
古代ミステリー🌙大阪、出雲、ときどき奈良 【第二章 茨木に香る、古代出雲の気配。】
――茨木に残る「出雲の気配」。
今日もまた深夜。2時過ぎ。
こういう時間って、どうして昔のことを考えたくなるんだろう。昼間なら冷静に、「まあ、昔の話だからね」で済ませてしまうようなことが、夜中になると妙に気になってくる。
また、地図アプリを開く。
大阪府の北部。
茨木市。
そのあたりを眺めていると、前から気になっていた名前がいくつも目に入ってくる。
溝咋
玉櫛
五十鈴
三島
そして、その少し先には三島鴨神社。
さらに淀川を越えて、古代の集落や遺跡が続いている。
最初は、ただの偶然だと思っていた。
でも、溝咋神社について調べれば調べるほど、
「これ、本当に偶然?」
という気持ちが強くなっていった。
第一部では、溝咋神社そのものに残された謎を追った。
今回は、その神社を一度外から眺めてみたい。
つまり、
「なぜ茨木という土地に、これほど古代出雲を連想させるものが残っているのか」
というところまで、少しだけ範囲を広げてみる。
もちろん、先に断っておきたい。
ここで書くことのすべてが「歴史的事実」として確定しているわけではない。
・記紀に書かれていること
・考古学的に確認されていること
・神社や地域に伝わっていること
そして、いわゆる「出雲口伝」と呼ばれる伝承。
それぞれ性格が違う。
だから今回は、それらを全部ひとまとめにして「これが真実だ」と言うのではなく、
いくつもの資料を重ねたとき、どんな景色が見えてくるのか。
そんな気持ちで読んでもらえたらと思う。


1.まず、溝咋神社へ戻ってみる
大阪府茨木市五十鈴町。
ここに溝咋神社がある。
地図で見ると、現在は完全に住宅地の中にある。
でも、そこに残されている名前は、なんだか現代の住宅地とは少し違っている。
「五十鈴町」。
その名前を見ただけで、私は一度立ち止まってしまった。
なぜなら、ここで祀られている媛蹈鞴五十鈴媛命と、その名前が重なるからだ。
溝咋神社では、玉櫛媛と五十鈴媛命が重要な祭神として伝えられている。
そして記紀の物語では、三島溝咋の娘である玉櫛媛と事代主神との間に生まれたのが、媛蹈鞴五十鈴媛命。
その五十鈴媛命が、後に神武天皇の皇后になる。
ここだけを見ると、「神話の話だよね」で終わる。
でも地図を開き、町名が目に入ってくると少し違った見え方になる。
玉櫛
五十鈴
溝咋
東雲
三島
全部、この周辺に残っている町の名前だ。
そしてなぜか、出雲の空気感を感じる音に感じた。

もちろん、地名と神話上の人物名が似ているからといって、それだけで古代のつながりを証明することはできない。
でも、
「なぜ、この土地にその名前が残ったのか」
という問いを持つことはできる。
そして、そこから一歩踏み込むと、もっと面白いものが見えてくる。

2.茨木の地下には、もっと古い世界がある
茨木市の地図を見ていると、神社や遺跡が多い。
しかも、かなりの数が密集している。
茨木市が公開している旧石器時代から弥生時代の遺跡分布図を見ると、東奈良遺跡、玉櫛遺跡、溝咋遺跡、目垣遺跡、耳原遺跡、安威遺跡、総持寺遺跡など、さまざまな遺跡が市内に分布していることが分かる。

ここで少し考えてみる。
神話とは過去の人間が後世に文字や言葉として残されたストーリーである。
そして、遺跡はその痕跡ではないだろうか。。
そこでは、人が住んでいた。
何かを作っていた。
食べていた。
祈っていた。
そして、その痕跡が土の中に残された。
そう考えると、茨木という土地が急に立体的に見えてくる。
「神話に繋がる土地」であると同時に、
「人が暮らしが刻まれた土地」なのだ。
そのことを強烈に感じさせてくれるのが、東奈良遺跡だった。
3.東奈良遺跡の「銅鐸」
東奈良遺跡では、弥生時代の集落跡が見つかっている。
そして、ここがすごい。
銅鐸を作るための鋳型が発見されている。
しかも茨木市によれば、国内唯一のほぼ完全な形を保った銅鐸鋳型が見つかっている。さらに、周辺からは鋳造に使われた道具も出土し、東奈良遺跡が弥生時代の青銅器生産地だったことが分かってきている。
銅鐸。
これもまた、ゾクゾクさせられるものだ。
もちろん単なる「昔の金属製品」ではない。

