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17歳の青年日蓮と『授決円多羅義集唐決』――最古の筆跡から読み解く、円珍・中古天台・密教と思想形成

    はじめに――日蓮の現存最古層の筆跡は、法華経そのものではなかった

    嘉禎4年(1238)11月14日、安房国(あわのくに)清澄山(きよすみやま)の道善房(どうぜんぼう)で、17歳の青年僧が一冊の仏書を書写していました。その青年は、まだ「日蓮」とは名乗っていません。是聖房(ぜしょうぼう)、後の日蓮(1222~1282)です。その書物が、『授決円多羅義集唐決(じゅけつ えんたらぎしゅう とうけつ)』上巻でした。

    この写本は神奈川県立金沢文庫に保管され、国宝「称名寺聖教」の一資料である国宝『授決円多羅義集唐決上』として伝えられています。現在確認できる日蓮の最古層の自筆資料として、青年日蓮の思想形成を考えるうえで極めて重要な史料です。

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    この一冊が興味深いのは、単に17歳の日蓮の筆跡が残されているからではありません。日蓮が書写していたのは、法華経そのものでも、自らの思想を書き記した著作でもありませんでした。天台宗第5代座主・円珍(えんちん、814~891)の真正な著作『授決集(じゅけつしゅう)』を基礎としながら、後世の天台教学、とりわけ密教的な解釈を加えて再構成された文献であり、現在では円珍自身の著作とは考えられていません。
     
    つまり、日蓮の現存最古層の筆跡は、後世に円珍へ仮託された高度な天台・密教教学書の写本なのです。この事実は、青年日蓮の思想形成を考えるとき、最初から完成された「日蓮教学」を彼の中に想定してはならないことを示しています。17歳の日蓮が身を置いていたのは、天台、密教、口伝、祖師の権威、真正文献と仮託文献が複雑に重なり合う、中世仏教の教学世界のただ中でした。
     
    そして日蓮の生涯を後年まで追っていくと、この17歳の書写は孤立した青年期の一挿話ではなかったことが分かります。身延入山後の日蓮は、「一代の聖教」を備え、「八宗の章疏」を学ぶ必要を説き、自ら所持していた経典・章疏の欠落や誤写を老いる前に整理し直そうとしていました。青年期に始まった「読む・写す」という営みが、やがて「集める・校訂する・比較する・検証する」という方法へ発展していったのです。
     
    本稿では、この一冊から出発して、円珍その人、『授決集』、『授決円多羅義集唐決』の成立、清澄寺における青年日蓮の修学、そして後年の日蓮が円珍の文献をどのように読み直したのかを検討します。そこから見えてくるのは、単なる「青年期の勉強の記録」ではなく、日蓮が何を学び、何を比較し、何を選び、最終的に何を仏教理解の判断基準としていったのかという、長い思想形成の過程です。


    1 17歳の是聖房――奥書が確実に語ること

    『授決円多羅義集唐決上』の末尾には、書写の年月日・場所・筆写者の年齢などを伝える識語が残されています。その影印の判読や翻刻には、「大才」「太才」「大歳」、「阿房国」「安房国」、「才」「歳」など、細部に異同があります。そのため、本稿では個々の字形を必要以上に一つの翻刻へ固定せず、複数の翻刻に共通する史料上の核心を重視します。

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    是聖房(17歳)書写 授決円多羅義集唐決上・末尾

    授決円多羅義集唐決上
    嘉禎四年太才戊戌
    十一月十四日
    阿房国東北御庄清澄山道善房
    東面執筆是聖房生年十七才
    後見人々是無非謗
     
    一方、これまでの論考や資料の翻刻によっては、「大歳戊戌」「安房国」「生年十七歳」「後見人々無非謗」などと読まれており、『日蓮聖人真蹟集成』所収影印の判読でも細部に異なる読みが示されています。しかし、嘉禎4年(1238)11月14日、清澄山の道善房、是聖房という史料上の核心については一致しています。

    この末尾句は、「後に見る人々よ、これを非難・誹謗することなかれ」といった趣旨に読むことができます。山上弘道氏はこれを「筆写本識語の常套句」と位置づけています(興風談所「御書統合システム」掲載)。したがって、この一句だけを根拠として、17歳の日蓮が『授決円多羅義集唐決』の内容を全面的に信奉していた、あるいは逆に一定の距離を取っていたと断定することには慎重であるべきでしょう。
     
    史料から確実に分かるのは、17歳の是聖房が、この天台・台密教学に関わる高度な文献を実際に書写していたという事実です。この一点だけでも、青年日蓮の修学を法華経だけに限定されたものとして捉えることはできません。現存する最古層の筆跡が、すでにこのような天台教学書の書写として残されていること自体が、日蓮の学問的出発点を考えるうえで重要な手掛かりとなります。 


    2 出家年齢――17歳以前の出家は確実、16歳得度説とは整合する

    この奥書は、日蓮の出家年齢を考えるうえでも重要です。是聖房という房号を用い、道善房のもとで仏書を書写している以上、嘉禎4年(1238)11月14日、17歳の時点で日蓮がすでに出家者であったことは確実です。
     
    伝記上は、嘉禎3年(1237)、16歳で道善房を師として得度し、是聖房蓮長と名乗ったとする説が広く伝えられています。17歳の自筆奥書はこの伝承と矛盾しません。一方、18歳出家とする後世資料も存在しますが、17歳の自筆資料にすでに「是聖房」と記されている以上、18歳になって初めて出家したとする説には明らかな難点があります。後世成立の遺文や伝記の年代比定を考える際にも、この17歳自筆奥書は重要な基準になります。
     
    ただし、史料上の限界も明確にしておかなければなりません。この奥書そのものが証明するのは、17歳の時点ですでに出家者として活動していたというところまでです。「16歳の何月何日に得度した」という具体的な時期まで、この写本だけから証明することはできません。16歳得度説は伝記資料と整合しますが、自筆奥書そのものから直接導かれる事実とは区別して考える必要があります。
     
    この区別は小さな問題ではありません。
    日蓮研究では、後世の伝記や門流資料によって補われた生涯像が、いつの間にか自筆史料による確定事項のように扱われることがあります。青年日蓮の生涯を復元する際には、自筆史料で確認できること、初期伝承から復元できること、後世の伝記によって付加されたことを、一段ずつ分けて考える姿勢が必要です。

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    3 円珍――法華教学と密教をともに担った天台僧

    では、17歳の日蓮が、その名の権威を背負った文献を書写していた円珍とは、どのような人物だったのでしょうか。円珍は弘仁5年(814)、讃岐国に生まれました。俗姓は和気氏で、出家以前の名として「廣雄」が古文書に確認されます。母は空海の姪であったと伝えられていますが、この血縁伝承を円珍の密教教学と直接結びつけることはできません。
     
