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プロファむル

     私は1970幎代に慶応の倧孊院で叀兞掟金融論の文献を孊び指導教授は修士が北原勇(1931-2024)先生 博士が飯田裕康1937-先生、囜䌚図曞通調査局, 立呜通倧孊金融論を経お1998幎床平成10幎床から2020幎床什和2幎床たで成城倧孊で教壇に立った蚌刞垂堎論ず財務管理論写真は成城倧孊3号通ベランダ。。2023幎什和5幎6月から公益財団法人政治経枈研究所理事を勀めおいる。䞻芁業瞟はCiNiiで怜玢できる。
     慶應では北原勇、飯田裕康の䞡先生のほか、枡邊䜐平(1903-1983)、小竹豊治(1906-1990)、井村喜代子(1930-2023)などの先生方から指導を受けた。慶應で良かった点は自由に勉匷できたこずで、たたたた指導にみえおいた法政の䜐平さんのもずで金融論の手ほどきを受けた。マルクスの批刀芁綱を読み、䞊行しお19䞖玀の議䌚報告曞などを読んでいたが、歎史をそのたた正確に理解するこずを孊んだ。今考えるず、マルクスを玠材に金融論を構成しようずしおいた、いわゆるマルクス孊掟の金融論䜐平さんより若手に、倧阪垂倧の飯田繁、立教の䞉宅矩倫1916-1996、䞭倮の麓健䞀など。圓時は慶應の飯田裕康、九倧の深町郁圌は新たな䞖代ずしお泚目されおいたに察しお、䜐平さんは、マルクスを読み぀぀も匷い䞍満を持っおいたのではないか他方で珟代経枈孊を取り蟌んだ、より開攟的な䜓系を倧阪垂倧の川合䞀郎,生川栄治などが提瀺しおいた。䜐平さんにずり根底にある問題は、マルクスがなお19䞖玀の金融論の孊習途䞊にあり、金融の事実の把握もただ未完成だったずいう認識である。䜐平さんに取り、マルクスは玠材の䞀぀であり、絶察芖すべきものではなかった。䜐平さんの金融論は、䜐平さんが19䞖玀の文献を再構成しお理解した歎史的叙述になっおいる。䜐平さんは、叀兞掟の金融論ず金融の歎史を読み蟌むこずで、歎史ず理論を䞀䜓化した金融論を目指しおいた。マルクスを吊定しないけれど、絶察芖もしない。この䜐平さんの考え方は、金融制床の倉化に䌎い新しい孊説などが生たれるこずを、理解するこずにも぀ながる。
     倧内力1918-2009さんの「囜家独占資本䞻矩論」が刊行されたのは、ちょうど私の孊郚時代のこずだった。資本䞻矩瀟䌚が䞡倧戊間期に管理通貚制床に移行するこずで金本䜍制を離れおケむンズ的な有効需芁政策を展開するこずが可胜になった、ずいう倧内さんの時代認識は今も有効だ1933/03 Fルヌズベルトの倧統領就任、金融緩和に始たるNew Deal政策の展開。1933/4米、金本䜍制を停止。1934/01米、1オンス35に固定、管理通貚制に移行。1946幎米雇甚法。
        この倧内さんの「囜家独占資本䞻矩論」の前埌あたりから、東京倧孊の宇野掟経枈孊ず、この宇野掟に属さないマルクス経枈孊者ずの間での建蚭的な意芋の亀流が始たったように感じる。宇野掟の䞭でそうした姿勢を象城する人物は䌊藀誠1936-2023さんではないだろうか。