当時の祭祀と深く関係していたと考えられている。その用途は豊穣の祈りの祭具や祭りなどで音を響かせた楽器のようなものなど諸説あるものの、人の祈りを乗せて、自然やなにか大きな存在に捧げるために使われていたようだ。
そして、そのための道具を作っていた場所が、この茨木にあった。
さらに東奈良遺跡では、銅鐸の「鈕」を描いた土器も見つかっている。
茨木市の資料では、この発見から、弥生時代中期、紀元前1世紀頃までには銅鐸が製作されていたことを考える手掛かりになるとされている。
ここで、私は少しだけ考え込んでしまう。
溝咋神社の神話は、ずっと後の時代の話だ。
東奈良遺跡は弥生時代。
年代も、資料の種類も違う。
だから、「東奈良遺跡=出雲族」と結論を下すには程遠い。
でも、確かなことは
この地域には、古くから祭祀と金属文化を持った人々がいた。これは考古学的な資料から伺える事実だ。そして、そういう土地に、
後世になって神話と氏族伝承が重なっていく。
この順番で考えると思考は拓けてくる。
4.「出雲口伝」を重ねてみる
ここで、もう一つの資料を重ねてみたい。
「出雲口伝」だ。
これは、一般的な歴史学で『古事記』『日本書紀』と同じように扱われている史料ではない。
そのため、ここでは「古代の事実をそのまま記録したもの」とは扱わない。
あくまで、記紀とは異なる古代史の伝承として見ていく。
出雲口伝を紹介する文献や研究者の説明では、
出雲王家の伝承と大和への移動が語られ、その中で事代主と三島との関係が重要な位置を占めている。
この伝承世界では、
出雲
三島
葛城
大和
これらが一つの流れとして語られる。
そして、その中心に事代主や、その子孫とされる人物たちが登場する。
ここで大事なのは、「出雲口伝が正しい」と決めることではない。
なんで、こんな伝承が残ったのか?
もし完全な創作なら、
なぜ三島という具体的な土地が登場するのだろう。なぜ溝咋や玉櫛といった、現在の茨木周辺に残る名前と重なる部分があるのだろう。
この文献だけでは証明にならないけれど、謎としては十分に面白いんじゃないかな。
5.三島は「通過点」だったのか
地図をもう一度開いてみる。
出雲から東へ。
日本海 ― 瀬戸内海 ― 大阪湾。
そして淀川水系。
その先に三島地域がある。
古代の交通を考えると、水上交通はとても重要だったはずだ。現在のような道路も鉄道もない。
だから川や海は、「移動を邪魔するもの」ではなく、「道」であった。
そしてその道沿いに三島鴨神社は今も鎮座している。
🚩Googleマップで見る
高槻市営バスの案内によれば、三島鴨神社は『延喜式神名帳』にも記載され、大山祇神と事代主神を祀る神社として紹介されている。
ここでも、
「三島」と「事代主」が出てくる。

そして、茨木の溝咋神社から高槻の三島鴨神社へ視線を移すと、三島という広い地域の中で神話と地名と水運が重なっているように見えてくる。

6.「みこし山」という小さな丘
さらに気になったのが、茨木市星見町にある「みこし山」。
今では住宅地の中にある小さな丘だ。
でも、茨木市の市史編さん室によれば、この場所には興味深い伝承が残っている。
地元の伝承では、玉櫛媛命と三島鴨神社の事代主命を夫婦神とし、かつて両社から神輿渡御があったという。
そして、このみこし山を玉櫛媛命の父、溝咋耳命の墳墓とする説も伝えられている。
茨木市の資料には、かつて直径約8メートル、高さ約2メートルほどの古墳だったという伝承も紹介されている。
これを読んだとき、「また出てきた」。
玉櫛媛、事代主、溝咋耳、三島。
今の住宅地を歩いているだけでは、そんな昔の物語はほとんど感じない。
でも、そこに「みこし山」という小さな丘が残っている。
私はこういう場所が好きだ。
巨大な古墳でも有名な観光地でもない。
住宅地の片隅に、ただ小さな丘がある。
明日香村の亀石もそう。何気ない日常に溶け込む歴史のレイヤー。飾らずに主張もせず、そこでじっと時を待っている健気さが好きだ。
みこし山には、その場所に、
「ここは昔、神輿を埋めた場所だった」
「ここは溝咋耳の墳墓だった」
という記憶が残っている。
それが本当だったのかどうかは、分からない。
だけど、人々がその場所を特別な場所として記憶してきたという事実は残る。
歴史って、案外こういうところに残っているのかもしれない。
7.そして、五十鈴媛命が気になり始めた