    15歳で比叡山に入り、義真(ぎしん、781~833)に師事して天台教学を学びました。円珍の生涯にとって大きな転機となったのは、仁寿3年(853)の入唐です。唐では天台山国清寺などを巡って天台教学を学ぶとともに、長安の青龍寺では法全から密教を受法しました。帰国後は園城寺(三井寺)を重要な教学拠点として整え、貞観10年(868)には第5代天台座主となります。
     
    円珍を単純に「密教僧」と見るだけでは、その教学を十分に理解できません。円珍の内部には、最澄以来の天台法華教学と、入唐によって深めた密教教学が同時に存在していました。問題は、この二つをどのように関係づけるかという点にあります。法華経を天台教学の究極として理解する方向と、大日経をはじめとする密教を高度に位置づける方向との間には一定の緊張があり、この問題は円珍一人の教学だけにとどまりませんでした。数百年後、日蓮自身が円珍に帰される複数の文献を比較する際にも、この問題が改めて現れてきます。
     
    なお、後年の日蓮は『報恩抄』で円珍について「仁寿二年に御入唐」と記していますが、円珍自身の入唐関係文書や『行歴抄』(円珍の入唐求法の行程を伝える史料で原本は散逸したが、石山寺に鎌倉時代の写本が伝わる)によれば、実際の渡唐は仁寿3年(853)です。唐で発給された「台州温州公験」などの公験文書(東京国立博物館所蔵)も現存しており、853年の入唐は史料的に確認できます。この一年のずれは、日蓮自身が円珍の伝記をどのような史料によって理解していたのかを考える際の、小さな手掛かりとなります。日蓮の記述もまた、現代の研究から見れば検証される史料の一つであり、祖師の文章だから無条件に歴史的事実とみなすべきではありません。

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    4 円珍『授決集』――晩年の54の教学問題

    円珍の真正著作の中で、本稿にとって最も重要なのが『授決集』です。
    『授決集』は上下2巻、『大正新脩大蔵経』第74巻、No.2367に収録されています。序文によれば、元慶8年(884)2月23日、晩年の円珍が、長く身近に仕えた弟子・良勇(りょうゆう)のためにまとめたものでした。
     
    円珍は序文で、唐で得た記録や、その後集めた文献を整理して「五十四件」を一書にまとめ、上下に分けて『授決集』と名づけたと記しています。上巻18条、下巻36条から構成されており、単なる天台教学の要約ではなく、円珍が長年抱えてきた教学上の問題を一つずつ整理した「決疑集」と見ることができます。
     
    特に重要なのが、法華経の位置づけです。『授決集』には、法華経を単純に五時八教の一項目として閉じ込めず、通常の教判を超えた究極の教えとして捉える方向が見られます。また、真言や禅門などを、法華・華厳・涅槃等に対する「摂引門(しょういんもん)」と位置づける文も存在します。ここでは、密教を法華経より無条件に上位へ置くという単純な構図にはなっていません。
     
    円珍の真正な『授決集』には、法華経を極めて高く位置づける天台僧としての円珍が存在しています。後年の日蓮がこの『授決集』を法華経注釈の材料として繰り返し参照したことを考えると、円珍批判と円珍著作の利用とは相反するものではありません。日蓮は円珍という人物を一括して否定したのではなく、個々の文献とその内容を検討していたと見る必要があります。

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    5 『授決円多羅義集唐決』――円珍に仮託された中古天台文献

    ところが、17歳の日蓮が写したのは『授決集』そのものではありませんでした。『授決集』と同じ54の論目を利用しながら、その内容を後代の天台教学によって大きく読み替えた『授決円多羅義集唐決』です。この書は『円多羅義集』とも呼ばれます。
     
    『授決円多羅義集唐決』の性格を端的に言えば、円珍の『授決集』の論目構成を踏襲しつつ、その内容を阿字義(あじぎ)などの密教思想によって再解釈した、中古天台初期の口伝教学文献と位置づけることができます。『授決集』では前面に出ていなかった密教的解釈が強く導入され、円教と密教の一致、さらには部分的には密教優位へ傾く理解が展開されています。したがって、円珍の真正な『授決集』と、後世の『円多羅義集』とを同じ思想内容の書物として扱うことはできません。
     
    しかも、この書の著者については、日蓮以前の段階ですでに疑問が呈されていました。平安末期から鎌倉初期に活動した天台学僧・宝地房証真(ほうじぼうしょうしん)は、天台教学の根本典籍である『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』について詳細な注釈・考証を加えました。これら『法華玄義私記』『法華疏私記』『止観私記』の三部は、後に総称して『法華三大部私記』と呼ばれています。
     
    そのうち『法華文句』に関する注釈書である『法華疏私記』において、証真は『円多羅義集』を取り上げ、「彼書誰人所著未詳」――すなわち、この書が誰によって著されたものかは明らかでない、と記しています。さらに、『授決集』を解釈した書ではあるものの、その文義には疑うべきところが多いとの判断も示しています。
     
    この点は、『授決円多羅義集唐決』の成立を考えるうえで重要です。証真が活動した12世紀後半から13世紀初頭には、すでに『円多羅義集』が天台教学の世界で流通していた一方、その著者が誰であるのかは明らかでなく、内容についても疑義が呈されていました。したがって、嘉禎4年(1238)に17歳の日蓮が同書を書写した時点では、『円多羅義集』はすでに一定の伝承を有する教学書でありながら、その成立事情については不明な点を残した文献であったことになります。
     
    したがって、成立年代を特定の一年へ固定することはできません。現段階では、平安時代末期頃までには成立していた可能性が高いと見るのが妥当でしょう。また成立地についても、比叡山を中心とする日本天台教学圏との強い関係が考えられますが、特定の僧侶や寺院まで確定できる史料はありません。青年日蓮が写した文献そのものが、このように成立事情の不明な仮託文献だったことは、中世仏教の文献世界を理解するうえで非常に重要です。

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    6 「唐決」という権威――なぜ後代文献が円珍の名を必要としたのか

    題名にある「唐決(とうけつ)」も見逃せません。これは単に「唐で書かれた文献」という意味ではなく、入唐僧が唐の高僧へ教学上の疑問を問い、その決答を得たという形の伝承と関係しています。
     
    円珍は実際に唐へ渡り、天台山や長安で教学を学びました。だからこそ後代の人々にとって、「円珍が唐で得た決答」という形式には強い権威がありました。ここには、中世仏教の文献形成にしばしば見られる一つの特徴があります。新しい教学が形成されたとき、それを後代の新説として提示するのではなく、祖師がすでに知っていた秘伝、あるいは唐から伝えられた口決として遡及的に権威づける方法です。
     
    したがって、『授決円多羅義集唐決』を単純に「偽書」とだけ呼んで済ませると、この文献がなぜ形成され、なぜ円珍の名が必要とされたのかという歴史的意味を取り落とします。重要なのは、後代の天台教学が、円珍という祖師の権威、入唐求法という歴史的事実、「唐決」という伝承形式を重ね合わせることによって、自らの教学を正統化しようとした点です。
     
