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書きおろし 1980年1月 ポール・マッカートニーのパブリシストとして働いた ホテル・オークラで目撃したことをすべて公開

    ポール・マッカートニー&ウイングスの来日時、私は日本側の【パブリシスト】という仕事を依頼された。レコード会社やプロモーターではなく、バンド側が、独立した立場の日本人を広報担当者として必要としたのだ。とは言うものの、私の役目は日本のメディアへとの取材をセッティングすることで、頭の中で考える限りは、とても簡単な仕事に思えた。

    すでに、ロバート・パーマー(Robert Palmer)のパブリシストを経験していたので、MPL(McCartney Productions Ltd)から依頼を受けたときは、かなり楽観的に考えていた。

    日本では来日アーティストのインタビューは、すべてプロモーターとレコード会社が担当しているが、イギリスやアメリカには、『プレスオフィサー』あるいは『パブリシスト』という人間がいて、ニュートラルな立場で『クォリティ・プレス(質のいい宣伝)』をモットーにした重要な立場にいる。つまり、プロモーター、レコード会社、ミュージシャン、宣伝媒体、この接点に生じた共通の利益の、最良の部分だけを稼動させてゆくというビジネスである。

    しかし、ご存知のようにポール・マッカートニーは成田空港で逮捕され、その後、数十年に亘り、ことあるごとに話題になる悪夢となった。

    1月25日、マッカートニー一家が追放されるように日本を去ったあと、いくつかのメディアから、内部の様子を教えてほしいと依頼されたが、赤裸々な裏事情を白日の下にさらすのは義理に欠けると配慮し、つきあいの長かった週刊誌に出せる部分だけを書いた。そして43年後、自著『最低で最高のロックンロール・ライフ』でも触れた。

    ここにまとめたのは、内側から見ていた当時の様子と、マネージャーたちから聞いた帰国後の話などである。

    水上はるこ
    関係者に配布されたウイングス日本公演の招待券

    「東京で会おう」と約束したポールだったが

    「今度こそ東京で会えるね」

    1979年の12月8日、ロンドンのウェンブリー・アリーナでのコンサートのあと、楽屋でほおをピンク色に紅潮させて日本公演への期待を語ったマッカートニー。

    それから1カ月少しあとの東京で、私は確かにポールに会った・・・。武道館ではなく、テレビのニュース番組や派手な見出しの新聞の記事で、ちょっと照れたような笑いを浮かべたポールに再会したのだ。

    水上はるこ
    ポール逮捕、派手な見出しが踊った新聞各紙

    誰がどう解釈しようが、あれは『悲劇』に違いない。10万人のファン、プロモーター、レコード会社、ラジオ局、テレビ局、そしてポール・マッカートニーとそのバンドにかかわっているすべての人々にとって、あまりにも残念な事件だった。だが、ポールの軽率さはもう十二分に弾劾されたわけだから、ここで堂々めぐりをするのはやめよう。

    何年先か、何十年先か、世界が変わってマリファナが解禁、あるいは咎めずという時代を迎える日、マッカートニー事件は語り草となるだろう。

    悲しいことに事件に遭遇したのが、果敢なる反逆集団、ビートルズのポールではなく、心やさしい【マン・オブ・ファミリー】のポール・マッカートニーであったことだ。

    「おれたちはキリストより有名だ」(ジョン・レノンの発言)とか、「勲章なんてこのコースターのようなものさ」(66年にビートルズ来日時の記者会見で)と、権力に向かってことごとく反抗していた頃のポールだったら・・・恋も歌も心おもむくままに、自由奔放という言葉に従って生きていた頃のポールだったら・・・事件はさらにエキサイティングに展開していたかもしれない。

    ポールに不可能という文字はない!

