
「幽霊かと思った!」
朝8時15分、区役所のトイレで、社員である中村さんと鉢合わせした。
思いつめた表情をしていた中村さん。
「おはようございます!」
「幽霊かと思った!今、ちょうど佐藤さんのこと考えてたんですよ。
えっ、ところで今日は病院勤務の日でしたよね」
「えっ、今日は区役所勤務ですよ」
「言ってませんでしたか?」
「聞いてないですよ」
「じゃあ、病院の方には私から連絡を入れておくので、すぐ病院に行ってくださいね」
総合病院と区役所の狭間
当時の私は、請負社員として総合病院の窓口にいた。
かねてから、会社は近々区役所窓口の仕事を取るので、社員は異動があるという噂が流れていた。
区役所の新規事業で、全てが手探り状態。
それで、入札を勝ち取った中村さんが区役所に常駐していた。そんな中、ヘルプとして区役所で2週間勤務するよう命じられたのだった。
ヘルプで行く以上、使い物にならなくては困ると思った私。
徹夜こそしなかったものの、試験前夜のように、区役所窓口の仕事を集中して勉強した。おかげで、区役所の窓口案内も何とかさまになっていた。
だが、病院も人手不足で、私の取り合いとなった。
まるで、2人の男性から同時にプロポーズされるようなものである。
「くたびれたサラリーマン」気質の私は、会社の方針に従順な社員だった。
新規事業の区役所より、やはり病院が強かった。
同じブランドのスーツ
中村さんとは、初対面から言葉なくとも通じ合う人だった。
同じブランドのスーツを着ていたのを、私は見逃さなかった。
ただし、中村さんはパンツスーツ。私はスカート一択。
仕事に対する真摯な姿勢が、私と同じ。
後から聞いた話だが、他のアルバイトとも決して馴れ合いにはならず、適度な緊張感のある距離を常に保つ人だったそうだ。
病院勤務の大変さを知っている中村さんは、助言してくれた。
「区役所勤務を希望するのなら、きちんと自分の意見を主張していいんですよ。」
仕事に対する考え方の相違
総合病院の忙しさや同僚から逃れたかった。
正職員歴の長い私にとって、「かしこまりました」という言葉を使うことのない請負社員は、異質な人種だった。
そんな環境からの脱出を喉から手が出るほど切望していたものの、自分の意見を主張するなど、私には到底考えられなかった。
というのも、25年間、旧態依然とした男尊女卑の環境に身を置き、忠誠心ある「くたびれたサラリーマン」を目指していた過去があった。
意を汲んだ制服保管
蓋を開けてみると、結局ヘルプ2週間の予定が、3日だけの勤務で終わった。未練を断ち切るためにも、早く制服を返したかった。
「制服を返却しようと思うのですが……」
「お願いだから、持っていてほしい」
中村さんが懇願してきた。
「幽霊」とまで言ったその心情を察して、しばらくは私の手元に区役所の制服があった。
区役所の制服返却
その後、社員の異動なく、アルバイトだけで区役所窓口が回る体制になった。最後通告だと思い、制服を返却しに行ったが中村さんは不在だった。
それから数日して、律儀な中村さんは患者様が落ち着いた夕方、わざわざ病院窓口に現れた。
「佐藤さんには本当に助けていただき、ありがとうございました。
仕事中、忙しいのに邪魔してごめんなさいね。」
時間がお互いに許すのなら、もっと話したい女性だった。
退職の決意
その後1年余り、病院窓口では四方八方から声をかけられ、電話が鳴り、いつも回転人形のように回り、走り続ける毎日に疲れ果てた。
その合間には、事務処理が待っている。
夏から秋の繁忙期を2度乗り越えた。
「休日出勤させてください」と名乗りをあげ、自分は充分この職場での仕事を全うした。
次の就職先は、他の会社が請け負った区役所窓口。
この疲弊した身体で、別の就職先を考える頭が私にはなかった。
そのうえ、一度は切望した区役所で働かないと一生後悔すると思った。
総合病院の制服返却
退職最終日、病院の制服返却に会社を訪れた。
中村さんを訪ねるかどうか迷った。
たった3日間の出会いと、大企業で活躍する中村さんの立場の違い。
そして、疲弊状態の身体と明日からの区役所勤務。
いろんなものを天秤にかけ、断念した。
ただ、最後に一言だけでも挨拶しておきたい人だった。
後にも先にも、中村さんのような凛とした女性は現れないだろう。