
丁子煙草の疼き
(全文約4700字)
インドネシアを肌身で感じたい。今しかないと本能が叫ぶ。突き動かされるまま往復の航空チケットを予約した。
高校を出て、県外の大学に進んだ。念願の一人暮らしは叶ったけれど、相思相愛の恋は叶わず3年が過ぎた。
専攻していたのは東南アジアの歴史だが、研究室の文献史料や論文からは見えてこないリアルの現場に触れたかった。21歳の春だった。
海外に出るのは人生初だ。エメラルドブルーのガルーダ航空に搭乗した途端、景色が一変する。
機内に流れるネイティブのアナウンスはリズミカルな巻き舌で、言葉というよりむしろ音楽に近い。きっちりと髪を結い上げたCAが微笑を浮かべ、訛りのある日本語で機内食を配膳し、ワゴンを押していく。
現地に到着しタラップに降り立った瞬間、熱く湿った空気がまとわりつき、甘くスパイシーな丁子煙草(クレテック)の匂いが鼻の奥をくすぐる。
入国審査を通過し、ベルトコンベアーで荷物を受け取り出口に向かう。黒山の人だかりがめいめいにプラカードを掲げて待ち構えている。皆小柄で褐色の肌、濃い眉に大きな目だ。
行き先は某地方都市。世界各国のバックパッカーが集まる路地裏エリアで安宿を探し、表通りに面した市場を歩き回った。
日が沈み、そろそろお腹も空いてきた夕刻、屋台がひしめく通りに辿り着いた。地元客で賑わっている。あちこちに裸電球が灯り、バイクが音を立てて通り過ぎる。
一角に、大きなオイルランプを吊るした屋台があった。燃料のガスボンベが勢いよく音を立てる。濃い匂いと熱気を放っているのはヤシ油か。
丸顔のふくよかな女将さんと思しき女性が来客と快活にやり取りしている。屋台の真ん中で、材料を手際よく仕込む年配男性はオーナーのようだ。その傍らに、油の跳ねる鉄板でヘラを動かすひとりの青年がいた。