    MPLから提示された額はサラリーマン2カ月分ほどの金額だ。10回近く国際電話で話し合い、79年12月7日から4日間にわたって行なわれるウイングスのコンサートを見に来なさいという指示があった。

    水上はるこ
    「たまたまロンドンをたずねていた音楽評論家の水上はるこさん」

    【O2アリーナ】が完成するまでは、ロンドン最大の屋内コンサート会場だったウェンブリー・アリーナ公演の、二日間のチケットとバックステージ・パスを用意してくれた。楽屋にはプロデューサーのクリス・トーマスや福井ミカさん(元サディスティック・ミカ・バンド、当時は加藤ミカ)など、知り合いの顔もあった。ここでマネージャーが、 ジミー・マカロック(元ウイングスのギタリスト、 79年9月に死亡)の父親を紹介してくれた。

    イギリス流のやり方なのだろうか、コンサートの一時間ほど前に、楽屋でポールとリンダを囲んでの記者会見が行なわれた。1ダースほどの記者が半円形になり、ジョークを交えたり、時には辛辣な質問をしたり、懇親会といった趣(おもむき)だ。司会進行担当はいない。ここに集まった記者は全員、長いあいだポールとバンドを取材してきた顔見知りばかりだ。

    1975年にオーストラリアで取材したときから4年もの月日が流れ、メンバーはマッカートニー夫妻とデニー・レイン以外は代わっていたが、次々にヒット曲を繰り出し、合間にビートルズの曲を入れるというセットリストに観客は沸きに沸いた。

    コンサートのあと、私はいったん帰国し、80年1月に来日直前の細部打ち合わせをするため渡英することになった。

    1979年12月31日、出国手続きを終え、成田空港の待合室の椅子に腰を下ろした。大きなテレビでは『NHK紅白歌合戦』が放映され、ジュディ・オングが白鷺のような衣装で「魅せられて」を歌っていた。私は真夜中近くの便でロンドンに発った。

    ロンドンのビジネス街、ソーホー・スクエア(Soho Square)にあるMPLは、18世紀に建てられた5階建てのビル全階を使用しており、一階の重い扉を押して中に入れるのは、選ばれた人だけだ。

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    MPL (McCartney Prodction Ltd.)は1969年に設立された、ポール・マッカートニーの事業上の利益を管理する持株会社

    MPLはポール・マッカートニーとバンドのマネージメントのほかにも、音楽
    著作権の管理(ポールの曲だけでなく、バディ・ホリーやカール・パーキンスなどの著作権も管理している)や国際部、コンサート・プロモーションなど幅広く手掛けているが、広報部門だけは外部の会社に委託している。マネージャーのブライアン・ブローリー氏が内部を案内しながら、スタッフを紹介してくれた。オーストラリア取材で知り合った人たちも何人かいた。

    1975年のウイングス来日公演は、ポールのビザが取り消されたことで実現しなかったが、今度こそは実現させたい、というスタッフの気概が伝わってくる。マネージャーとはいっても、実質、MPLの社長はポールなので、いわばポールに雇われた番頭さんのような立場だ。

    海外ツアーと広報担当のマネージャーを含めて、4人でミーティングをした。まず『ポールはホテルのホールに記者を集めての記者会見はおこなわない。コンサート前に楽屋でおこなう。マッカートニー夫妻は家族全員と日本に行くので、オンとオフの区別をはっきりつけたいからだ』という困惑する条件が提示された。

    前例がない!しかもコンサートが始まる前というのはミュージシャンにとって気持ちを整える大切な時間ではないのだろうか。私は日本ではそういう前例がないことなどを説明したが、ポール側の指令は絶対的だ。

    形式的なものではなく、膝詰めで話し合うような懇親会形式の取材を望んでいるという。記者会見一回で私の仕事はオシマイ、と考えていた目論見(もくろみ)は崩れてしまった。

    「それでは、どんな会見方法を希望していますか?」という問いに、「ウェンブリーの楽屋で見てきたようなフレンドリーな会見だよ」。ああ、確かに。質問と答えではなく和気あいあいとしたお茶の時間、そんな形式の取材だった。もし、日本でもそれを希望なら 《会見に参加できるのは英語で質疑応答ができる記者》という条件をつけなければならない。さらに難題がたちはだかった。