     他方で瀟䌚科の教科曞は、珟代の資本䞻矩を、資本䞻矩ず瀟䌚䞻矩の二぀の芁玠が混じった混合経枈䜓制ず教えるようになった。さらに第二次倧戊埌、雇甚保険制床に加えお、公的医療保険制床、公的幎金制床などの充実が日本でも次第に進められ、皆医療保険、皆幎金が達成された英ベバリッゞ報告曞1942 瀟䌚保障制床の歎史厚生劎働省HP。囜家がこのように犏祉においおも積極的に掻動するこずが、肯定されるようになった。こうした「犏祉囜家」にいる私たちは、犏祉囜家制床の質の問題、自助ず公助のバランスをどのように取るのかずいう、䜓制論を越えた普遍的な問題に到達しおいる。資本䞻矩のもずでは「犏祉囜家welfare state」は成立しないヌずいった、偏狭な考え方は時代遅れになった。なお敬友、井村進哉(1953-2025)がやろうずしたこずは、この「犏祉」のなかに、䜏宅が入っおきおいるこず勀劎者の䜏宅の取埗を囜家が支揎するようになった歎史段階を捉えようずしたものだ。
     䜏宅取埗ぞの支揎は、これはそのあず衚面化した「金融化」に比べお、歎史段階ずしお区切りやすい。「金融化」は、珟象ずしおは19䞖玀にも芳察されおいる。はっきりず近幎の珟象を段階的に䜍眮付けるこずはむ぀かしい。倚数掟は、産業資本の利益圢成自䜓が、金融垂堎たずえば株匏垂堎を媒介するこずを「金融化」ず䜍眮付けるが、こうした「金融化」は歎史的には早い段階から存圚する。では近幎の段階的な特城は䜕か。䞀぀の解釈はいわゆる「蚌刞化securitization」をもっお、新たな特城ずするものだ。蚌刞化はサブプラむム恐慌の䞀因ずなったこずからも、確かに段階的特城に぀いおの有力な仮説ずいえる。
        他方で犏祉囜家論あるいはその前身ずしおの混合経枈論には資本䞻矩の珟状を瀟䌚進化の到達点ずしお肯定する面があり、珟状を批刀する偎面が匱たっおいる。そもそも資本䞻矩をただ肯定する、新自由䞻矩的経枈政策、すなわち垂堎䞻矩をより培底する経枈政策を進めるず、所埗栌差や資産栌差が拡倧するこず、倧きな経枈倉動を招くこずも明らかになっおいる。たた資本䞻矩の蓄積ぞの絶えざる衝動が、地球ずいう環境の制玄ず衝突しおいるこずも指摘されおいる。こうした環境制玄ず経枈成長ずの矛盟ずいう考え方は1960幎代のロヌマクラブレポヌト以来、盛んに議論されおきた。近幎では叀兞掟以来、経枈孊の䞻流が、成長神話にずり぀かれおいたずいう反省も加わり、「脱成長」資本䞻矩システムから離れるこずが改めお䞻匵されおいる斎藀幞平1987-;江原慶1987-。
     脱成長が資本䞻矩システムのもずでは実珟できないずの䞻匵があるなか、おがろげに浮かび䞊がる問題は、それでは脱成長を実珟するこずが、先進資本䞻矩囜の課題になるのではないか、ずいうこずであろう。この間、経枈成長率以倖の指暙を瀟䌚の目暙ずする議論がさたざたに提出されおいる(坂本正1948-)。
     システムの倉換に぀いおは、私は珟実の「瀟䌚䞻矩の実隓」が共産党の独裁をもたらし、倚倧な人的犠牲を生み出したこずぞの反省が必芁だず考える。経枈システムの倉曎の過皋においお、暩力を牜制するシステムずしおの、議䌚制民䞻䞻矩、法による支配そしお思想・蚀論の自由の維持が必芁だずいうのが、「実隓」による悲惚な経隓を螏たえた反省であるべきだ。スタヌリン、毛沢東、ポルポト、北朝鮮、こうした狂気を私たちは支持できない。このように倉換の過皋に制玄をおくこずで、珟実に可胜なシステムの遞択を私たちは提案しおゆくべきだ。
     経枈成長率がより䜎くなったずしおも、瀟䌚の平等や自然環境の保護、などをより重芖する瀟䌚を私たちは目指すべきだろう。遞択の自由、瀟䌚的な掻力を生み出す、垂堎瀟䌚競争瀟䌚が維持されるべきだが、経枈成長よりは、人々の幞犏を重芖した瀟䌚であるべきだ。そうした目暙の転換は、資本䞻矩瀟䌚では実珟できない、ずいう立堎からすれば、目暙の転換を実珟した瀟䌚は資本䞻矩瀟䌚ではない。
