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「日本仏教」と「止観」の接点 その9

    さて、今回は「禅」についてもう少しお話しすることにいたします。

    栄西さんの臨済禅も、道元さんの目指した曹洞禅も、
    元をたどれば達磨大師が伝えた「禅定」に繋がります。

    これは律によらず、慧によらず、定によって「真理ダルマ」に至るべしと言うものです。

     ゴータマブッダは、ひたすら座るという事によって「真理ダルマ」を得たのであるから、理屈やしきたりをこねくり回すより「定」によるべきだ。という「止サマタ」を示したと言うことです。

    これが四聖句しせいくと言い、達磨大師が説いたとされていますが、唐の時代にまとめられたものであるという説もあります。

     

    「不立文字ふりゅうもんじ」、

    とは、ぶっちゃけ、
    真理とは「文字や言葉では伝わるものではないし、表現できない」
    という考えです。すなわち真理は言葉を超えており、
    師から弟子に「以心伝心」されるものだ。と言う考え方です。

     その昔「燃えよドラゴン」というブルースリー主演の映画がありました。その一シーンでまさにこれが述べられていました。

    「Don't think!! Feel!考えるな、観じろ」の台詞ですが、これがわかりやすい表現かも知れませんね。

    そう来ると、

    「教外別伝きょうげべつでん」

    という、真理は「経典」を超えたところにある。
    つまり、先人の語録とか著作を読んでも、自分自身の「覚り」には至らない。経をたくさん暗記するより、むしろ応用実践して自分のものにしなさい。と言う考え方です。マニュアル本より実体験だ。
    と言うことですね。

    「直指人心じきしにんしん」

    とは、ありのままに自分の心を見つめよ。と言う意味です。
    あれこれ外野の評論家に惑わされずに、自分の心のままに従えと言う意味です。
     で、その心の正体とは何か、
    「明鏡止水めきょうしすい」という禅語があります。
    これはどんな意味かというと、澄んだ心でいれば、澄んだものが見えるが、汚れた心でいれば汚れて見える。
    人間の心とは「鏡のようなものだ」という意味です。

    「見性成仏けんしょうじょうぶつ」

    さて禅哲学の最後です。
    これはもう一つ章をつくって説明すべき事ですが、
    ぶっちゃけて言うと、「おのおのの仏ブッダ」はおのが中にあるよ。と言うことです。

     それに気付けたときがあなた自体が覚った=観ヴィッシャーナなのだ。と言うことです。
    そしてそれに至る方法は、決して一つではなく、いくつもあり、
    様々な体験の中から大悟するのが「禅の覚りヴィッシャーナ」であるわけです。

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    心に決めたよ

    すなわち、止観のフィールドである「仏国土」は、
    おのが生活や座禅の繰り返しの中において、

    「おのが心の中にある」という結論が「禅」であるというのが、
    栄西さん、道元さんに連なる、その後の祖師たちの共通な流れであると言えましょう。

    CONTINUE


     
     
    生活に役立つ(かもしれない)哲学的文章および宗教的蘊蓄がメインでございます。それを「比較宗教学」というのだそうです。小説はライフワークです。その挿絵を描くノリで最近おねーちゃんのイラストも、気まぐれで描いてるアクチブじじぃです。生成AIが闊歩する中、手作りにこだわりたい。

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