    普通、来日時のミュージシャンのインタビューというのはホテルの一室で行なわれるが、ポールの場合、ホテル滞在中はすべてプライベートの時間にしたいというのだ。私はこう伝えた。

    「コンサートの始まる前の1時間は、ミュージシャンが最もリラックスしていなければならない時間ですよね。コンサート後のインタビューにしても、武道館の楽屋に遅くまで留まることは、武道館の規約上できません」

    日本の特殊な事情を伝えると、マネージャーはきっぱりと「ポールはやろうと思ったことは必ずやる。彼を妨げるルールがあるのなら、それすら変えることができる」

    その昔、ナポレオンという希代の英雄の「余の辞書に不可能という文字はない」という名言を放ったが、1月16日の夕方までは、確かにポールにとって変えられないルールなどなかったのだ。

    ミーティングは数時間に及んだ。午後3時には紅茶とフィンガー・サンドウィッチが出た。モダンなロックを取り仕切るこのオフィスにも、古き良き英国の慣習があった。

    分厚いファイルのプレスリリースや、最近のメディアの記事のコピーを抱えて、MPLを出ると、外は薄暗くなっていた。

    イギリス滞在中は、ウイングスのパブリシストを担当しているトニー・ブレインズビー(Tony Brainsby クイーン、ウイングス、スモール・フェイセスなどが顧客だった)のオフィスに入りびたり、ビジネスのノウハウをスパイした。ロンドンのホテルで日本公演時における取材の予想企画を徹夜でタイプし、あとはポールの最終チェックを受けるだけという状態で、1月9日、私は宿題を抱えてロンドンをあとにした。

    追ってテレックスが届く。

    「キホンテキニハオーケー。タダシ、モットインタビューヲイレテホシイ」

    33歳のスーパースターの限りない意欲とエネルギーに敬服しながらも、私が最初にしなければならなかったのは、招聘元やレコード会社との調整だった。記者会見や取材のアレンジは普通ならレコード会社の仕事だが、すでにMPLからすべては私に任せてある、とのテレックスなどが入っているらしく、レコード会社からの横槍はまったくなかった。 ウドー音楽事務所の広報を担当していたAさんとも、ほぼ半日かけて打ち合わせをしたが、 ポールのやり方でいくしかないだろうという結論に至った。

    水上はるこ
    幻になったウイングス日本公演のチケット

    1980年1月16日、招聘元のマイクロバスに便乗させてもらって、成田空港に向かった。午後4時ごろから、バンド・メンバーやスタッフたちがカートを押しながらロビーに出てきた。

    ポール・マッカートニー・クラスのビッグ・ネームになると、100人近い大所帯になる。ミュージシャンの機材担当、音響、ライティング、エンジニア、衣装、メイク、ケータリング、セキュリティ、マッカートニー一家のナニー(子守り・世話係)など。ローディーたちを仕切る役目の専門マネージャーまでいるほどだ。

    知っている人たちとハグしたり握手をしたりしながら迎える。ポールとリンダはまだ出て来ないが、次々に出発するマイクロバスで、私はホテル・オークラに行った。 メンバーやスタッフは部屋に荷物を置くと、バーに集まって、日本に着いた安心感にひたっているようだった。しかし、この幸せなひとときが、一時間後に悪夢となるのだ。

    タクシーのラジオから流れてきた「ポール・マッカートニーが・・・」というニュースに、ああ、来日しましたというニュースなんだわ、と微笑みながら聞いていた。しかし・・・

    全員に挨拶を終えると、翌日の10時にまた来る約束をしてタクシーに乗った。タクシーの中ではラジオがかかっていた。夜8時のニュースだったと記憶している。 アナウンサーが話している。

    『元ビートルズのポール・マッカートニーが・・・』
    「ああ、来日したというニュースなんだわ」
    『成田空港で麻薬不法所持の疑いで逮捕されました』
    「運転手さん、すみません。ホテルまで戻ってください」