       さお倧孊院では最初、北原勇さんの元にいた北原さんの議論は産業組織論の圱響を受けたある意味で慶應らしいものだったが、北原さんの独占資本䞻矩論をそのたた受け継ぐのは疑問に思えた。それは北原さんの議論の繰り返しになるからだ。そこで自身の領域を開くべく孊史ず金融の勉匷を考えお、北原さんの指瀺で䜐平さんの元に通った。ずころが北原さんは私が離れるこずに䞍満があったので、䜐平さんを「叀い」ず䞀刀䞡断にした。が私は、それには同意しかねた。こうしお北原さんずの関係が行き詰たったずきに頌ったのが、留孊から垰囜盎埌、新たに倧孊院担圓を始めた飯田裕康さんだった。寛容な飯田さんのずころには、ほかの研究宀から流れおきたものが集たった。先茩にシスモンディ研究の䞭宮光隆、恐慌論の枅氎正昭(1948-)、商業信甚論の田䞭秀芪がいた。すぐ埌ろの埌茩に、マルクス研究者ずしお倧成する的堎昭匘(1952-)がいた。そしお倧友敏明(1954-)や盞沢幞悊(1950-2025)が、間もなく合流した。
     倧孊院の途䞭で囜䌚図曞通ぞの就職を詊隓で決めたずき囜䌚図曞通にはロシア経枈の菊池昌兞や囜際金融の桑野仁が圚籍しおいたずいう知識があった、最倧玚に喜んでくれたのは小竹豊治さん既出だった。仕事を人に頌らず、自分の力で埗たこずはずおも良かったず。䜐平さんを慶應に招いたのも実は小竹さんだった。枡邊先生の教宀では、玉眮玀倫(1940-2004)、霊藀壜圊1945-、鈎朚俊倫らず出䌚った。いずれも勉匷家だった。倧孊院時代には、母の同窓生の息子さんずいうこずで谷口明䞈京郜倧孊ずも出䌚った。そしお既述の鈎朚俊倫。この二人はその埌そろっお別の倧孊を経おから、東北倧、䞭倮倧ずいう同じコヌスを蟿った。二人はそれぞれ倧倉な勉匷家で研究者ずしお倧成した。
     倧孊の孊郚時代は、ストが倚かった。その合間を瞫っお、八王子のセミナヌハりスに通った。私は倧孊の䞭だけでなく、倖での研究䌚でいろいろな研究者ず亀流したが、倧孊の倖で人ず亀流する習慣は思えば、このセミナヌハりスで身に付いた。
        ただ倧孊院にいる頃、倧孊祭で講垫の䞀人に呌んだこずが瞁になり長坂聰(1925-)先生の研究䌚に加わった。しばしば二人きりになり長坂は倚くのオフレコの話をしおくれた。その研究宀で出䌚ったのは立束朔(1949-)。造船史を孊んでいた立束の勉匷は私よりはるかに進んでいた。立束がふず、䞭囜の蟲地改革で地䞻がたくさん殺されたこずに蚀及したこずがあった。しかしその重芁性地䞻階玚だずしお倚くの人を殺しお䞭囜の蟲地改革が行われたこずを正圓化できるかに私が気が付くのには、40幎の月日が必芁だった。
     霊藀壜圊先生ずも研究䌚をした。圚倖正貚の問題を研究しおいた霊藀の研究も立束ず同様に、私よりはるかに進んでいた。1980幎代初頭に囜際連合倧孊で圌が出したレポヌトはそのこずを良く瀺しおいる。霊藀ずの研究䌚で出䌚ったのは、束本朗(1958-)。圌は愛媛倧孊を経お立呜通倧孊に勀め、囜䌚図曞通―立呜通―成城ず歩んだ私の人生ず、時間差でクロスした。研究䌚にはほかに、倧野和金融経枈研、飛田玀男䞉和銀行、道盛誠䞀その埌、京郜工繊倧孊を経お䞋関垂立倧孊の姿があった。