    17歳の日蓮は、そのような文献世界の中で修学していました。後年の日蓮が祖師名義の文献を比較し、その内容の整合性や外部記録との一致を問題にするようになることを考えると、この青年期の環境は一層興味深いものとなります。

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    7 現存するのは「上巻」――下巻は書かなかったのか、失われたのか

    現存する日蓮書写本は、末尾に「授決円多羅義集唐決上」と記される上巻です。ほぼ同時代の寛元3年(1245)書写、高野山宝寿院本は、上巻18項、下巻36項の上下2巻構成だったことが確認されており、『日本大蔵経』にも『授決円多羅義集唐決』2巻として収載されています。
     
    したがって、日蓮が用いた原本も上下2巻本であった可能性は高いでしょう。しかし、日蓮書写本については下巻が現存しません。日蓮は上巻だけを写したのか、それとも上下とも書写した後に下巻だけが失われたのか、現在の史料から判断することはできません。
     
    この問題は小さな書誌的事項に見えますが、青年日蓮の学習内容を復元する際には重要です。『授決円多羅義集唐決』全体を日蓮が通読・書写したことを前提として思想的影響を論じることはできず、現存資料が示す範囲を超えないことが必要だからです。日蓮研究では、失われた部分を後世の思想から逆算して補うのではなく、確認できる資料の範囲を明確にしておくことが、かえって論証の強度につながります。

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    8 一人で写したのではなかった――写本に混在する他筆

    さらに興味深いのは、この写本が是聖房一人の筆だけで書かれたものではなく、複数箇所に他筆が混在していることです。この点について、興風談所が公開する「御書統合システム」に掲載された山上弘道氏の論考「是聖房『授決円多羅義集唐決 上』筆写について」は、『日蓮聖人真蹟集成』第5巻所収の影印をもとに、筆跡の交替箇所を具体的に検討しています。山上氏によれば、他筆部分は八丁表から八丁裏、十丁表から十二丁裏、十六丁表から十八丁裏に及び、全体で約六丁分に達します。
     
    重要なのは、単に「字が違って見える」というだけではありません。山上氏は、たとえば八丁表において、同じ一行の途中までを是聖房が書き、その文章の途中から別人がそのまま書き継いでいる箇所を示しています。この状態からすれば、後世になって欠失部分を別人が補写したと考えるよりも、嘉禎4年(1238)の書写そのものが複数人による作業として行われたと見る方が自然です。山上氏自身も、これを「是聖房と某師が、共同作業で筆写したもの」と判断しています。
     
    さらに山上氏は、是聖房筆と他筆部分に現れる「五味」「法花」など同じ文字を比較し、他筆部分の方が17歳の是聖房の文字より整った字体を示していることにも注目しています。そのため、単なる対等な共同書写というより、年長の僧が是聖房を教導しながら書写を進めた可能性が高いとしています。これは、17歳の日蓮が一人で難解な教学書を独学していたのではなく、清澄寺における教学指導の中で『授決円多羅義集唐決』を書写していた可能性を考える重要な材料になります。
     
    ただし、その他筆者が誰であったのかは判明していません。山上氏は、想定される人物として師の道善房や、兄弟子で初等教育時代の師とも考えられる義浄房・浄顕房などを挙げていますが、これらの人物について筆跡を直接照合できる史料がなく、特定には至っていません。したがって本稿でも、他筆者を道善房・義浄房・浄顕房のいずれかであると断定することは避けます。
     
    この事実は、青年日蓮の修学環境を考えるうえで重要です。青年日蓮を、寺の一室で一人だけ難解な書物を読んでいた孤独な天才として想像するよりも、清澄寺の教学環境の中で、年長の僧侶から教導を受け、場合によっては同じ写本をともに書き進めながら学習していた姿を考える方が、現存写本の状態には即しています。
     
    しかも山上氏は、このような共同的な書写・教学方法について、後年の日蓮自身が弟子とともに『秘書要文』『天台肝要文集 上』『双紙要文』『行忍手沢要文集』などを作成した例にも注意を向けています。青年期に自らが受けた修学方法が、後年には弟子を教導する側となった日蓮の教学活動にもつながっていた可能性があるという指摘です。
     
    したがって、『授決円多羅義集唐決上』は、17歳の日蓮が何を学んでいたかを示すだけの史料ではありません。その紙面そのものに、青年僧・是聖房が他の僧侶と関わりながら教学を学んでいた具体的な修学の痕跡が残されているのです。17歳の日蓮の思想形成を考えるとき、書物の内容だけではなく、誰かから教えを受け、同じ文献をともに書写するという中世寺院の学習環境まで視野に入れる必要があります。

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    9 清澄寺は、中央教学から隔絶した寺ではなかった

    平安末期頃に成立したと考えられる高度な天台口伝文献が、嘉禎4年(1238)には安房国清澄山に存在し、17歳の日蓮が書写していました。この一点だけでも、13世紀前半の清澄寺を、中央の教学動向から切り離された地方寺院と見ることはできません。
     
    さらに、ほぼ同時期の寛元3年(1245)には高野山宝寿院で同書が書写されています。だからといって、清澄寺を直ちに「全国的な仏教文献ネットワークの中心」と評価する必要はありません。そこまで論じるには、典籍の具体的な移動経路や僧侶の往来をさらに積み上げる必要があります。しかし少なくとも、清澄寺には当時の高度な天台・密教教学へ接することのできる環境が存在していたことは、この写本そのものが示しています。
     
    また、建治2年(1276)の『清澄寺大衆中』では、日蓮が清澄寺方面の人物に対して、『十住心論』『秘蔵宝鑰』『二教論』等を伊勢公御房から借り、『止観』第1・第2巻を持参し、『東春』『輔正記』の有無を尋ね、観智房所持の『宗要集』を借りるよう具体的に依頼しています。これは、『授決円多羅義集唐決』を青年日蓮が書写した1238年から38年後の記述ですが、これらすべてが清澄寺そのものの蔵書だったという意味ではありません。しかし、日蓮が晩年に至っても清澄寺周辺の旧知の僧侶たちを通じて、高度な天台・真言文献を求めていたことは事実です。
     
    青年期の日蓮にとって清澄寺は単なる出家寺院ではなく、仏教文献へ接する最初の重要な場でした。そして晩年になっても、その周辺に形成されていた人的・文献的関係は、日蓮の研究・著作活動の中で利用され続けていたのです。

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    10-1 「書写した」ことと「信奉した」ことは同じではない

    17歳の日蓮が『授決円多羅義集唐決』を書写したという事実は重要ですが、そのまま「日蓮は17歳当時、この書物の教学を全面的に信奉していた」と結論することはできません。中世寺院における書写には、学習、師命、文献保存、講義、共同修学など複数の意味があるからです。
     