    さっきのバーに行くと、事情を知らされたメンバーがお通夜状態だった。マネージャーのひとりは「コンサートはすべてキャンセルされた」と力なく言う。メンバーやスタッフのショックは計り知れなかった。バーで強い酒をあおる者、半ばやけ気味にディスコにくり出す者。

    「おい、きのうは日本の女性が20歳になったのを祝う日だったそうで、キモノの美人が、ホテルのロビーにうじゃうじゃいたんだぜ」。先乗りしていたローディーのひとりが、うなだれるギタリストのデニー・レインを気づかって、ことさら大仰(おおぎょう)に話しているのを聞きながら、私もまたバーにぼんやり座っていた。

    バンド・メンバー、機材、ステージ関連のスタッフは、全員、翌日の飛行機で日本を離れた。私は広報担当のマネージャーを探し当て、何をすべきかを話し合った。

    「残念だが、キミの役割は変わってしまった。ラジオ、テレビ、新聞、週刊誌などの日本のメディアが、ポールのことをどう伝えているか、すべて英訳してくれ」

    翌日から自宅の電話は鳴りやまなかった。「朝日新聞です」「スポーツニッポンですが」「テレビ東京ですが」「女性セブンです」・・・これほどまでとは想像もしなかった。あわてて親しい友人をアシスタントに雇い、私が在宅でなくとも電話がとれるようにした。

    家が近かったので、翌朝からタイプライターと身の回りのものを小ぶりのバッグにつめ、ホテル・オークラの与えられた六畳ほどの部屋にこもり、辞書をたよりに英訳をする仕事が始まった。毎朝、一階の売店に行き、本来ならこのホテルにいるはずの主人公の写真が一面に載っている新聞や雑誌を購入する。自宅の電話番を頼んだ友人には、ニュース番組や午後のワイドショウをすべてビデオに録画する役目もお願いした。

    水上はるこ
    1980年日本公演のために用意されたスペシャルロゴ

    ウイングスというロック・グループを宣伝するはずだった私は、突然、『マリファナ不法所持で逮捕されたスーパースター』の一挙一動を翻訳するという、予想だにしなかった責任を負わされることになった。幸いイギリスから今回のツアーのニュースを世界に向けて流す役割のフィリップ・シムズというパブリシストと、マネージメントの一部に参加しているイギリスの大プロモーター、ハーヴィー・ゴールドスミスが同行してきて、手なれた様子で押しよせる記者群をさばいていた。

    ホテルのペントハウスは、エレベーターが開くと、すぐに大小の部屋に通じるコリドールがある。一分ごとにエレベーターが開き、訪ねてくる記者たちの対応は私にまかされた。対応とはいっても、名刺を受け取り、「ロビーで待っていてほしい、何かあれば連絡する」と言って追い返すのが仕事だ。イギリスやアメリカはもちろん、ヨーロッパ各国のメディアが押し寄せ、最後には「フィンランド新聞です」とか「香港ニュースです」とか、およそ五十枚ばかりの名刺が山になった。日本のメディアはどうしていたかといえば、リンダには興味も示さず、拘置所につめかけていたようだ。

    17日の夜9時ごろ、部屋でタイプライターを叩いていた私を、リンダの秘書が呼びにきた。見知らぬ国で夫が拘留されている彼女は、私に受話器を渡しながら言った。

    「今、拘置所の人と話しているの。ポールと話ができないかお願いしてくれる?」

    どこで入手した番号か知らないが、本当にリンダはポールが拘留されている場所に電話しているのか不明だった。正直に言えば少しばかり呆れた。法律を知らないはずがない。説明する余裕さえ与えず、受話器を押し付けてきた。