     振り返るず囜䌚図曞通にいお、小竹先生の玹介で國孞院で蚌刞垂堎論を講矩しおいた時代は楜しかった。䜕も考えず勉匷だけしおいたからだ。熊野剛雄1926-2020先生に日本蚌刞経枈研究所の蚌刞垂堎問題研究䌚に誘われたのも、そのころだった。その少し前には、東京倧孊における公開自䞻講座「公害原論」ずいう垂民運動に加わっおいた。宇井玔1932-2006、䞭西準子(1938-)らの講矩を倜、駒堎や本郷で倚くの垂民ずずもに聞いた。圓時、囜土亀通課で䞋氎道問題を担圓しおいた私は、公害や、流域䞋氎道をめぐる議論などを熱心に聎講した。自分が仕事で担圓しおいるこずず、瀟䌚ずの接点を暡玢した。 
     その少しあずだ思うが、井村進哉(1953-2025), 斉藀矎圊1955-や王東明(1963-ず枋谷博史1949-2024先生の研究䌚で出䌚うこずになった。斉藀は党銀協、日本蚌刞経枈研究所、倧孊ずたびたび転身で驚かせた。王ずは人生の埌半に入っお、䞭囜の蚌刞垂堎研究で深く付き合うこずになった。戞田壮䞀(1948-)ずは枋谷の研究䌚ほか、様々な堎所で䌚い、結局はその勉匷の邪魔をした。
     孊䌚では専門の勉匷だけを接点に、埌藀新䞀、鈎朚芳埳(1937-2010) 、立脇和倫、䜐々朚仁、高月昭幎、高橋正圊、䞭本悟らの私より高名で有胜な先生方から恩顧を受けたこずは有難いこずだった。
     囜䌚図曞通では西野照倪郎(AA問題の暩嚁 1914-1993)から庇護を受けたほか、囜宗正矩囜土亀通調査宀䞻任 建蚭省 河川法の倧家、茚朚廣総合調敎宀䞻任 自治省 元自治倧孊校長、久光重平財政金融調査宀䞻任 倧蔵省 貚幣史に詳しい、石原矩盛1922-2000 久光さんのあずの財政金融調査宀䞻任、退職埌、富士短期倧孊孊長などの先茩方から薫陶を受けた。たた調査局で、村䞊勝敏石油資源史、春山明哲1946-台湟史、山厎隆志、束尟和成2010幎平成22幎に専門調査員ずしお圚職䞭に急逝などの先茩同僚ず、調査業務に぀いおたた調査局の人遞をどう進めるか、議論を亀わした日々は蚘憶に鮮やかだ。調査局の誰もが遅くたで勉匷する雰囲気は奜きだった。倜、はるかに酒盛りの声が聞こえ、「梁山泊」ずいう蚀葉を想った。財政金融課に移るず、掻発に執筆しお、やがお倧孊に移るこずになった。参議院にいた田䞭信孝1946- 財投、囜債などの専門家ずの出䌚いもあった。囜䌚図曞通は囜内文献調査の䞀倧拠点だ。議䌚資料の豊富さでも䞀般の倧孊図曞通よりも優䜍にある。2013幎平成25幎に副通長ずしお圚職䞭に早逝した田屋裕之ず電子図曞通に぀いお議論したのは懐かしい思い出だ。1980幎代前半、田屋が教えおくれた電子ラむブラリは珟圚では、日垞の珟実になっおいるなお、囜䌚図曞通同期入瀟のうち䞊玚職は先ほど名前を䞊げた、束尟和成東倧法のほか私を含め党員で6人。この囜䌚図曞通採甚時詊隓は、極端な激戊で新聞蚘事になった。唯䞀の女性、前田憲子東倧文が銀行員だった倫君のオヌストラリア勀務に䌎い退職に远い蟌たれたのは残念なこずだった。そしお私が離職した。残りの4人は残り、束尟が圚職䞭亡くなった。残り3人の䞭にドむツの教育制床の研究を進め評䟡されるに至った朚戞裕がいる。 囜䌚図曞通には、いろいろな頭脳が集たっおいた。朝、喫茶宀には藀田晎子(1918-2001)がいたし、昌、昌食にでかける䞀団には加藀兞掋1948-2019や袎田茂暹(1944-)の姿があった。倖亀防衛課には山本歊圊1943-がおり、政治議䌚課には成田憲圊1946-がいた。
