
ひとり言、一緒にベッドで朝を迎えても。なぜ寂しいのか。💖画像追加
好きな女性と夜を過ごす。
食事をして、話をして、笑って。
同じ部屋に入り、同じベッドで眠る。
朝、目を覚ますと隣に彼女がいる。
手を伸ばせば触れられる。
身体の距離だけを考えれば、これ以上近くなることはできない。
それなのに、ときどき不思議なほど寂しくなる。
一人で眠った夜よりも、
誰かが隣にいる朝の方が、かえって孤独を強く感じることさえある。
なぜなのだろう。
最近、そんなことを考えるようになった。
そして思う。
人と人との距離には、
身体の距離とは別に、「心の距離」と「理解の距離」があるのではないか。
身体は0センチまで近づける。
しかし、心と理解は、0センチになるとは限らない。
もしかすると恋愛の寂しさとは、その距離の差から生まれるのかもしれない。
1.身体は近くても、心がこちらを向いているとは限らない
抱きしめることができる。
キスすることもできる。
同じベッドで眠ることもできる。
それでも、相手の心まで自分のものになるわけではない。
こちらはもっと会いたいと思う。
もう少し一緒にいたいと思う。
次はいつ会えるのだろう、と考える。
けれど、相手も同じ温度で自分を思っているのかは分からない。
言葉が少ない。
連絡も多くない。
相手から会いたいと言われることも少ない。
そんなことが積み重なると、
隣で眠っている女性を見ながら、
「この人の心は、本当にここにあるのだろうか」と思ってしまう。
身体は隣にある。
でも心は、少し遠い。
それが寂しいのだと思う。
2.愛情ではなく、「理解の距離」なのかもしれない
ただ、相手に気持ちがないとは限らない。
自分にとっては、
言葉にしてほしい。
会いたいと言ってほしい。
相手からも連絡してほしい。
そういうものが愛情の証になる。
しかし相手にとっては、
「一緒にいること」そのものが愛情表現
なのかもしれない。
愛情の量が違うのではなく、
愛情の伝え方が違う。
そして、その違いを理解できていない。
身体は抱き合えるほど近いのに、
お互いが本当に求めているものについては、まだ遠い場所にいる。
恋愛では「心の距離」だけでなく、「理解の距離」もまた人を寂しくさせる。
3.夜は二人なのに、朝になるとそれぞれの人生へ戻る
ホテルで過ごす夜には、不思議な時間が流れる。
隣で眠る。
寝息が聞こえる。
朝になれば眠そうな顔を見る。
シャワーを浴び、髪を整える。
そんな何でもない姿を見る。
それはセックスよりも、むしろ親密に感じる瞬間なのかもしれない。
ほんの数時間だけ、
「もし、この人と暮らしていたら」という世界を見る。
けれど朝になる。
服を着て、荷物をまとめ、ホテルを出る。
そして駅の改札で、
「またね」と言う。
そこから二人は、それぞれ別の場所へ帰っていく。
夜の間だけ重なっていた二本の線が、朝になると再び離れていく。
だから、朝が少し寂しいのかもしれない。
4.欲しいのは「今夜」ではなく、「明日も」
年齢を重ねると、欲しいものも少し変わってくる。
一晩一緒にいられることだけではない。
欲しいのは、
「明日もこの人は自分の人生にいる」
という感覚なのかもしれない。
次もあるという安心。
また会えるという確信。
自分から誘わなくても、相手から会いたいと思ってもらえること。
一晩を共有することより、
時間を共有していける感覚
が欲しくなっている。
だから幸せな夜のあとほど、朝の別れが少し寂しくなる。
5.好きな女性の心を、自分に向けられない無力感
そして、もう一つある。
好きになった女性の心を、自分の力だけではこちらへ向けられない。
これが意外と苦しい。
仕事や勉強なら、努力によってある程度結果を変えられる。
でも恋愛は違う。
どれだけ大切にしても、
どれだけ優しくしても、
どれだけ楽しい時間を作っても、
相手の心は相手のものだ。
こちらが100の気持ちを注いだからといって、相手から100が返ってくるわけではない。
好み。
タイミング。
環境。
過去。
価値観。
そして相性。
人の心は、努力によって攻略するものではない。
分かってはいる。
それでも好きだからこそ、
こちらを向いてほしいと思ってしまう。
そして、それができない自分に、ほんの少し無力感を覚える。
6.身体を重ねることと、人生を重ねることは違う
大人の恋愛では、身体を重ねることと、人生を重ねることは同じではない。
一緒に食事をする。
旅行に行く。
同じベッドで眠る。
そこまで近づいても、
相手の人生の中で自分がどれほど大切な存在なのかは、また別の話である。身体という、とてもプライベートな場所には入れてもらえても、
心のもっと奥にある「人生」には、まだ入れてもらえていないことがある。
だからこそ、
身体が近づいたことで、残された距離が余計に見えてしまう。
身体の距離は0センチ。
それなのに、心と理解の距離は、まだ何キロもあるように感じる。
その落差が、寂しいのだ。

7.欲しいのは「愛されている確信」
もし本当に欲しいものが身体だけなら、
夜を一緒に過ごせた時点で満たされているはずだ。
でも、そうならない。
ならば本当に欲しいのは、「この人に選ばれている」
という感覚なのだと思う。
自分だけが会いたいのではない。
相手も会いたい。
自分だけが次を考えているのではない。
相手も、「次はいつ会える?」と思ってくれる。
求めているのは、相互に向き合っている感覚なのだろう。
一人の孤独より、二人の孤独の方が寂しいことがある
一人でいるときの孤独は分かりやすい。隣に誰もいない。だから寂しい。
しかし、隣に好きな人がいるのに寂しいという感覚は、もっと複雑だ。
そこには、
「これほど近くにいるのに届かない」という切なさがある。
触れられる。
温度も感じる。
寝息も聞こえる。
なのに、
相手の心の中だけは見ることができない。
一人の孤独より、二人でいるときの孤独の方が、ときには深い。
本当に求めているもの
考えてみると、
欲しいのは、ただ隣で眠ってくれる女性ではないのだと思う。
欲しいのは、
「あなたと一緒にいたい」
と、自分の意思でこちらを向いてくれる人なのだろう。
そして、その人を理解したい。
ただ身体を近づけるのではなく、心を近づけたい。
ただ一緒にいるのではなく、お互いを理解していきたい。
身体の距離なら、一晩で縮めることができる。
しかし心と理解の距離は、もっと長い時間をかけなければ縮まらない。

身体の距離は近くても、心と理解が遠ければ人は寂しい
結局、
一緒にベッドで朝を迎えても寂しい理由は、とても単純なのかもしれない。
身体の距離は近くても、心と理解の距離が遠いから。
人間は、触れられることだけでは満たされない。
理解されたい。
大切にされたい。
選ばれたい。
そして、自分もその人を理解したい。
身体なら抱きしめれば距離はなくなる。
でも心は、
抱きしめただけでは近づかない。
もしかすると愛するということは、身体の距離を縮めることではなく、
二人の間に残っている「心と理解の距離」を、少しずつ短くしていくこと
なのかもしれない。
そしていつか、同じ朝を迎えたとき。
隣にいるという事実だけではなく、
「この人の心も、ここにいる」
と思えるなら。
その朝はきっと、今より少しだけ寂しくないのだと思う。