    「ポールの奥さんがポールと話したいと言っているのですが」
    「無理に決まっているだろ」

    拘置所か誰だかわからない男の声が返ってきた。

    「お願いですから、ハローだけでも言わせてください」
    「昨日からポールの奥さんだという人から十人も電話がかかってきているんだ。もう切りますよ!」

    受話器を戻すと、リンダは顔を両手でおおって、ため息をついた。昼間は福井ミカさんやナニーがリンダや子供たちの世話をしているようだったし、私は翻訳で忙しかった。彼女の不安な気持ちはわかるが、さすがに「リンダ、それは無理な話」と説得する気にもならなかった。

    リンダはホテルの部屋にひきこもっていた

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    中止になった日本公演のパンフレットは払い戻しの際、ウドー音楽事務所などで販売された

    ポール逮捕から24時間後には、ホテル・オークラに主に英国のタブロイド新聞の記者とカメラマンが十人ほど飛んできた。ポール番の記者たちが、一番早い日本行きの飛行機でやってきたのだ。また、《イーストマン》の苗字を持つ、見るからに育ちのいい、アメリカ人もふたり到着した。ひとりは弁護士と名乗り、リンダのイーストマン一族の男性だが、むろん、日本で弁護士の仕事をするわけにはいかない。

    リンダや関係者たちがいちばん苛立ったのは、ポールがおかれている状況についての情報が決定的に不足していたことだ。しかも、言葉も習慣も違う外国で、身から出たサビとはいえ、厳しい状況におかれているのだから、心細さはひとしおだったろう。来日した最大にして唯一の目的であるコンサートは、16日の深夜にキャンセルになっている。

    のちに釈放されたポールが 「very very foreign country(とてもとても遠い異国)」と記者に語っていたように、まわりで話している日本語が理解できないというのは、大変なストレスだったはずだ。

    リンダ・マッカートニーはホテルのロビーで待ち受けるカメラマンを避けるため、また、派手な行動で取調官の『心証を害さない』ため、そしてもちろん獄中の夫の苦しみをおもんばかって、ほとんどの時間をホテルの部屋で静かに過ごした。 あわただしく行き来する関係者、ときおり、ペントハウスに侵入して、セキュリティに追い返されるカメラマン、帰り支度をはじめたスタッフたち。そんな神経質な雰囲気のなかで、リンダの部屋だけは、嵐の前の静けさにも似た落ちつきがあった。

    現実が理解できる17歳の長女、ヘザーは別にしても、メアリー(10歳)、ステラ (8歳)、ジェイムス(2歳)の子供たちが時々コリドールで遊んだり、かけまわったりする。そんなときのリンダは、有名なミュージシャンからひとりの母親に変身する。

    毎日、50通ずつくらいの手紙や電報が届く。リンダはひとつひとつに目を通し、必要とあらば返事を書き、自分の写真にサインして送ったりもした。リンダの食事はすべてルームサービスだが、子供たちはホテルの配慮で、レストランで食事ができたようだ。

    3日目の午後だった。マネージャーが私を呼び、「ロビーに待機させているマスメディアをすべて集めなさい」との指示があった。 記者会見を開くのだという。彼はイギリスのメディアに、何とかおいしい 《餌》のようなものを撒かないといけないと考えたらしい。日本でいうところの《ガス抜き》である。さすが阿吽(あうん)の呼吸で十年間仕事をしてきたマネージャーと英国メディアの間柄だ。

    私はロビーや喫茶店やレストランを走って、それらしき人(たいていはグループで群れていた)に、「プレス・カンファレンス」と小声で伝えて回った。全員の反応は推して知るべし。 ロビーで暇を持てあますジャーナリストたちにさざ波のようにひろがり、彼らはどやどやとエレベーターに乗り込んだ。

    エレベーター前のコリドールにどこからか集めた椅子が並べられ、今からリンダがインタビューに応じるという。記者はおよそ40人はいた。イギリスのメディアは明らかに浮足立っており、一番前にカメラマンと陣取っていた。