    一方で、ただ機械的に文字を写しただけで、思想形成とは何の関係もなかったと考えるのも不自然です。『授決円多羅義集唐決』は初学者向けの単純な仏教入門書ではなく、円珍『授決集』の54の教学問題を前提として、阿字義、密教、天台教判などを複雑に扱った文献です。このような書物を17歳で筆写していたこと自体が、青年日蓮の修学水準と学問環境を示しています。
     
    したがって最も慎重かつ積極的に言えるのは、17歳の日蓮が、中古天台・台密的教学の概念世界に実際に接し、それを学習する環境にいたということです。現在の写本に他筆が混在することまで考えれば、それは単なる所有や閲覧ではなく、一定の教学活動の中で行われた書写であった可能性がさらに高まります。
     
    日蓮は完成した法華経思想を携えて清澄寺を出発したのではありません。当時存在していたさまざまな仏教教学の中へ実際に入り込み、それらを学ぶところから出発したと考える方が、史料に即した日蓮像と言えるでしょう。


    10-2 立教後に大日如来からの相承を明言した日蓮――『不動・愛染感見記』

    青年期の日蓮と密教との関係を考えるうえで、17歳の『授決円多羅義集唐決』書写だけを見ていては十分ではありません。その後の日蓮は、建長3年(1251)、30歳の時に覚鑁(かくばん、1095~1143)の『五輪九字明秘密義釈(ごりんくじみょうひみつぎしゃく)』を書写しています。円珍系の中古天台・台密教学に接した17歳の是聖房が、13年後には真言密教の重要学匠である覚鑁の著作を書写していたことになります。青年日蓮にとって密教教学との接触が、清澄寺時代の一時的な経験だけに終わっていなかったことは、この二つの書写史料を並べるだけでも理解できます。
     
    さらに重要なのが、建長6年(1254)6月25日の『不動・愛染感見記』です。
    これは建長5年(1253)、日蓮が清澄寺で「此の法門を申し始め」、後世にいわゆる立教と位置づけられる活動を開始した翌年にあたります。
    『不動・愛染感見記』には、愛染明王について「生身愛染明王拝見 正月一日日蝕之時」とあり、不動明王についても「生身不動明王拝見 自十五日至十七日」と記されています。そして両幅には、ともに極めて重要な文言が記されています。
     
    自大日如来至日蓮廿三代
    嫡々相承
    すなわち、「大日如来より日蓮に至る二十三代、嫡々相承」です。

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    『不動・愛染感見記』より不動明王幅
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    『不動・愛染感見記』より愛染明王幅

    この一文の意味は重く受け止めなければなりません。
    17歳で密教的な中古天台文献を書写したという事実だけであれば、それを修学上の書写として、日蓮自身の信仰的立場とは一定程度区別して考える余地があります。30歳で覚鑁の著作を書写した事実についても、学問上の研究行為という理解は可能でしょう。しかし、『不動・愛染感見記』では、立教翌年の日蓮自身が大日如来を起点とする相承の系譜に自らを置き、「大日如来より日蓮に至る23代、嫡々相承」と明記しています。これは単に密教について知識があったことを超えて、少なくともこの時期の日蓮が、自らを密教の法脈から切り離していなかったことを明瞭に示すものです。
     
    この史料を踏まえれば、建長5年(1253)を境として、それ以前の日蓮とそれ以後の日蓮を完全に切断するような思想史は成立しにくくなります。日蓮は法華経最第一の立場を明確にし、南無妙法蓮華経の弘通を開始しましたが、その瞬間に、それまで十数年以上にわたって身につけてきた天台・台密教学、密教相承の意識、明王信仰などをすべて捨て去ったわけではありません。むしろ法華経を中心とする新たな方向を歩み始めながらも、立教直後にはなお台密僧としての自己認識を明確に保持していたと読む方が、『不動・愛染感見記』の記述には即しています。
     
    ここで17歳、30歳、33歳という三つの時点を並べると、青年日蓮と密教との関係が一層明瞭になります。嘉禎4年(1238)、17歳の是聖房は『授決円多羅義集唐決』を書写しました。建長3年(1251)、30歳の日蓮は覚鑁『五輪九字明秘密義釈』を書写しました。そして建長6年(1254)、33歳の日蓮は『不動・愛染感見記』において、大日如来から自らに至る23代の嫡々相承を明言しています。これは、青年日蓮の密教修学を「若い頃に少し密教も勉強した」という程度に矮小化することができないことを示しています。青年期から立教後に至るまで、台密・密教教学は日蓮の宗教的・教学的形成の内部に存在し続けていたのです。
     
    『不動・愛染感見記』における両明王の感見についても、中世天台の宗教文化の中で考える必要があります。慈円の口伝を弟子慈賢が記した『四帖秘決』には「日愛染月不動事」として、日輪中に愛染明王、月輪中に不動明王を見るという説が記されています。『不動・愛染感見記』の図像についても、後世の密教図像との関連が研究されており、日蓮の宗教経験を、当時の天台・密教世界から切り離された孤立した神秘体験として理解する必要はありません。むしろ、長年にわたって台密・密教を学んだ求道者が、その教学・図像・修法・宗教観念を自己の内面世界に摂取していたことを背景として考えるべきでしょう。
     
    そして、この問題は『不動・愛染感見記』だけで終わりません。
    文永8年(1271)以降、日蓮が図顕した妙法曼荼羅には、不動明王・愛染明王が梵字によって繰り返し配列されます。これは、青年期以来の日蓮の密教経験が単に過去のものとして捨て去られたのではなく、後年の法華経信仰世界の中へ再配置されたことを示しています。妙法曼荼羅の中心は「南無妙法蓮華経」であり、そこに示される世界は大日如来を中心とする両部曼荼羅とは異なります。その法華経を中心とする曼荼羅の内部に、不動明王と愛染明王が位置づけられているのです。
     
    後年の日蓮は東密・台密などの密教を批判しましたが、一方で不動明王・愛染明王そのものを排除したのではありません。大日如来を教主として密教を法華経より上位に置く教判などは、後に厳しく問い直していきますが、両明王は妙法蓮華経と法華経の行者を守護する尊格として、日蓮の法華経信仰世界の内部に明確に再配置されました。大日如来を中心とする密教世界の明王が、南無妙法蓮華経を中心とする妙法曼荼羅に摂入されたという事実そのものが、日蓮による密教受容の最終的な変化を具体的に示しています。
     
    ここには、日蓮思想の形成を理解するうえで重要な「受容・批判・再構成」の過程があります。日蓮は密教を青年期から深く学び、南無妙法蓮華経の弘宣、法華勧奨開始後も自らを大日如来からの相承に位置づけ、その宗教世界を自己の内面に摂取していました。その後、法華経と教主釈尊を判断基準として密教の教判や相承を批判するに至りますが、青年期以来のすべてを捨て去ったのではなく、不動・愛染をはじめとする要素には新たな教理的位置を与え、妙法蓮華経を中心とする世界の内部へ再配置していったのです。同様のことは、日本の神である天照大神・八万大菩薩についてもいえることでしょう。
     
