
エッセイ「ソース焼きそばのいるべき場所」
私にとって、ソース焼きそばというものは炒飯のようなもので、どんな具を入れようともそれなりに成り立つからね、冷蔵庫の余り物をうっちゃるにはありがたいんだ。
まあ、しかしなんだけど、炒飯はちゃんとした中華料理屋から町中華にもしっかりと品書きの柱となっているでしょう。
他の料理もそうだよ。麻婆豆腐が本格中華の主役を誇り、ニラレバ炒めが町中華の看板を張る中でね、ソース焼きそばというやつはいつも少し離れた場所にぽつんと立っているんだよ。誰もがその味を知っていて、誰もが愛してやまなのにね、彼が店の主役としてふんぞり返って客を待つような、いわば 「ホーム」のような店というのが見当たらない。
ちょっといい中華料理屋なんかに行くとね、「上海焼きそば」なんていう上品なメニューがあったりするでしょう。あれはオイスターソースや醤油ベースでね、具材の切り揃え方も綺麗だし、確かに品が良いのかもしれないけどね。私に言わせればどうにも味が薄くて、物足りませんよ。油っぽさばかりが前に出ていて、なんだか気取っていて面白くない。油と味の濃さが釣り合っていないからね、私に言わせりゃあれこそ「油焼きそば」ということになる。
少なくとも私が焼きそばに求めているのは、そんなキザったらしい上品さじゃあなくてね、あの甘酸っぱくて濃厚なウスターソースの直球なパンチなんだからね。
じゃあ、どこがソース焼きそばの「ホーム」なのかと言えばね、結局のところは「自分の家の台所」になるんです。
外に出たくない日の昼下がりにね、冷蔵庫の奥で余っているキャベツやら豚コマ肉やらを適当に刻んで、スーパーで買ってきた3食パックの袋麺と一緒にフライパンでジャッと炒める。水を足して、ふわっと立ち上がる水蒸気の中で添付の粉末ソースを振りかけた瞬間に、ジュワッと甘酸っぱく香ばしい煙が立ち上るでしょう。粉末ソースがダマにならないように手早くかき混ぜなくちゃいけない。それを皿に雑に盛ってね、紅生姜をちょこんと添えた熱々をガツガツと口に運ぶわけなんです。
その瞬間なんだよ。「ああ、これこれ。この代わり映えのない、平々凡々な懐かしさがいいんだよ」と思わず胸の内でも咀嚼するソース焼きそばだね。麺がまとった油と抜けきれない水っけ。ちょいとばかり頼りない食感だからこそ、具材のありがたみが分かるというもんだ。豚こまの旨みとシャキッとしたキャベツの歯ごたえに頼もしさを感じ、ここに細切りした人参のパキッとした食感や、キクラゲのコリッとした感じが加われば大当たりだ。麺によく絡んだ、濃くて塩っけのある粉末ソースの香ばしくてたまんないね。
誰もが一度は口にしたことのある味だから、思い出すのも容易だろう。
職人の秘伝の技もなければ、特別な隠し味なんてものもあるわけない。少しばかり酸味の効いたソースと麺の焦げ目が、子供のころから慣れ親しんだ記憶と一緒に喉を通り抜けていくんだ。この安っぽくて素朴な一口がね、何物にも代えがたい特別な昼飯になるんだから、私の舌も安上がりだなあとは思いますよ。
結局、そのルーツをたどるとね、中華料理ではあるんたけど、日本じゃあウスターソースなんていう法被に袖を通して、駄菓子屋の鉄板や祭りの熱気の中で育ってきた歴史に行き着く。最初から血筋にこだわりなんぞありゃしないからね、格式を重んじる外食の世界からは一歩身を引いていたんです。
昭和の時代に家庭用の蒸し麺として普及してからは、「誰の家のフライパンでも完璧に美味しく作れる」という驚異的な再現性を手に入れたわけなんです。まあ、再現性というより玉座だね。そこか露店の鉄板の上がいるべき場所なんだからね。逆に中華料理屋のコンロでは、火力が強すぎるし、中華鍋も熱が鍋底に集中するから向かないんだよ、ソース焼きそばには。そこそこの火力でじっくり火を通さなけりゃあダメなんだ。屋台の鉄板なんて豪快に麺を広げて均一に火を通せるからね、まさにおあつらえ向きなんです。
自分の凄みを声高に主張もしないで、専門店の看板を掲げることもなく、ただ誰の日常にもすっと溶け込んで満足感を与える。ハレの日のご馳走でも、職人の技を誇る逸品でもない。
それでも祭りの煙の匂いや、慣れ親しんだ自宅の台所でふっと心を満たしてくれる。一歩引いた場所にありながら、決して揺らがないその存在感にこそ、ソース焼きそばに宿る独自の美学があるんですよ。
了