
【短編】世界で一番明るい星
月を見ると、なぜかあの日の息子の寝顔を思い出す。
妻が早くに他界し、父の手一つで育てた息子。ありふれた大学に進学し、ありふれた企業に就職し、結婚し、ありふれていないほど幸せな家庭を持って出て行った息子。
息子と二人で暮らしたこのアパートのベランダからは、月がよく見える。息子がいなくなった今でも、過ごしやすい季節なら、日本酒を傾けて月を愛でたりもする。
一人になると、やはり家が手広くなった気がした。それを寂しいと感じているのかもしれない。
サンダルを引っ掛けてベランダに出る。秋風が吹き抜ける。まだ夕方なのに肌寒い。
遠くで豆腐屋の声がして、そちらを向くと、地平線に白い月が小さく浮かんでいた。
ああ、息子が寝ている。
脳裏にまたその顔が浮かんで、私は月から目を離せないでいた──。
その夜は珍しく、星を見るために、まだ五歳だった息子と二人で裏の山道に入った。山道に街灯はなく、懐中電灯で足元を照らしながらゆっくり歩を進めた。
秋の虫が盛んに鳴く、涼しい夜だった。頭上を仰ぐと、木々が揺れて囁きあっている。その向こうで星々が見え隠れしている。
「大丈夫か」
問いかけに息子は応えず、ただ黙々と後ろをついてきた。ライトで照らすと、首に提げた双眼鏡がぶらぶらと揺れていた。
息子がもう少し小さかったら泣き出していただろう。そのくらい山道は暗かった。手元の明かりと空以外は全て、木や山の形に黒く塗りつぶされていた。
私の方が不安になって、右手で息子の手を握った。左手には息子が持っていきたいとせがんだ宇宙の図鑑を抱えている。
先日行った東京の科学館で買ったものだ。最初は恐竜の展示にはしゃいでいたが、宇宙の展示になると翻って沈黙し、食い入るように展示を見つめるようになった。帰宅が遅くなりそうだったが、私もあえて急かすことはしなかった。
特に星雲の写真を飾ったエリアでは、息子の立ち止まる時間が増えた。
青色の目のような星雲の前で立ち止まると、後ろから高齢な案内員が近づいてきた。
「坊ちゃん、これはらせん星雲だよ。綺麗かい」
息子は写真を見たまま小さく頷いた。
「写真はあるけど、光でも七百年かかる遠い場所にあるんだ。他の星も遠い場所にある。君は、好きな星はあるかな?」
不満そうに首を横に振る。
私と案内員は微笑んだ。案内員は優しく息子の肩をさすった。
「大丈夫だよ、坊ちゃん。これから探すんだ。星は坊ちゃんのことをいつまでも待ってくれるからね」
山道が唐突に開け、広い丘に出た。ざわめいていた木々の音が背後に霞んでいく。
そこは森の中に巨人の足跡がついたような場所で、空が大きく開けていた──。
圧倒されるほど、美しかった。
息子と二人で息を飲む。息子も双眼鏡の存在を忘れ、その目に星々を写し込んでいる。
「夜空で一番明るい星を知ってるか?」
「しらない」
「シリウスっていうんだ。多分図鑑にも載ってるはず…」
暗闇で図鑑のページをめくっていく。息子がライトをかざして覗き込む。
スイカのようにカットされ内部が露わになった太陽や、独特の模様を湛えた土星の輪が手元で流れていく。
「パパ、あれは?」
「ん?」
図鑑の小宇宙から目を逸らし、息子の指す西の地平線を眺めた。
それは細く黄色い三日月だった。
「お、鋭いな。たしかにあれはシリウスより明るい」
太陽系の惑星も含めると、一番星と言われる金星も、シリウスより明るく輝く。火星や木星も時期によっては明るい。
この辺りの知識は、私も子供の頃に買ってもらった図鑑で学んだ。そのため口からもスラスラと出て来たが、息子は興味があるのかないのか、空の星を見つめるばかりで返答が曖昧だった。
私は懐中電灯を消した。息子もそれに続いた。
虫の声に彩られたプラネタリウムだけが、そこにあった。
空から目を逸らすことができなかった。宇宙が広大であることを感じ、寂しい気持ちにも囚われた。
何分そうしていただろうか。息子が寒いと呟いて、ライトを点けた。
今度はシリウスと星雲も観ようと約束をして、丘を離れた。
翌日の早朝、息子の寝室を覗くと、枕元に双眼鏡が落ちていた。握ったまま寝たようだ。
小さな学習机には図鑑がある。らせん星雲のページが開かれている。
足元で息子が寝返りを打った。起こさないように息子を見やる。
口を脱力したように開け、寝息を立てている。頭の中ではきっと様々な惑星が公転しているのだろう。
笑いを堪え、忍び足で部屋を出る。さてと一人言うと、朝ごはんの米を研ぐために、炊飯器から釜を取り出した。
今日もまた、一番明るい星が昇ろうとしていた。
こちらは以下の企画に参加した作品です。
文頭を「月を見る」で始めています。