    この意味で、『不動・愛染感見記』は、青年日蓮の密教修学と後年の密教批判との間をつなぐ重要な史料です。17歳の『授決円多羅義集唐決』から、30歳の『五輪九字明秘密義釈』、立教翌年の『不動・愛染感見記』、そして文永8年以降の妙法曼荼羅へと追っていくと、そこに見えてくるのは単純な「密教から法華経への転向」ではありません。密教世界の内部で学んだ一人の天台僧が、法華経を中心軸として自らの教学を形成し、その過程で密教を批判的に選別し、最終的には法華経世界の中へ再構成していく長い思想形成の過程なのです。


    11 青年期、17歳、18歳ですでに法然・善導を知っていた

    青年日蓮の学習範囲が天台・密教だけでなかったことは、真蹟遺文からも確認できます。文永元年(1264)12月13日の『南条兵衛七郎殿御書』で、日蓮は自らの青年期を振り返り、「法然・善導等がかきをきて候ほどの法門は、日蓮らは十七八の時よりしりて候き」と記しています。すなわち、17、18歳頃には法然・善導の教学をすでに知っていたという自己証言です。
     
    これは、『授決円多羅義集唐決』を書写した17歳前後の青年日蓮が、天台・密教だけでなく、浄土教学にも接していたことを意味します。青年日蓮の修学を一つの宗派教学に限定して考えることは難しく、少なくとも複数の教学が比較の対象として視野に入り始めていたと見ることができます。
     
    ただし、この史料から17、18歳の学習地まで確定することはできません。後世の年表では、この時期に鎌倉へ遊学して念仏・禅を学んだとされることがありますが、『南条兵衛七郎殿御書』そのものは、17、18歳で法然・善導を知っていたと記すだけで、場所を明記していません。したがって、法然・善導教学への接触は確認できても、それを鎌倉遊学へ直結させることは伝記的復元として一段分ける必要があります。
     
    17歳で円珍系の教学文献を書写し、ほぼ同じ年齢で法然・善導の教学も知っていた。この二つの史料を重ねると、青年日蓮の知的関心がかなり早い段階から複数の教学へ広がっていたことが見えてきます。

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    12 数十年後、日蓮は真正の『授決集』へ戻っている

    青年日蓮が書写した『授決円多羅義集唐決』は、真正の『授決集』を後代の教学によって再解釈した文献でした。ところが後年の日蓮は、その原典にあたる円珍自身の『授決集』を詳細に読んでいます。玉沢妙法華寺に伝わる『注法華経』には、『授決集』から多数の文章が書き込まれており、短い引用だけでなく、紙背や余白を用いながら長文を記した箇所も確認されています。
     
    ここで『注法華経』そのものの規模にも目を向ける必要があります。これは法華経8巻に、開経の『無量義経』1巻、結経の『仏説観普賢菩薩行法経』1巻を加えた全10巻に、本文の行間や余白、紙背まで用いて多数の経論・章疏の要文を書き入れた資料です。山中喜八編著『定本注法華経』の整理によれば、その注記は全体で2107章に及び、そのうち3章は日興筆と推定され、残る2104章が日蓮筆とされています。
     
    その内容は天台・法華関係文献を中心としながら、きわめて広範囲に及びます。密教関係として整理される注記だけでも52章あり、『大日経』『金剛頂経』『蘇悉地経』をはじめ、『大日経疏』『大日経義釈』、空海『弁顕密二教論』『秘蔵宝鑰』、円珍『大毘盧遮那経指帰』、安然『真言宗教時義』『胎蔵金剛菩提心義略問答抄(菩提心義抄)』など、多数の密教経典・章疏が取り込まれています。さらに、円珍の真正著作『授決集』からも多数の文章が注記されており、日蓮が青年期に接した『授決集』系の教学を、後年にはその原典へ遡って読み直していたことが確認できます。
     
    この規模から見えてくるのは、『注法華経』が単に「法華経の余白へ少し注釈を書き込んだ本」ではないということです。日蓮は法華経本文を中心に置き、その周囲へ諸経・諸論・諸祖師の文章を大量に集積していました。そこには浄土教関係の典籍もあれば、密教関係の経論釈もあり、円珍『授決集』もその一部として利用されています。
     
    重要なのは、日蓮が多くの経論釈を読むこと自体を目的としていたのではなく、それらを法華経本文の周囲へ配置しながら比較していたという点です。『注法華経』の物理的構造そのものが、その学問方法を象徴しているとも言えるでしょう。諸宗の文献は排除されているのではなく、法華経を読むための比較材料として、その周囲へ集められているのです。
     
    さらに、身延入山翌年の文永12年(1275)3月10日、日蓮は真蹟『曾谷入道殿許御書』で、より明確に自らの学問方針を記しています。
     
    此の大法を弘通せしむるの法には、必ず一代の聖教を安置し、八宗の章疏を習学すべし。
     
    日蓮は法華経を弘通するためにも、釈尊一代の聖教を備え、八宗の章疏を学ばなければならないと考えていました。さらに、自ら所持していた聖教が伊豆・佐渡の流罪や度重なる法難の中で散失し、一字二字の脱落や「魚魯の謬悞」、すなわち似た文字の誤写、さらには一部・二部の損壊まで生じたため、自分が老いる前にそれらを「糾調」しておきたいと述べています。
     
    これは日蓮の学問方法を考えるうえで。極めて重要な自己証言です。
    日蓮は単に、多くの仏書を集めようとしていたのではありません。欠落、誤写、損壊を意識し、本文をできるだけ正確な状態へ戻そうとしていました。そしてその目的を、自分一代のためではなく、後の弟子たちに誤った教学が生じることを防ぐためだと説明しています。ここには資料収集だけでなく、教理の整備と伝承に対する強い意識が認められます。
     
    このように考えると、後年の日蓮が円珍を批判するようになってからも『授決集』を読み続けていたことは、決して不思議ではありません。日蓮にとって批判とは、対象となる文献を読まなくなることではありませんでした。むしろ必要な文献を集め、本文を確かめ、比較したうえで、何を採り、何を退けるのかを判断する。その方法の中に『授決集』も置かれていたのです。

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    13 「父少子老」――『授決集』は涌出品から寿量品を読む材料にもなった

    『注法華経』における『授決集』注記の中には、従地涌出品(じゅうじゆじゅつほん)から如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)へ進む重要な問題に関わるものがあります。その一つが「父少子老(ふしょうしろう)」です。
     