ここまで調べて、私は五十鈴媛命をもう一度見直すことになった。
最初は、「神武天皇の皇后になった女性」くらいの認識だった。
でも、母親を見る。
玉櫛媛。
その父を見る。
三島溝咋。
夫を見る。
事代主。
そして、その事代主は記紀の中で出雲神話と深く関係する人物として登場する。
すると五十鈴媛命は、
単に「初代天皇の皇后」という人物ではなく、三島と出雲と大和を結ぶ位置に置かれた女性として見えてくる。
もちろん、これは私の考察だ。
「だから実際にそのような政治的役割を担った」と証明できるわけではない。
でも、記紀そのものが、次のような系譜を残している。
三島溝咋
│
▼
玉櫛媛 ─── 事代主神
│
▼
媛蹈鞴五十鈴媛命
│
▼
神武天皇
この系譜そのものは、記紀という古代史料に記録されている。
だから私は、五十鈴媛命を考えるとき、「神武天皇の皇后」だけを見るのではなく、その前にどんな土地と人々がいたのかを見るようになった。
8.茨木を歩いて分かったこと
ここまで来ると、最初に感じていた違和感が少し整理できてきた。
茨木市には、
古い地名、古い神社、古代の遺跡、大きな川がある。
そして、三島という地域。
さらに、玉櫛媛や五十鈴媛命、事代主神、溝咋耳命などの伝承が重なる地でもある。
これらの要素を、別々にひとつだけ見れば「そういうこともあるよね」で終わる。
でも立ち止まって、全部を地図の上に置いてみる。
するとなんとなく線が見えてくる。
古代の人々が行き来した地域としてその痕跡を見ることはできる。
そして、
出雲口伝が語る世界と、記紀に残された三島の伝承を重ねて考えることもできる。
私が面白いと思ったのは、そこだった。
9.「龍」と「石」の信仰
ここから少し話が変わる。
いや。
正確には、変わったように見えて、実はつながっているのかもしれない。
それが、水と龍と石の関係。
古代の人々にとって、水は生命そのものだった。
川、泉、池、海。
そして、その水を生み出す山。
山から流れ出す水。
そこにある大きな岩。
そういうものに、人々が特別な意味を感じていたとしても、私はあまり不思議には思えない。
日本各地には、蛇や龍、水神、巨石をめぐる信仰が残っている。同じような自然環境に暮らせば、似たような信仰が生まれる可能性もある。
ただ、出雲大社の拝殿には有名な大注連縄がある。そのモデルは、ヘビがとぐろを巻いた姿をもしていると聞いたことがあった。
出雲と蛇。
この関係が意味するところとは。
神社が建つより前。
神様の名前が文字になるより前。
人々は山や川や岩を見て「ここには何かいる」と感じていたのかもしれない。
そう考えると、神社の奥にある「神聖なもの」の見え方が少し変わる。
10.三島から、大和へ
次の疑問が生まれた。
三島の先には何があるのか。
溝咋神社や三島を深く調べるうちに、
いまや媛蹈鞴五十鈴媛のファンのようになってしまった私が次に向かう場所はどこだろうか。
そう。大和の地、奈良だ。
記紀の中で五十鈴媛命は、神武天皇と結ばれる。
もし五十鈴媛命を三島側から見るなら、
「なぜ、この女性が大和の王権の中心に入ったのか」という問いが生まれる。
これは、歴史を揺るがす大きな問題じゃないのか!?
出雲と三島。
三島と大和。
そして、そこに葛城や鴨氏が加わってくる。
出雲口伝の世界では、このあたりがさらに一本の物語として語られている。
「次は奈良をこの目で見てみたい」
11.第2章 まとめ。 〜歴史のレイヤー〜
ここまで来ると、最初の溝咋神社からは、ずいぶん遠くまで来てしまった気がする。
でも、よく考えると、最初からずっと同じことを考えている。
「この土地には、何が残っているんだろう」ということだ。
溝咋神社から始まった。
玉櫛媛がいた。
五十鈴媛命がいた。
事代主がいた。
三島があった。
その周囲には、弥生時代の集落があり、銅鐸を作っていた人々がいた。
そして、川が流れていた。
人が移動した。
物が移動した。
文化が移動した。