    リンダが質素な服装で現れた。マネージャーはやや声を荒らげて、「これはソーシャル(社交的)な記者会見なので、それを理解したうえで質問するように」と念をおしている。つまり、ポールが本当にドラッグを持っていたのか、などという質問はNGという意味だ。翌日のイギリスのタブロイド紙には《リンダ・マッカートニー、獄中のポールを語る》などという記事が一面を飾るはずである。

    さすがに記者たちもその辺は心得ていた。 とてもフレンドリーに、ある意味どうでもいい質疑応答がとびかった。たとえばリンダが「昨日はサンドウィッチを差し入れたけれど、食べ物はダメだと言われたわ」とか「毎日、花束を贈っているの」とか、まあそんな内容だ。誰も取り調べの様子は?とか、有罪になったらどうするのか?などというきわどい質問はしない。およそ30分間、新聞の一面になるには十分なソーシャルな質疑応答が終わった。

    逮捕されて1週間後、ポールとの接見が許されたリンダは菜食主義者のポールのために、フルーツやサンドイッチを持って出かけた。

    その時の様子を、まるで見てきたかのように書いたある女性週刊誌は〈差し入れのリンダ夫人と平然とキスを交わして・・・会話をしてはキスをくり返す。監視の係官は、目のやり場に困った〉と、黒船でやってきた外国人を初めてみた江戸時代の人と大して変わりのない視点で書いている。リンダは日本の新聞や雑誌の記事をひとつひとつ訳してほしいと頼んできた。なかには〈悪びれず口笛吹くポール〉とか〈こんな国には2度と来たくないわ、とリンダが叫んだ〉などという記事もあり、冷や汗をかきながら英訳する私のそばで、彼女は淡々と聞いていた。今度のケースは別にしても、アーティストの悪い記事が載るとパブリシストが不手ぎわを追及されるのが普通だから、私は本来、とっくに失格なのである。

    そんなこんなでアッという間に1週間が過ぎ、再び記者の動きが活発になってきた。ポールがそろそろ釈放される気配なのである。「リンダがスーツケースをパックしはじめたら、すぐに知らせてください」そんな間ぬけた電話がホテルにジャンジャンはいり、私に回されてくる。残念ながら、そのような気配はまったくない。

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    入国から逮捕、国外退去までのニュースを集めたスクラップブックまで売り出された

    留置所の風呂場でイエスタデイを歌った

    そして、1月25日がやってきた。新聞数社が、今日、ポールが釈放されるというスクープを載せたから大変だ。特にイギリスから飛んできた記者たちは、ポールやリンダと同じ飛行機で帰るように指令が出ているから必死である。

    午後4時、ポールが釈放されたという知らせがはいった。私はいつものように夕刊をすべて購入し、ペントハウスに戻った。部屋の人々がざわついている。ゲーム・センターで遊んでいた子供たちに無線で集合がかかる。リンダがお化粧を始めた。ハンドバッグを持ち、コートを羽織り、ナニーが子供たちにもコートを着せていた。

    マネージャーが「ポールが国外退去になったので、家族は今から空港に向かう」と言った。

    「車を3台 !地下駐車場へ !」「空港の警備はどうなってるんだ !」
    警備陣の大声が飛び交う。

    日本側の興奮に比べるとリンダの反応は冷静だ。そして1時間後の5時きっかり、リンダもマネジャーたちも慌ただしく身支度を終え、スーツケースをホテルに残したまま成田空港に去っていった。

    本当にあっという間だった。エレベーターのところでリンダが振り返って「ハルコ、ありがとう。また、会いましょう」と疲れた表情で言った。居間には日本で購入したまま開けていないお土産や衣類が散乱している。それを片付けるのは今ではないし、リンダの役割りでもない。数人の日英混合セキュリティに囲まれて、ハンドバッグだけを持ったリンダたちは風のように去っていった。

    1月27日、事務処理のため最後まで残っていた経理担当のポール・ウィンが帰り、ウィングスの最後の翼が完全に日本から去った。

    数日後、依頼されていた数件の報告をするためにロンドンのMPLに電話をいれると、ウィングス・ファミリーのマネージャーのひとり、アランが出た。彼はビートルズの時代から、ポールとのつきあいが長いひとりだ。

