
私が教員を辞めた理由(68)―変わる「学校」(2):教員のサービス業化
変わる「学校」(2):教員のサービス業化
前回採り上げたように、保護者の高学歴化といった社会の変化にともない、教員は職業として特別視されなくなった。そしてさらには、まるでサービス業であるかのように扱われるようになった。
いわく、「授業料を払っているのだから、相応のレベルの授業を提供してほしい」といった、とにかく「こっちがお金を払っているのだから」という保護者の姿勢。
そうした背景には、タイパ・コスパといった表現に象徴されるような、効率偏重の社会傾向があるのかもしれない(そういう典型化はあまり好きではないが)。
確かに、授業料を支払っている以上、相応の教育を求めること自体は不当ではない。
しかし、教育を単なるサービスと捉え、支払った対価に応じて要求を満たすことが学校の役割だと考えるなら、そこには違和感がある。
なぜなら、保護者が求めるものと、生徒本人の成長に必要なものが、必ずしも一致するとは限らないからだ。
実際の教育現場では、費用対効果という考え方があまり馴染まない。
それは、教育における「成果」というものが、容易に定められないからだ。
たとえば大学受験。普通に考えれば、第一志望の大学に合格することが「成果」だろう。しかし、相応の努力をせずに合格してしまったことで、大学生活がうまくいかず、中退することもある。逆に、必死に努力して志望校に届かなかったことが、後になって人生に活きることもある。
そう考えると、教育における「成果」とは果たして何を指すものなのか、わからなくなってしまう。
言うまでもないことだが、教育の本来の目的は、目先の成功・失敗ではなく、本人の成長である。
しかし、この「成長」もまた定義しにくいものだ。
そして、「教員のサービス業化」は、何も保護者の姿勢だけがもたらしたものではない。教員自身が、保護者や社会から求められるものに応えることを優先するあまり、教育の本質を見失い、自らサービス業化してしまっている側面もある。
保護者から求められるままに進学実績を追い求め、見えやすい結果(数字)を示すことに躍起になる。
ICTやAIのような新しいツールを使いこなすことに気を取られ、何のために使うのかを見失ってしまう。
「働き方改革」の名の下に、教育活動の必要性を十分に検討することなく、費やす時間の削減だけを優先する──。
いずれも、教育の目的より、わかりやすい結果や形式を優先した結果ではないだろうか。
そうして、教員はいったいどこに向かおうとしているのか。
教員であれば、授業を磨け。
ICTもAIもアクティブラーニングも、手段であって目的ではない。教員の本質は、そうした技術の習熟ではないことを思い起こせ。
教員であれば、生徒一人ひとりの「成長」を促せ。
そのための観察、生徒との対話、必要とあれば保護者との軋轢を厭うな。
教員であれば、本を読め。
生徒たちに読書の意義を説きながら、まったく本を読まない教員の多さよ。
教育のプロフェッショナルとしての矜持を持って、自己研鑽に励み、自らが成長し続けようとする姿を見せて生徒たちに率先垂範する。
私が常にイメージし、実践しようとした「教員」の姿は、そうしたものであった。
まちがっても、それはサービス業などではなかった。
(次回に続く)