから聞こえる、弱々しく不規則な呼吸音。それが途切れるのを待つ、数秒の贅沢。
三人目、四人目……。点滴の滴下速度を眺めながら、薬液が体に行き渡り、やがて心臓がそのリズムを諦めるまでの「猶予」を愛でる時間は、たまらなくエモい。 数えるのをやめたのは、いつからだったか。病人たちがゆっくりと衰弱していくのを待つ時間は、静かで、エモい。
最後の時を待つ時間が好き。薄い灰色の壁。窓はない。時計もない。ただ、扉の向こうから足音が聞こえてくるのを待っている。まだ来ない、まだ来ない――その「まだ」が、今日もいちばんエモい。
やがて足音は止まり、鍵の回る音がする。
番号が呼ばれる。
やっと、と思う。
了

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