    従地涌出品では、大地から出現した無数の地涌菩薩を、釈尊が自ら教化した弟子であると明かします。しかし、釈尊が今世で成道してから経過した時間に比べれば、地涌菩薩たちはあまりにも老成しています。弥勒菩薩は、その不可解さを、若い父親が年老いた子を指して「これは私の子だ」と言うようなものだという譬えによって問い直します。その疑問に答える形で、次の如来寿量品において、釈尊の成仏が今世の菩提樹下に始まったものではなく、久遠の過去に遡ることが明かされます。
     
    日蓮は『注法華経』で、この文脈に関連して『授決集』を利用しています。ただし、17歳で『円多羅義集』を書写したことが、そのまま後の日蓮の久遠実成思想を生んだと結論することはできません。それを直接証明する史料はないからです。
     
    ここで重要なのは、青年期に日蓮が接していた『授決集』系の教学問題群を、後年の日蓮が真正の『授決集』へ遡って改めて読み、法華経解釈の材料として利用していたことです。『注法華経』全体が大量の経論釈を法華経本文の周囲へ集積した資料であることを考えれば、『授決集』もまた、法華経を読み解くための比較材料の一つとして位置づけられていたことが分かります。
     
    したがって、この「父少子老」の注記は、青年期の書写から久遠実成思想への直接的な因果関係を証明するものではありません。むしろ、日蓮が青年期に触れた教学文献群を後年まで記憶し、原典へ戻りながら法華経本文の理解に利用していたことを示す一例として捉える方が、史料に即しています。

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    14 『報恩抄』――日蓮は円珍に帰される二つの文献を突き合わせた

    建治2年(1276)の『報恩抄』には、さらに重要な場面があります。日蓮は、円珍に帰される『大日経指帰』と、円珍の真正著作『授決集』とを実際に並べ、その内容を比較しています。
     
    まず『大日経指帰』について、日蓮は「大日経の指帰に云く『法華尚及ばず、況んや自余の教をや』等云云」と引用します。これは、法華経すら大日経には及ばず、ましてその他の教えはなおさらである、という意味です。ところが日蓮は、続いて同じ円珍の『授決集』から、「又授決集に云く『真言禅門乃至若し華厳・法華・涅槃等の経に望むれば是れ摂引門なり』等云云」と引用しています。こちらでは、真言・禅門は、華厳・法華・涅槃等の経に対して人々を導き入れるための「摂引門(しょういんもん)」と位置づけられています。
     
    両者をそのまま並べれば、その方向性の違いは明らかです。『大日経指帰』では大日経が法華経より上位に置かれるのに対し、『授決集』では真言が法華経等へ導くための摂引門とされています。重要なのは、これは後世の研究者が二つの文献を拾い出して比較したのではなく、日蓮自身が『報恩抄』の同じ文脈の中で、円珍に関係する二つの文献を相前後して提示しているということです。
     
    さらに日蓮は、この問題を円珍一人の著作の比較だけにとどめず、円仁・円珍らの天台密教教学について、「或は真言すぐれ、或は法華すぐれ、或は理同事勝」などと、その判定が一定していないことを指摘しています。したがって、日蓮が問題としていたのは単に「円珍という祖師が誤っている」ということではありません。祖師の権威とは別に、実際の文献を取り出し、そこで説かれている内容を相互に突き合わせ、その教理的位置づけが整合しているのかを検討していたのです。
     
    17歳の青年日蓮が円珍へ仮託された『授決円多羅義集唐決』を書写していたことを考えると、この変化は一層興味深いものがあります。青年期には祖師の名を帯びた文献を修学する側にいた日蓮が、55歳の『報恩抄』では、祖師の名だけに依拠するのではなく、その人物に帰される複数の文献を実際に読み比べ、その内容を法華経に照らして判断する側に立っているからです。
     
    しかも前年の『曾谷入道殿許御書』では、自ら所持する聖教の誤写・脱落・損壊を問題にし、本文を「糾調」しなければ、後世の弟子の間に誤った教学が生じると危惧していました。『報恩抄』における文献比較は、このような日蓮の資料意識と切り離して考えるべきではないでしょう。

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    15 権威だけでは信じない――外部史料へ向けられた日蓮の視線

    『報恩抄』には、日蓮のもう一つの重要な史料認識が現れています。空海に関する奇瑞伝承を検討する場面で、日蓮は、その出来事が本当に起きたのかを問題にしています。たとえば夜中に太陽が現れたという伝承に対して、「左史右史の記に載せたりや」と問い、さらに「公家・諸家・叡山等の日記あるならば」、少しは信ずる余地があるかもしれないという論理を展開します。
     
    つまり日蓮は、宗教的権威者に帰される奇瑞だからという理由だけでは、そのまま受け入れていません。公家の日記、諸家の記録、比叡山の記録など、当該人物の教団の外側にある記録まで含めて裏づけを求めようとしています。これをそのまま近代歴史学の「史料批判」と同一視することはできませんが、祖師伝承を無条件に受け取らず、複数の記録と照合しようとする姿勢が存在したことは明らかです。
     
    この姿勢は『報恩抄』だけに現れるものではありません。
    前年、文永12年(1275)2月16日の『新尼御前御返事』(真蹟)で、日蓮は自ら図顕する本尊について、インドから中国へ渡った三蔵、中国からインドへ赴いた人々の記録、『西域記』などの書物、中国と日本を往来した僧侶・賢者の記録、さらには元興寺・四天王寺など日本の諸寺の日記や『日本紀』をはじめとする記録まで調べたと述べています。
     
    ここで日蓮が論じているのは、自ら図顕する曼荼羅本尊と同様のものが過去に存在したかどうかという問題です。したがって、その記述をそのまま現代的な歴史調査と同一視することはできません。しかし、日蓮が経典や注釈書だけでなく、寺院の記録や歴史書、旅行記・見聞記にまで調査範囲を広げていたことは注目すべきでしょう。
     
    『曾谷入道殿許御書』では経典・章疏の欠落や誤写を「糾調」しようとし、『新尼御前御返事』ではインド・中国・日本の寺院記録を調べ、『報恩抄』では空海の奇瑞について公家・諸家・叡山の日記による裏づけを要求する。これらを並べると、身延期の日蓮がかなり意識的に、複数種類の文献を収集・比較しながら自らの教学を整備していた姿が見えてきます。
     
    青年期に一冊の教学書を書写していた是聖房は、数十年後には、単に文献を読むだけでなく、本文の正確さ、複数文献の整合性、さらに外部記録の有無まで問題にするようになっていました。この変化は、本稿の主題である日蓮の思想形成を考えるうえで見逃すことができません。

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    16 『真言見聞』を本稿の論拠に用いない理由

    日蓮名義で伝わる『真言見聞』には、『大日経指帰』と『授決集』の矛盾をさらに進めて、どちらが本当に円珍の著作なのかという帰属問題に踏み込む非常に興味深い文章があります。もしこれをそのまま日蓮自身の著作と認めるなら、本稿にとって極めて魅力的な史料になります。しかし現在、『真言見聞』は、身延3世日進の『金綱集』に関連して形成された偽撰遺文群の一つとして整理されています。したがって、日蓮本人の思想を証明する一次史料として用いることは適切ではありません。
     
