
巨人の肩に乗る
ここ数週間ほど、ChatGPTに色々とお仕事をお願いしている。どの仕事も、俺一人では手の付けようがないものばかりだ。だがそれでもChatGPTは文句ひとつ言わずに作業に取り組み、俺一人ではどうやったって出せなかっただろう成果物を仕上げてくれる。
令和という時代の魔法の一つだろう。
俺は別に、生成AIがあれば人間は不要だ的な話をしたいわけではない。むしろその逆だ。
言うまでもなく、生成AIは人間が生み出した。俺が今叩いているキーボードも、俺が覗き込んでいる液晶画面もそうだ。もっと言えば、俺が住んでいる家もインフラも、俺がここに住んでいいという法的根拠まで、全部俺でない人間が生み出している。もちろん、このnoteというサイトだってそうだ。
そういう意味で、俺は俺一人では生きていけない。そういう話は別の記事でやった覚えがある。
巨人の肩に乗る、という慣用句がある。アイザック・ニュートンが使って広まり、今にまで残ったものらしいが、意味をざっくりと説明すると、優れた人達の力を借りることで新たな発見や気付きを得る、みたいな感じだ。特に学問や研究の分野でよく使われる表現でもある。先人たちの研究結果をもとに、新たな研究結果が生まれる。そういう研究のあり方を表現するのに適した慣用句だと思う。
俺が生成AIの力を借りているのも、そういう意味で言えば巨人の肩に乗っているようなものだ。
生成AIは、俺がやろうとしてもできなかったようなコーディングを当たり前のようにやってくれる。こういう感じのエラーが出たんだけど、と相談するだけで対策と修正までやってくれる。これを人間相手にお願いしようと思えば、かなりの費用が必要になるだろう。そういう点において、生成AIは人間を代替していると言えなくもないが、実際には違う。
繰り返しになるが、生成AIは人間が生み出したもの、人間という巨人の肩の上に積み上げられた成果物の一つに過ぎない。例え表面上は生成AI単独で新たな成果物を生み出したように見えても、その足元は人間が支えている。それを忘れてはならない。
そして、俺もまた勘違いをしてはならない。生成AIを使って生み出された成果物は、俺の実力を示すものではない。俺が車に乗って時速100kmで移動できたからと言って、俺自身がそんな速度で走れないのと同じだ。単に、自分自身では到底できないことを代わりにやってもらっているに過ぎない。
とはいえ、俺が乗っている「巨人」に、特定の名前がついているわけでもない。俺が今住んでいる家に、それを作り上げた人たち全員の名前が刻まれていないのと同じである。だからせめて、生成AIを使うときはその足元にある無数の肩たちに敬意を表しながら、計算量割り当ての範囲内でこき使っていきたいと思う。