    そのアランが突然「ハルコ、ポールは実は、日本でコンサートをしたんだよ」と言う。「エッ? ウソでしょ?」。「留置所でね。観客は背中にサムライのイレズミをした殺人犯容疑の男だったそうだよ」

    「ポールもリンダも憔悴しきっていたけど、ポールは相変わらず口は達者だったよ」と、アランが電話の向こうでカラカラと笑っている。

    「留置場でシャワーを浴びたいと言ったら、共同浴場だがいいかと言われた。この際、体験することは何でもやってやろうと思い、裸になって入ると、僕のほかに5人の先客がいた。そのうちのひとりは、殺人の容疑でここにいる、と自分のことを紹介し、すばらしいイレズミを背中一面に入れていた。彼らはすぐに僕がポールだとわかったらしく、口々に歌え、歌えと催促し、ひとりは『イエスタデイ』のフレーズを知っていた。僕はリクエストにこたえて『イエスタデイ』と、フォークソングを2曲歌ったんだ。すると彼らは手拍子をとって、僕に加わろうとしたんだぜ」

    「最初は堅い表情だった取調官も日がたつにつれてソフトにフレンドリーになり、僕のことをミスター・ポールなんて呼びはじめた。何人かは規則違反だということを重々承知のうえで、僕にサイン帳を差し入れたりしたものさ」

    「ボクのとった行動はバカげていた」

    「新しい歌を作る時間は充分にあったけど、書きとめておく紙もペンもなかったのが残念だ。少し日本語を覚えたので、それを使って曲を作ろうと思う。たとえば、朝は"オハイオ"と言うし、監視人は"タントー"というんだ。ふたつをあわせて"オハイオ・タントー"つまり"グッドモーニング・ポリスマン"という歌ができそうだ」

    「留置所内での扱いはよかったよ。つらかったのは朝6時に起きなければならかったこと。そして毛布をたたむように命令された。足をクロスして座り(正座のことか?)朝のコーリング(点呼)にこたえるんだ。僕は22番と呼ばれた。 ニジュウニッ!とタントーが叫ぶと、僕は"ハイッ"と叫びかえさなければならない」

    さすがミュージシャンらしく観察もユニークでこまやかだ。特に風呂で裸のまま『イエスタデイ』を歌い、まわりの男たちが手拍子をとり、"ベリー・グッド"と英語で言ったなどというくだりは、どこか人情劇の一幕のようで、ポールの多分つらかったであろう10日間の、今だから笑って語れるエピソードとして限りなく楽しい。

    肝心のマリファナ所持に関して、ポールは深く反省しているということだ。

    「マリファナの害がうんぬんは別にしても、僕のとった行動はばかげていたし、アホらしいとしか言いようがない。アメリカから飛んできて、アメリカでマリファナを扱っているのと同じような態度で、日本に入国しようとしたのがよくなかった。特にコンサートを楽しみにしていたファンには、ただ申しわけないとしか言いようがない」

    高い授業料を払ったポールの言葉だ。今、彼の本音を信じなければ、たぶん私たちは2度と人の真心を信じる機会を失うだろう。成田空港で10日ぶりにリンダや子供たちと再会したとき「パパァ、もうどこにも行かないでね」と涙ぐむ子供たちひとりひとりを抱きあげて、ポールもまた声をつまらせたと言う。

    「最初、成田で逮捕されたときは正直いって、こんな大騒ぎになるとは思わなかった。日本の法律の厳しさを知らない僕が、最大のショックを受けたのは、イギリス領事がやってきて、悪くすると5年から7年、日本で服役しなければならないと言われたときだ。その夜はリンダや子供たちの顔がちらついて、ひと晩中眠れなかった」