    この点は、ある意味で本稿の主題そのものとも重なります。円珍名義だから円珍の著作とは限らず、日蓮名義だから日蓮の著作とも限りません。祖師の名だけで真偽を決めるのではなく、その文献がいつ成立し、どのように伝承され、どの史料によって裏づけられるのかを検討する必要があります。
     
    そして、『真言見聞』を使わなくても、日蓮本人の文献に対する姿勢は十分に確認できます。『曾谷入道殿許御書』には本文を糾調しようとする姿勢があり、『新尼御前御返事』には歴史記録・寺院記録を調べる姿勢があり、『報恩抄』には複数文献を比較し、外部記録による裏づけを求める姿勢があります。こうした真蹟・真蹟曽存史料によって日蓮の方法を組み立てる方が、はるかに堅実だといえるでしょう。


    17 少年日蓮の虚空蔵菩薩への誓願から、17歳の『授決円多羅義集唐決』書写、大日如来からの相承、そして妙法曼荼羅への不動明王・愛染明王の配列へ

    ここまで、嘉禎4年(1238)に17歳の是聖房が書写した『授決円多羅義集唐決』を出発点として、青年日蓮がどのような教学世界の中で学び、その後どのように自らの思想を形成していったのかを見てきました。しかし、この論考ではこれまで触れてこなかった、もう一つ重要な出発点があります。それは、17歳よりさらに前、少年期の日蓮と虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)との関係です。
     
    虚空蔵菩薩は広く大乗仏教で信仰された菩薩ですが、日本ではとりわけ、智慧・記憶力を得るための密教修法である虚空蔵菩薩求聞持法(こくうぞうぼさつぐもんじほう)との関係でも重視されました。日蓮自身は、後年になって少年期を振り返り、自らが清澄山で虚空蔵菩薩に対して大きな誓願を立てたことを、少なくとも二度にわたって記しています。
     
    文永7年(1270)の『善無畏三蔵抄』(真蹟推定断片)では、次のように述べています。
    日蓮は安房国東条郷清澄山の住人なり。幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てて云わく「日本第一の智者となし給え」と云々。虚空蔵菩薩、眼前に高僧とならせ給いて、明星のごとくなる智慧の宝珠を授けさせ給いき。そのしるしにや、日本国の八宗ならびに禅宗・念仏宗等の大綱、ほぼ伺い侍りぬ。
     
    ここで日蓮が願ったのは、富や地位ではありません。
    「日本第一の智者となし給え」という、智慧そのものへの祈願でした。そして日蓮自身は、虚空蔵菩薩から「明星のごとくなる智慧の宝珠」を授かったという宗教的体験と、その後に諸宗の教学を学び得たこととを、自ら関連づけて回想しています。さらに建治2年(1276)の『清澄寺大衆中』でも、ほぼ同じ少年期の体験を語っています。
     
    生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給わりしことありき。「日本第一の智者となし給え」と申せしことを不便とや思しめしけん、明星のごとくなる大宝珠を給わって右の袖にうけとり候いし故に、一切経を見候いしかば、八宗ならびに一切経の勝劣、ほぼこれを知りぬ。
     
    もちろん、これらは少年時代の日記や同時記録ではありません。50歳前後になった日蓮が、自らの少年期を振り返って記した自己回想です。その意味では、この宗教体験が実際にいつ、どのような形で起こったのかを、これらの文章だけから歴史的事実として細部まで復元することはできません。しかし、少なくとも重要なのは、成熟した日蓮自身が、自らの長い修学生活の原点を「日本第一の智者となし給え」という少年期の誓願と、虚空蔵菩薩から智慧を授かったという体験に結びつけて理解していたことです。
     
    そう考えると、嘉禎4年(1238)11月14日の『授決円多羅義集唐決』書写は、突然現れた一つの出来事ではなくなります。少年日蓮が虚空蔵菩薩に智慧を求め、その後、清澄寺の教学環境の中で学問を深め、17歳にはすでに円珍教学を後世の天台密教的立場から読み替えた難解な文献を書写していた。そのほぼ同じ年齢には法然・善導の教学についても知っていたと、後年の『南条兵衛七郎殿御書』で自ら述べています。17歳の日蓮は、すでに一つの宗派の教義だけを学ぶ青年僧ではなく、天台・密教・浄土教を含む中世仏教の広い教学世界へ踏み込んでいたことになります。
     
    その修学は、いわゆる立教によって突然断ち切られたわけではありません。
    建長3年(1251)、30歳の日蓮は新義真言教学の祖・覚鑁(かくばん)の『五輪九字明秘密義釈』を書写しています。そして建長5年(1253)に南無妙法蓮華経の弘宣・法華勧奨を開始した翌年、建長6年(1254)の『不動・愛染感見記』には、不動明王・愛染明王に関する宗教体験とともに、
    「自大日如来至日蓮廿三代 嫡々相承」「大日如来より日蓮に至る二十三代、嫡々相承」と明記しています。
     
    17歳の『授決円多羅義集唐決』、30歳の覚鑁『五輪九字明秘密義釈』、そして立教翌年の「大日如来より日蓮に至る二十三代、嫡々相承」。この三つの史料を時間の流れの中に置けば、青年期の密教修学を、のちに捨て去られる一時的・周辺的な学習として処理することはできません。法華経最第一という新たな中心軸を打ち出した後も、少なくとも建長6年(1254)の日蓮は、なお自らを台密・密教の法脈と切り離しておらず、大日如来からの相承の内部に自己を位置づけていました。
     
    しかも、密教との関係は、その後「批判」という形に変化してからも完全には消滅しませんでした。日蓮はやがて、大日如来を釈尊より上位に置く真言教学や、法華経より大日経を上位に置く教判を厳しく批判するようになります。しかし、不動明王・愛染明王そのものを排除したのではありません。文永8年(1271)以降に顕される妙法曼荼羅には、両明王が梵字として繰り返し配列されます。大日如来を中心とする密教世界の尊格であった不動・愛染は、日蓮の妙法曼荼羅において、南無妙法蓮華経を中心とする法華経世界の内部に置かれ、法華経と法華経の行者を守護する尊格として再配置されたのです。
     
    ここで、少年期の虚空蔵菩薩への祈願が、そのまま後年の不動明王・愛染明王の曼荼羅配置を直接生み出したと断定することはできません。そのような直接的因果関係を語る史料は残されていないからです。しかし、両者をまったく切り離して理解する必要もありません。少年日蓮は、密教修法とも深く結びついた虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となし給え」と祈り、その体験を自らの修学の原点として後年まで記憶していました。
     
