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今夜、すべての酒場に感謝して

    『今夜、すべての酒場に感謝して。』
    ──中島らもではない。
    酒をやめる話でもない。
    ただ、これまでグラスを置いてきた、すべてのカウンターと、そこで出会った人たちの記録だ。

    昔の写真はない。
    最近のものが少し残っているだけだ。

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    ──店主が、獺祭を持って現れた。
    断る理由は、何もなかった。
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    ──勝駒。富山の銘酒。
    キレがあり、雑味のない後味。
    だから、もう一杯いける。
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    ──白川郷。岐阜の純米。
    合掌の里の名を借りて、夜を預かる。
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    ──夏の酒。口当たりは軽い。
    帰る理由まで、軽くなる。
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    ──皮目だけ火を入れた。
    夜には、まだ火を入れていない。
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    ──紗利。福井の純米大吟醸。
    辛口なのは、酒だけで十分だ。
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    ──新潟の無想。考えない酒。
    考えるのは、次の注文だけだ。
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    ──新里。沖縄のウイスキー。
    島は遠い。グラスは近い。
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    ──手取川。石川の大辛口。
    後味は切れる。夜は、切れない。
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    ──桂月。高知の秋上がり。
    季節が一つ、瓶の中に入っている。
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    ──開運。静岡の純米。
    縁起はいい。終電には、効かない。
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    ──ちえびじん。大分の生熟。
    夏を越した酒は、少し落ち着いている。
    飲んでいる側は、そうでもない。
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    ──十四代。本丸。山形の銘酒。
    銘酒に説明はいらない。問題は、次の一杯だ。
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    ──白子とあん肝。
    帰る理由が、また一つ減った。
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    ──時計オタクの会合では、これが通過儀礼だ。
    時間を確認している者は、誰もいない。
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    ──濃いロゼ。赤身肉。
    それで、十分だった。
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    ──蔵人しか飲めぬ酒。
    なぜか、こちらに回ってきた。
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    ──夜の真ん中で、酒は二本に増えた。
    人間は、そこでだいたい観念する。
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    ──口当たりはやさしい。
    油断すると、夜まで持っていかれる。
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    ──レッドアイ。
    赤いのはトマトじゃない。覚悟の色だ。
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    ──大吟醸を片手に、現実を少しだけ曇らせる。
    かすみ酒。視界は悪くて、気分はいい。
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    ──店の看板酒。
    こういうものは、断るより飲んだ方が早い。
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    ──秋田の純米吟醸。
    米は正直。夜の約束だけが嘘になる。
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    ──黄色いラベルに鶴。 優雅に見える。
    中身は、宴会を長引かせる共犯者だ。
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    ──越乃寒梅。寒いうちに、梅は咲く。
     客の理性は、春まで眠る。
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    ──この列、上品に見える。
    一本抜くと、予定が崩れる仕組みだ。
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    ──グラスがぶつかる音は、夜の開会宣言だ。
    閉会の時間は、誰も書いていない。
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    ──港区の夜。
    肩書きは置いて、グラスだけが正直者だ。
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    ──赤い液体が落ちる。
    落ちるのは酒だけじゃない。理性も一緒だ。 
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    ──ハイボールが並ぶ。氷は正直に溶ける。
    予定のほうは、溶けたまま戻らない。
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    ──かわいい缶が三つ。蓋は軽い。
    中身は、夜を重くする。
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    ──ウーロンハイ。調子が悪い夜は、
    二杯目から、こっそりウーロン茶になる。
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    ──新千歳。空港の近くで、帰路を見失った。
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    ──皿の上は新鮮。
    判断のほうは、少し傷み始めている。
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    ──階段は下るためにある。
    瓶たちは、客を下ろすためにある。
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    ──鬼ぞりゴリラ。名前は荒い。
    中身は、客の予定をさらに荒らす。
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    ──レモンを絞った。酸味は正直。
    甘いのは、「あと一杯」と言う嘘だ。
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    ──玄奘。旅は西へ。
    客の帰宅は、さらに遠回り。
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    ──パエリアは熱い。
    理性は、もう焦げている。
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    ──ミントは正直に香り立つ。
    帰宅時間だけが、香りごと消える。
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    ──ローストビーフとグラタンに見える。
    実際は、帰宅延期の署名欄だ。
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    ──パンは漬けろ、と皿が言っている。
    予定は漬け込むな、と誰も言わない。
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    ──この盛り合わせ、前菜に見える。
    実際は、夜の本編の予告だ。
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    ──鍋は沸く。閉会時刻は、沸騰しない。
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    ──バランタイン17年を挟んで、山崎と響。
     この棚だけで、夜が一層深くなる。
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    ──ドラえもんが一人混ざっている。
    タイムマシンはない。時間だけは戻せない。
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    ──ガチの時計マニアの円陣。
    延長戦の開会宣言だ。
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    ──生肉に海苔。火は通していない。
    客の判断も、まだ生だ。
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    ──三切れ並ぶ。理性は、もう一切れもない。
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    ──マッカラン12年。歳は重ねた。
    夜は、まだ若い。
     
     
    社労士/社福士/精神保健福祉士/介護支援専門員。実名名義で商業出版の単著、公募入選二冊。X時計界隈の異物。制度と対人支援の現場に立ち、ハードボイルドを書く。 バー「JACK」を舞台に、壊れた人間が、それでも歩き続ける物語。 小説、映像、音楽、朗読を一人で。 ※記事の無断転載禁止。

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