神様の名前も、きっと人と一緒に移動した。
……なんて考えていると、また夜が深くなってくる。
歴史の話をしているはずなのに、だんだん地図の話になって。
地図を見ているはずなのに、今度は人の話になって。
最後には、神様と川と石の話になっている。
こういうところが、古代史の面白いところなのかもしれない。
そんな歴史のレイヤーを考えると
次に目指す奈良は飛鳥時代が教科書的な歴史の1ページ目であるだろう。
でも本当にそうなの?
飛鳥時代、急にそこに藤原京や集落が湧き出てくることはありえない。かならずその下地になった人の暮らしがあったはずだ。
神武天皇の東征によって奈良へ入った際、
土着勢力との戦いを経ている。
そのときに戦ったのが「ナガスネヒコ(長髄彦)」である。(先の出雲口伝にも登場している。)そしてその名から古代出雲の東王家「登美(とみ)家」であるとされている。
そんな彼が祀られている神社が奈良の富雄にあるそうだ。
目的地は決まった。
奈良 富雄。
ここには古代出雲族の王家のひとつ、富家の名を持つトミノナガスネヒコ(長髄彦)を祀る神社、添御縣坐神社がある。
奈良市観光協会によれば、神社の由来は
古墳時代に遡ることができ、一説に古事記に登場するイワレヒコ(のちの神武天皇)と戦った長髄彦(ナガスネヒコ)の御霊をまつる祠が起源という説も伝わります
茨木で感じた、古代出雲の香りを、富雄でなら更に感じられるのだろうか。
土地の記憶。
それらを、今度は奈良の側から見てみたい。
もしかすると、茨木で見えてきたものが、富雄でつながるかもしれないし、何もつながらないかもしれない。
でも、それでいいと思っている。
古代史を歩くというのは、
答えを探す旅というより、
「次に、どこを見ればいいのか」を探す旅 なのかもしれない。
深夜3時。
茨木から奈良へ。
富雄。
そして、その先にはまだ見たことのない古代の景色がある。
……ということで、今夜はここまで。
これまで考えていた「出雲」と「三島」の話を、もう一段深く考えるきっかけになるとは、この時はまだ知らなかった。
参考資料・出典
茨木市・公的資料
・茨木市「特集 銅鐸のセカイ in いばらき」
東奈良遺跡、銅鐸鋳型、青銅器生産などについて。
・茨木市「小銅鐸 附 舌」
東奈良遺跡から出土した小銅鐸について。
・茨木市「文化財めぐり 銅鐸を描いた絵画土器」
東奈良遺跡出土の銅鐸を描いた土器について。
・茨木市「旧石器時代~弥生時代」
市内の遺跡分布について。
・茨木市「みこし山伝承」
玉櫛媛命・事代主命・溝咋耳命とみこし山の伝承について。
高槻市・公的資料
・高槻市営バス「三島鴨神社」
三島鴨神社の所在地、祭神、由緒について。
古代史料
・『古事記』
・『日本書紀』
※記紀については、成立時期・編纂意図・神話的要素などを踏まえ、史料として慎重に扱っています。
出雲口伝について
本稿で触れた「出雲口伝」は、一般的な歴史学において『古事記』『日本書紀』と同等の一次史料として確定的に扱われているものではありません。
そのため、本稿では「史実」としてではなく、記紀とは異なる伝承・古代史観の一つとして紹介しています。
特に、出雲王家・富家伝承と三島・事代主・玉櫛媛などの関係については、伝承として紹介されている内容と、考古学・文献史学によって確認できる事実を区別して読んでください。
おわりに
ここまで読んでくれて、ありがとうございます。
たぶん、この話にはまだ答えがありません。
溝咋神社を見て純粋に「なんだろう?」と思ったことがきっかけで始まったこの考察&現地散策。
地図を開いて、「ここにも何かある」と感じ、
実際に歩いて「やっぱり気になる」と思った。
その繰り返しで、いつの間にか茨木から奈良まで来てしまった。
古代史って、たぶんそういうものなのかもしれません。
一つの謎が解決するたびに、次の謎が出てくる。
そしてまた地図を開く。
……まあ、そんなことをしていると、また夜が明けるんですけどね。
それでは、また。「第3章 富雄編」お楽しみに。