    その青年が天台・台密教学を学び、覚鑁の密教書を書写し、立教翌年にも大日如来から自己へ至る相承を明記し、さらにその後、不動明王・愛染明王を妙法曼荼羅の内部へ配置したという連続は、日蓮の宗教形成を考えるうえで見過ごすことのできないものです。少なくとも、後年の不動・愛染受容を、少年・青年期の宗教経験から完全に切断されたものとして理解することは難しいでしょう。
     
    一方、50代に入った日蓮の学問は、少年・青年期とは比較にならない規模へ広がっています。『注法華経』は、法華経8巻に『無量義経』1巻と『仏説観普賢菩薩行法経』1巻を加えた全10巻に、経論・章疏から膨大な注記を書き入れた資料です。注記総数は2107章と整理され、そのうち3章が日興筆と推定され、残る2104章が日蓮筆とされています。
     
    密教関係として整理される注記だけでも52章に及び、『大日経』『金剛頂経』『蘇悉地経』『大日経疏』『大日経義釈』、空海『弁顕密二教論』『秘蔵宝鑰』、円珍『大毘盧遮那経指帰』、安然『真言宗教時義』『胎蔵金剛菩提心義略問答抄』などが取り込まれています。そして、それとは別に、本稿の中心資料と深く関係する円珍の真正著作『授決集』からも多数の文章が注記されています。
     
    文永12年(1275)の『曾谷入道殿許御書』では、日蓮は「一代の聖教」を安置し、「八宗の章疏」を習学する必要を説きます。それだけでなく、自らの所持文献について、一巻二巻が散失し、一字二字が脱落し、「魚魯の謬悞(ぎょろのびゅうご)」、すなわち文字の誤写があり、一部二部が損朽していることを挙げ、老いる前にこれを「糾調」したいと述べています。青年期には与えられた書物を書写する側にいた日蓮が、50代には諸本を集め、本文の異同や欠損を点検し、後世へ残す文献を正そうとする側に立っていました。
     
    同じ文永12年(1275)の『新尼御前御返事』では、インド・中国の旅行記や寺院関係資料、日本の元興寺・四天王寺の記録、『日本紀』、さらに諸家の日記類にまで調査範囲を広げています。そして翌建治2年(1276)の『報恩抄』では、円珍に帰される『大日経指帰』と円珍の真正著作『授決集』を実際に並べ、両者の内容を比較しています。『大日経指帰』では法華経すら大日経に及ばないとする一方、『授決集』では真言・禅門を華厳・法華・涅槃等へ導く「摂引門」と位置づける。日蓮は、祖師の名だけを見てその権威に従うのではなく、個々の文献を実際に読み比べ、その内容が整合しているのかを問題にするようになっていました。
     
    さらに同じ建治2年(1276)の『清澄寺大衆中』では、『十住心論』『秘蔵宝鑰』『二教論』『止観』『東春』『輔正記』『宗要集』などを具体的に借り集めるよう指示しています。これは、真言を厳しく批判していた時期の日蓮が、真言関係の典籍を読むことをやめていたのではないことを示します。批判とは、対象となる教学を知らなくなることではありませんでした。むしろ、批判するからこそ文献を求め、その主張を確認し、自らの判断基準に照らして検討していたのです。
     
    こうして少年期から55歳までを一つの時間軸として眺めると、日蓮の思想形成は「密教を学んだが、のちに捨てた」という単純な図式では説明できません。少年期には虚空蔵菩薩に智慧を願い、17歳で天台密教文献を書写し、30歳で覚鑁の密教書を書写し、立教翌年には大日如来から自己へ至る相承を明記しました。その後、東密・台密を批判するようになりますが、不動明王・愛染明王を排除することなく、妙法曼荼羅の中へ再配置しました。そして50代には、かつて学んだ教学を含む膨大な経論・章疏を再び集め、校訂し、比較し、外部の記録まで参照しながら検証しています。
     
    ここに見えるのは、「受容」から「否定」へという一直線の変化ではありません。
    学び、受け入れ、自らをその伝統の内部に位置づけ、やがて批判し、その一部を新たな秩序の中へ組み替え、さらに原典へ遡って再検討するという、長い思想形成の過程です。そして、その過程を通して次第に明確になっていった判断基準こそ、法華経と教主釈尊でした。
     
    その意味で、日蓮の激しい諸宗批判だけを切り取って、その思想を理解することはできません。
    その背後には、批判する相手の教学そのものを学び、自らその相承の中に身を置き、膨大な経論・章疏を読み、その内容を相互に比較してきた日蓮の長い修学史があります。法華経を最第一とすることと、他宗の典籍を大量に読むことは、日蓮にとって矛盾していませんでした。むしろ、多様な教学を知り、その主張を比較し続けたからこそ、「何をもって仏教の内実を判定するのか」という問いが、青年期よりはるかに具体的な問題として迫ってきたのでしょう。
     
    嘉禎4年(1238)11月14日、清澄山道善房で17歳の是聖房が書写した『授決円多羅義集唐決上』は、完成した日蓮教学の「答え」を示す文献ではありません。現在、国宝「称名寺聖教」を構成する一資料として伝わるこの写本が示しているのは、巨大な中世仏教教学の世界の中で、青年日蓮がまだ答えを求めて学んでいた姿です。しかし、その「書写する青年」のさらに奥には、「日本第一の智者となし給え」と虚空蔵菩薩に願った少年の姿がありました。
     
    その願いの後、日蓮は実際に生涯を通じて学び続けました。
    17歳の書写は30歳の覚鑁著作書写へ、立教翌年の密教相承の自己認識へ、そして50代の「集める」「校訂する」「比較する」「検証する」という学問へとつながっていきました。少年期に智慧を求めて立てた誓願は、少なくとも日蓮自身の自己理解において、その後の膨大な修学研鑽を方向づけた原点の一つだったと考えることができます。そして、その長い修学の中で、日蓮は青年期に身につけた天台・密教世界を単純に捨て去るのではなく、法華経と教主釈尊を基準として批判的に選別し、意味を組み替え、自らの仏教世界の中へ再配置していきました。不動明王・愛染明王が妙法曼荼羅に残されたことは、その歩みを象徴する一例です。
     
    17歳の一冊を本当に読み解くためには、その一冊だけを見るのでは足りません。その前には、虚空蔵菩薩に智慧を願った少年がいました。そしてその後には、大日如来からの相承を自ら記した青年僧がおり、さらに膨大な仏教文献を集め、祖師の言葉さえ原典に照らして比較検討する55歳の日蓮がいました。『授決円多羅義集唐決』は、その長い思想形成の途中に残された最初期の具体的な筆跡であり、少年期の誓願から成熟期の文献検証へと続く日蓮の生涯をつなぐ、きわめて重要な史料なのです。

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    歴史と人物に学ぶ——東西の文学・思想・哲学・芸術を手がかりに、時代を超えた普遍の光を探しています。 根底には法華経と久遠実成の釈尊、日蓮への問い。 専門家ではありませんが、長年問い続けてきた景色を、難しいことはやさしく、深いことは正直に、紡いでいます。

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