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第11話 「日出づる処の天子」

    海を渡った小野妹子は、隋の都へ向かった。

    そこで待っていたのは、倭とは比べものにならないほど大きな国だった。

    そして、妹子が携えてきた一通の国書が、隋の皇帝・煬帝の目に入る。

    そこには、こう書かれていた。

    「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」

    あまりにも有名な言葉である。

    けれど、この一文だけを見て、

    「日本が中国と対等な立場を宣言した」

    と簡単に説明してしまうと、この出来事の本当の難しさを見落としてしまう。

    このとき、海の向こうでは何が起きていたのか。

    そして、なぜ煬帝はこの国書を「悦ばず」と記されたのか。

    ⭐︎ 一通の国書

    607年。

    小野妹子は、倭から隋へ向かった。

    『隋書』倭国伝には、倭王が隋の皇帝に国書を送ったことが記されている。

    その書き出しが、

    「日出づる処の天子」

    だった。

    「日の出るところの天子」。

    そして相手を、

    「日没する処の天子」

    と呼んだ。

    倭から見れば、太陽は東から昇り、西へ沈んでいく。

    だから、

    日の出るところ。

    日の沈むところ。

    そうした表現そのものは、地理的な感覚として理解できる。

    しかし、問題はそこだけではなかった。

    「天子」という言葉で、倭王自身を表していたこと。

    ここが重要だった。

    ⭐︎ 隋の皇帝にとって

    隋の皇帝は、自分を天下の中心にいる存在として考えていた。

    中国の歴代王朝には、

    「天子が天下を治める」

    という政治思想があった。

    もちろん、当時の思想を現代の感覚でそのまま理解することはできない。

    けれど、

    「皇帝とは何者なのか」

    という考え方そのものが、倭とは違っていたのである。

    その皇帝に向かって、

    倭の王も「天子」と名乗る。

    現代の私たちから見ると、ただの呼び方の違いに見えるかもしれない。

    しかし、隋の側からすれば、そう簡単な問題ではなかった。

    『隋書』には、この国書を見た煬帝が、

    「悦ばず」

    と記されている。

    そして、隋の役人に対して、このような趣旨の命令を出したと伝えられている。

    「蛮夷の書に無礼なものがあれば、今後は自分に見せるな」

    倭から届いた国書が、隋の皇帝にとって快いものではなかったことが分かる。

    ⭐︎ 「対等」だったのか

    ここで、歴史を読むときに気をつけたいことがある。

    この出来事は、よく、

    「倭が隋に対して対等な外交を求めた」

    と説明される。

    確かに、倭王が「天子」と名乗ったことだけを見れば、そのように受け取ることもできる。

    しかし、それだけで、

    「倭は隋と完全に対等な国家関係を宣言した」

    と断定することはできない。

    「日出づる処」「日没する処」という表現そのものについても、さまざまな解釈がある。

    当時の中国側の世界観と、倭側の考え方が完全に同じだったわけではないからだ。

    歴史は、

    「この一文=こういう意味」

    と簡単に割り切れない。

    むしろ大切なのは、

    異なる世界観を持つ二つの政治勢力が、一通の国書を通して向き合った

    ということだろう。

    ⭐︎ 倭は何を求めていたのか

    では、倭はなぜ、このような国書を送ったのだろうか。

    ここも、はっきりした答えは分からない。

    厩戸皇子本人が、

    「こういう外交関係をつくろう」

    と考えていたことを示す具体的な言葉は残っていない。

    だから、勝手に心の中を決めつけることはできない。

    ただ、当時の状況を並べてみることはできる。

    国内では、蘇我氏を中心とする有力豪族が大きな力を持っていた。

    冠位十二階が定められた。

    十七条憲法がつくられたと『日本書紀』は記している。

    そして海の向こうでは、隋という巨大な帝国が動いている。

    倭は、その隋と直接つながろうとしていた。

    つまり、倭は少しずつ、

    「自分たちは、これからどのような国になっていくのか」

    という問題に向き合い始めていた。

    ⭐︎ 煬帝の答え

    国書を受け取った隋。

    その反応は、決して穏やかなものではなかった。

    しかし、それで外交が終わったわけではない。

    翌608年。

    隋から倭へ、使者がやって来る。

    その人物が、

    裴世清。

    隋の皇帝から倭へ派遣された使者だった。

    ここが、非常に興味深い。

    もし煬帝が倭からの国書を完全に拒絶していたのなら、隋から使者が来る必要はない。

    ところが、実際には使者がやって来た。

    そこには、隋側の外交上の判断があったと考えられる。

    つまり、

    「国書の表現には問題がある」

    しかし、

    「だからといって倭との関係を断つわけではない」

    そういう複雑な外交だった可能性がある。

    ただし、これも史料から読み取れる範囲を超えて断定してはいけない。

    ⭐︎ 国書が残したもの

    小野妹子が持って行った一通の国書。

    それは、単なる外交文書ではなかった。

    そこには、

    「倭は自分たちをどう位置づけるのか」

    という問題が、図らずも表れていた。

    隋から見れば、

    倭は海の向こうにある国。

    倭から見れば、

    隋は巨大な大国。

    お互いに相手を完全には理解していない。

    それでも、人を送り、

    言葉を送り、

    返事を受け取る。

    そうやって二つの世界が少しずつ近づいていった。

    そして、この交流から倭へ持ち帰られるものは、国書だけではなかった。

    制度。

    仏教。

    文化。

    大陸の知識。

    そして、

    「これほど大きな国が、どのように政治を動かしているのか」

    という情報だった。

    厩戸皇子たちが国内の仕組みを考えるとき、

    海の向こうの隋は、無視できない存在になっていたのである。

    けれど――

    倭が隋から学ぶだけだったわけではない。

    隋から来た使者もまた、

    倭という国を自分の目で見ることになる。

    裴世清は海を渡り、

    倭の都へ向かった。

    その旅の先で、彼が見たものとは何だったのか。

    次回、

    第12話 国の仕組みを変える

    へ続く。

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