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「主体的に」

    例え望まぬ仕事であったとしても、その中で主体的に取り組むことで、仕事への満足度を高めることができる、という趣旨のことは大体の自己啓発本に書いてあると思う。
    だが、よくよく考えると不思議な話だと思ったので、まだ考えがうまくまとまっていないがとりあえず書きだしてみる。

    社会人に限らず、学生だって主体的に行動することをうっすらと求められている。主体的に、自分事として物事を捉えて行動する、的な評価項目はたいていの場合どの学校の通信簿にもあるだろう。それほど長い期間に渡って問われ続けている主体性という奴だが、これがよく分からない。

    例えば、「主体的に仕事に取り組む」という表現についてイメージしてみる。その仕事を自分事として、責任感を持ってこなしていく様が連想されるかもしれない。確かに、主体性があるように思える。
    だが、ここで言う「主体」とは何なのだろうか。

    1 自覚や意志に基づいて行動したり作用を他に及ぼしたりするもの。「動作の主体」⇔客体。

    2 物事を構成するうえで中心となっているもの。「食事療法を主体に種々の治療を行う」「市民主体の祭典」

    いまいち飲み込みにくい説明だが、とりあえずは自分自身、ないしは自分の意志的な物として一旦理解することにする。
    となると、「主体的」というのはその物事がまさに自分自身に係るものであるかのように振る舞うこと、というふうに理解してもいいのかもしれない。
    するとここで一つ、奇妙な点が浮かび上がる。
    その物事というのは、本当に「自分事」なのだろうか。

    思えば仕事というものは奇妙な存在だ。
    本来的には、自分が自分のために行う行動が仕事だったのだろう。原始時代の狩猟なんかはまさにそうだ。だがそこから時代は下り、仕事というものは自分とは別の場所から流れてきて、違う場所に向かって去っていくもの、そしてそれを処理する対価として賃金を得るものになっているように思う。じゃあ家事労働はどうなんだ、とツッコミを受けそうだが、一旦その槍はしまっておいていただきたい。俺もそれは仕事だと思ってはいるので。

    ともかく、仕事がベルトコンベアのように一方からまた一方に流れていくようになった現代において、大体の場合その仕事というのは「他人事」だ。
    自分自身がその仕事の出し手になったわけではない。この世の誰かは困りごとを抱えた結果、他者に仕事を出すに至ったかもしれないが、少なくともこの瞬間自分は困ってはいない。いやもちろん、その仕事をこなさないと賃金が得られないという困りごとは当然あるのだが。だがそれは自分と会社の関係性の話であって、仕事の出し手と自分の関係性の話ではない。

    そして、「主体的に」仕事をする人は、その仕事をまさに自分自身の困りごとであるかのように振る舞い、こなしていく。だが、繰り返しになるがその仕事と自分自身は別物だ。
    つまりここに、主体性というものの一側面があるように思う。
    実際には必ずしもそうではないのに、それを、自分がすべきことだと自然な心理のうちにそう見なして行動するのだ。あえてひどい言い方をすれば、自分に自分で催眠を掛けていると言ってもいいのかもしれない。

    一つ例を出したい。
    仕事中に作業時間が足らなくなり、残業した方がいい状況になったとする。もちろん、残業するしないは根本的には個人の自由だ。まあ大抵の場合、そのたぐいの自由意志は事実上存在しないのだが。
    ともかく話を戻すと、そういう状況においては別に残業などせずにすべてを放り出して帰ったっていい。確かに職場の人間としての自分はそれで困ってしまうかもしれないが、何も自分という存在はそれだけではないだろう。家庭の一員としての自分もいれば、趣味を楽しむ自分だっている。ある一面における評価が下がったとしても、自分の全人格を否定される筋合いはない。
    ところが、大体の場合においてそういう行動を取る人間は少ない。
    皆、「主体的に」振る舞い、文句を言いながら残業をすることになる。ここに奇妙な点がある。残業するかどうか決めたのはあくまで自分自身だ。だが、「主体的な」人たちはそうは答えない。この決断は、そうすべきだからそうしたのだ、と答える。つまり、この決断は他者によって誘導されたものだと答えるのだ。

    となると、「主体的に」行動するというのは、もしかしたら本質的には主体的ではないのかもしれない。本来の主体的な振る舞いというのは、その物事自体はともかくとして、それに対して自分がどう振る舞うか自分の意志で決めて行動するということのはずだ。だが、俺自身も含めて「主体的に」行動するというのは、そうすべきであるという「状況」に、自分の感情や行動を従わせる、ということなのかもしれない。

    思えば、学生時代からそうだったような気がする。
    例えば小学生にとっての「主体的な」行動というのは、親や先生に言われる前に掃除という社会的に正しい行動を自分から選択したかのように振る舞い、そうやって見せることだったような気がする。他にもこういう例はいくらでもあるだろう。いつまでたっても委員会役員が決まらないから、「主体的に」自分から手を上げて立候補するとかもそうだろう。
    そういうめんどくさい帰りの会をほっぽりだしてランドセルをひっつかみ、一人下校したっていいのだが、そういう主体的な行動を取る子供というのは得てして「主体的な」行動を取れない、身勝手な子供だと見なされることになるわけだが。

    もしかしたら、「主体的に」仕事をする人というのは、誰に頼まれたでもないのに自分から決断を放棄して社会的に正しい行動を自動的に取れる人、の穏当な言い換えなのかもしれない。
    何もそういう行動を取ることが悪いと言いたいわけではない。むしろ褒められてしかるべき行動だと思う。ただ、一瞬でいいから考えてみてほしいのだ。
    「主体的に」という時の「主体」とは、いったい何なのだろうかと。

     
     
    「変身」は1度だけ読みました。 平日はChatGPT関連の記事 土日は日常エッセイを投稿予定 mixi2:@gregor_san X:gregor_san_

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