    はれて自由の身になったポール・マッカートニー。
    ジョージ・ハリスンからはホテルのリンダに電報が届いた。
    リンゴ・スターは1月22日、ロンドンのヒースロー空港で地元の記者にポールのことについて取材されたとき、こう言った。
    「イヤ、心配するなって。もうすぐ出られるさ。フロに入るためだけでもいいじゃないか。おまえは本当に不運な奴だぜ、ポール」

    2026年 3人のミュージシャンたちを見送ったがポールのツアーは終わらない

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    ジミー・マカロックのコレクション書籍・LITTLE WING

    15歳でビートルズを聴き、18歳でコンサートを見た。そして『ミュージック・ライフ』編集部時代に、ウイングスのオーストラリアとニューヨークの公演を見た。

    そして、奇妙にねじれた次元でポールとかかわることになった。
    1975年、オーストラリア公演を取材していた時、一番仲良くなったのはジミー・マカロック(James McCulloch)だった。天才ギタリストの名前を欲しいがままにし、12歳からいくつかのバンドを率いていたが、21歳でウイングスにスカウトされて3年間、正式メンバーとして活動した。
    ジミーは一説にはポールとの折り合いが悪く、ウイングスを脱退したと伝えられている。『ヴィーナス・アンド・マース(1975年)』と『スピード・オブ・サウンド(1976年)』で、ジミーの歯切れのいいギターを聴くことができる。時にはベースも担当し、作曲も歌も手掛けた。
    しかし1979年9月、26歳という短い人生を終える。

    1979年、先に書いたウェンブリー・アリーナでウイングスのコンサートを見た折り、マネージャーが中年の男性を連れてきた。

    「ハルコ、この人はジミー、あのジミー・マカロックの父親だ。ハルコに会ってみたいと言っている」

    およそウイングスの楽屋にはふさわしくない服装で、酒の匂いをまとった小柄な男性は私の手を両手で包み込むんだ。

    「あなたがハルコ?息子から、日本のジャーナリストと仲良くなった、ロックが好きないい人だよ、と言っていた。これがあなたかね」

    パパ・ジミーはくたびれた背広のポケットから、しわくちゃの写真を取り出した。もし、まわりに人がいなかったら、私はその男性を抱きしめて号泣していたかもしれない。パパ・ジミーが持っていたのはシドニー湾をクルーズした時に、ジミーが撮影した私の写真だった。

    私は彼がいかにすばらしいギタリストだったか、オーストラリアでの2週間がどんなに楽しかったかをパパ・ジミーに話した。
    それからパパ・ジミーも2010年に亡くなったという話を聞いた。わずか26歳で才能あふれる息子を失った父親は、そうやって息子が生きた証(あかし)を探し求めていたのだろう。

    この時、私はポールのマネージメントが何らかのかたちで父親の生活を支援していたのでは、とも思った。天才的なギタリストでありながら、生き下手(べた)だったジミーの、笑顔の裏に隠された哀しみを見抜けなかったことを、今も悔いている。

    2021年に発売されたジミーのコレクション書籍『Little Wing』には、私がシドニーで撮影した写真も収められている。

    水上はるこ
    1975年 シドニー湾クルーズを楽しむメンバー(筆者撮影)

    MPLは私を『クラブ・サンドウィッチ』(ポールの活動を伝える大型のファンクラブ新聞)のメイリング・リストに入れてくれ、それから10年以上ものあいだポールとリンダのニュースや写真集を届けてくれた。

    RIP
    ジミー・マカロック   (1953年6月4日ー1979年9月27日)
    リンダ・マッカートニー (1941年9月24日ー1998年4月17日)
    デニー・レイン     (1944年10月29日ー2023年12月5日)

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    広報用WINGSペンダント(筆者所有)
     
     
    元ミュージックライフ、Jam編集長(75年~79年)、80年代は欧州でフェス巡り。94年モスクワに語学留学。2002年~09年までアメリカ在住。noteでは、仕事を始めた1966年からの記事を主にアップします。最新「最低で最高のロックンロール・ライフ」

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