メインコンテンツへスキップ
見出し画像

エッセイ 『集団の一員というアイデンティティ』

    今日はハロウィンだったので、友達に「街に仮装する人々を見に行こう」と誘ってみた。

    しかし、「今日は色々な店に寄るからなあ、、」と返事が来た。

    私はこの発言の意味がすぐにはよくわからなかったが、とにかく今日は忙しいから無理ということかと思い「じゃあ今度にする?」と私が言うと、明日なら遊べるよとのことだったので、ハロウィン関係なくなってしまったが明日遊ぶことになり、ハロウィンウォークは一人で見に行った。

    後からこの友達の発言についてよく考えみると、色々なことがわかって面白いと思ったので書いてみようと思う。

    この友人は、バンドマンをしていて、長年色々なライブハウスでライブをし続けている。そして、バンドマンの知り合いが営んでいるバーなどにもよく行くようであり、私もこの前連れて行ってもらった。

    そこで、私は、その友人の友達として紹介されたが、そこにいる常連の人々や店長(友達のバンドマン仲間)さえも、私に、軽く挨拶をしただけで、すぐに仲間内で固まってしまって、私とまともに会話をしてくれなかった。

    このことで、私は初めそこにいる人々が私に「人見知り」をしているのかと思っていたが、今回思ったのは、おそらく、新入りの私をその「界隈(集団)の一員」としてまだ「認めていない」ため、私に対してまともに接しようとしないのかもしれないと思った。

    そして、友人は、「ハロウィン」というイベントの日に、ハロウィンイベントをしているであろう音楽界隈や、飲み屋さん界隈の仲間の店に「顔を出す」という行為をすることで、その集団に「認められようとしている」、または、「認められていること(承認)」の維持をしようとしているのかもしれないと思った。

    逆に、ハロウィンイベントをしている日に店に顔を出さないと、「イベントをしているのに来てくれなかった人」という捉え方をされて、その界隈から1段階「認められなくなる」というある種の強迫観念があるような感じが、今までの友人の言動を見ていてもあるように思う。

    なぜそこまでして、その界隈の一員として認められたいのかというと、それが友人の「アイデンティティ」だからであると思う。

    「その界隈の一員として認められている自分」に存在価値を感じていて、それを失いたくないという気持ちがあるということである。

    その友達は、そもそもそこまでお酒が好きではなかったが、3軒ぐらいのバーに毎週一回は顔を出して、お酒を飲んでいる。
    そうやって定期的に顔を出すことで、その界隈の一員として認められるためであると思う。

    そう言えば、その友人も、バンドを本格的にし始めた時に、「ライブハウスにいる人たちが仲間内で固まってしまって、自分とまともに接してくれず放置してくる」ことに悩んでいると愚痴をこぼしていたことがあるが、これは、私が友人に連れられて上記のバーに行った時と同じ状態だと思う。

    ここで面白いと思ったのは、集団(界隈)の一員として「認められること」が、他人から認められること、承認されること、アイデンティティを獲得することに直結している点である。

    つまり、ここで界隈の一員として、その界隈の人たちに相手をしてもらえるようになることは、単に、その人たちと関わることができて楽しい、というメリットだけでなく、いい会社に入ること、恋人ができること、文学賞で賞を取ること、SNSでいいねをもらうこと、のような「他者からの承認」というアイデンティティの獲得につながるということである。

    そして、そういうシステムの存在を界隈の人々はおそらくなんとなく「共有」しているので、新入りがいきなり受け入れられることはないのだと思う。そんな簡単に承認をもらえるほど、その界隈の「承認」は安くないということであり、その共同体から承認をもらうには頻繁にライブハウスやバーなどに顔を出して、その界隈に顔を売る必要があるのだと思う。

    そうすることで、徐々に「よそ者」から、「集団の一員」として認められるのだと思う。

    東京のDJイベントに行った時、そのイベント会場の地下一階で有名DJがプレイをしていたのであるが、なぜかそれを見ずに一階のドリンク売り場で延々知り合いを探しては挨拶と軽い雑談をしてはまた次に行くという行動をしている人が大量にいて、この人たちはせっかく有名DJがイベントをしているのに何をしているんだろう?と不思議に思ったが、

    それもおそらく、上記の友人と同じく、その音楽界隈の人々に認められるために、「来ましたよ」という挨拶を、互いにし続け、互いに認め合っているという状態なのかもしれないと思った。そしてそれは、有名DJのプレイを見るよりも重要なことなのだと思う。なぜなら、それはその人たちのアイデンティティ作りだからであり、おそらく音楽よりも興味のあることなのだと思った。

    この「認められないとまともに関わってくれない」というシステムはかなり色々な場所であるように思う。私が住んでいる場所のDJイベントに行っても、私以外の全員が知り合いであり、上記と同じように、DJで踊るよりも互いに挨拶をし続けるということを延々と繰り返しているし、私が話しかけても、すぐに仲間のところに行って固まってしまう。

    前の職場でも同じような状態であり、私がある部署に入ると、昼食の時間で部署の人たちで私に背を向けて固まって食べていた。つまり、その人たちは単に「人見知り」をしているというよりも、新入り(よそ者)である私をまだ「認めていない」ので、私を受け入れようとしなかったのかもしれないと思った。

    私が、まともに話をしてくれないその人たちの話を横で聞いて、無理やり話をねじ込んでいく、という作業を繰り返していると、そのうち私を受け入れてくれるようになったが、これはその人たち(集団)に「認められた」ということだと思う。

    そして、また新入りの人が入った時も全く同じ状態であり、その人は完全に放置されていたので、私が見かねて昼食時に話しかけていたが、その間も、他の人たちは新入りの人に背を向けて仲間内でご飯を食べていた。

    私は、「集団的価値観」というものをあまり持っていないので、「個人」として一人一人を捉えているところが強いと思う。

    なので、この「集団の一員として認められる」=自分のアイデンティティ(存在価値)になるというシステムが感覚的にわからないし、集団に受け入れてもらっても、特に「承認」を感じない。

    自分が魅力的だと思ったり、レベルが高いと思った「個人」に仲良くしてもらったり、恋人として付き合ったりしてもらったり、表現を褒めてもらうと、もちろん、「他者に認められた」と「承認」を感じ嬉しくなることはある。

    ただ、私はこの集団の一員として認められるというシステム自体の存在をあまり理解していなかったので、ハロウィンの日に絶対に「何件もの知り合いの店を回らないといけない」という義務のような行動をしている友人に疑問を感じたのだと思った。

    ただ、このことから、私が、例えば、常連ばかりのバーや、音楽イベントに行き、そこにいる人々と関わりたいと思うのであれば、頻繁に「通って」その集団の一員として「認めてもらう」必要があるのだと思った。私が、その承認に価値を感じなくても、関わりたいのであればそのシステムに乗らないといけないということである。

    集団的価値観を持たない私からすると、この承認システムの存在は非常にめんどくさいが、アイデンティティを保障するためにそういう人間関係の作り方をしている集団がかなり多いという現象自体は非常に面白いと思った。

    そして、基本的に集団には大体「ボス」がいて、そのボスに従わない人はその集団に「認められない」が、私がボスに従わず、上からも下からも接さないことで、自動的に「ボスの交代」が起こり、私がボス扱いされてしまって困ってしまったことがある、という現象を上記のエッセイで書いたが、今回のエッセイの内容を考慮するとさらに解像度が上がると思った。

    私は学校のヒエラルキー構造にも全く参加してこなかった(色々な階層の個人個人と個人的に付き合っていた)ので感覚はよくわからないが、高校の女子グループみたいなシステムが大人の集団や界隈にも存在するということが多いということかもしれない。


    この記事が参加している募集

    あなたへのおすすめ