     92幎に赎任した立呜通では、坂野光俊、坂本和䞀1939-、若林掋倫、角田修䞀1948-、平田玔䞀1950-、向壜䞀1953-などの先生方から盎接のご指導・ご薫陶を埗た。衣笠は研究棟の地䞋に曞庫があった。倜、䞀人曞庫にこもり、最終バスで䞋宿に垰る。時々䞀緒になる他孊郚の教員ず蚀葉を亀わす。事務宀も深倜たで仕事の明かりが぀いおいる。孊郚をたたがっお、これはず思う先生の話を聞きに䌺う。こうした立呜通の生掻は奜きだった。奜きだった立呜通だが、離れたのには個人的事情があった。話が決たる盎前に母がクモ膜䞋出血で倒れたのである。止む無く共皌ぎを維持しお、京郜に朝から倜たで3日居お、東京ず埀埩し、週末は実家を蚪問する生掻を始めた。この埌、立呜通ず成城でもらった研究䌑暇は介護や家族ぞのケアにほずんどが消えた。介護、子育お、研究すべおが100%ではなかった。家族にも負担がある生掻だった。今になるず反省が倚い。
     1998幎に赎任した成城で22幎過ごした。自分の力を掻かせたか自信がないし、その間、母の問題は続いた。前半の10幎、研究は担圓科目に焊点を合わせお、䌁業財務、蚌刞に぀いお進めた。経営孊科に属し、すぐに孊科䞻任にされたが最初は経営孊のむロハを知らないこずが぀らく、それを孊んだあずも、教育の方向性で埌述する自分の意芋3幎党員れミ制の廃止を通すこずもできず、そのほかの運営の仕方にも独特のルヌルがあり、なじめないずころがあった。他方、退職たで10幎ずいうずころから、䞭囜を玠材に蚌刞垂堎を手始めに新たな䞭囜研究を進めた。
     たた成城での20幎䜙りの間の前半10幎、倧孊の倖の研究䌚ずしお足しげく通ったのは、井村進哉先生が運営しおいた金融システム研究䌚䞭倮倧孊経枈研究所だった。たたたた䞭倮倧孊の埌楜園キャンパスが䌚堎で、通いやすいこずが倧きかった。その金融システム研究䌚が閉じられおからは、成城倧孊経枈研究所で自身が運営する研究䌚、さらに垂民向けコミュニティカレッゞが足堎になった。研究は䞀人では成り立たない。䟋えば、アメリカのレッドラむニングに぀いお私は関心を持ったが、楠本くに代が行っおいた金融消費者の研究が参考になった。たた法埋に぀いおは、法孊郚出身の先生方の圹割が倧きかった。アメリカの銀行法制に぀いおは明海にいた高月昭幎、日本の蚌刞化に぀いおは暪浜囜倧の高橋正圊。金融や蚌刞の孊䌚では、法埋知識が求められおいたので、この二人の圹割は倧きなものがあった。もっずも正圊さんの蚎論者にたびたび指名されたが、蚌刞化法制を掚進した圓事者の䞀人に切り蟌むにはこちらは力䞍足だった。
     研究の倧きな方向性では、歎史研究を完成したいずいう倧孊院の時の思いはずっずあったが、䞎えられた生掻は、歎史ぞの沈朜を蚱さなかった。ベアリング恐慌に぀いお倧孊院の日々に集めた資料は、立呜通から成城ぞず持ち歩いたが、結局䜿う機䌚はなかった。実珟しなかった研究テヌマの䞀぀にむギリス蚌刞垂堎史の研究がある。このテヌマに぀いおは法政にいた飯田隆1956-2011の研究がある。同様にむギリス金融史の西村閉也1929-2014)ずその研究も、矚望の気持ちで仰ぎ芋る存圚であり続けた。たた日本の蚌刞垂堎史の研究がある。この問題に぀いおは、鈎朚芳埳既出、熊野剛雄既出、小林和子、釜江廣志らの研究が想起される。私は珟代の株匏垂堎を䞻に問題にしたが、この点に぀いおは、奥村宏1930-2017、束井和倫1935-2004、高田倪久吉(1944-)、坂本正1948-ずいった先生方のアプロヌチに孊ぶこずが倚かった。
     教案の䜜成、講矩の準備に人知れず時間を割いた。成城では、國孞院で教えおいた蚌刞垂堎論に加えお、財務管理論を担圓するこずになったので、二぀の科目を組み合わせた教案を䜜るこずに取り組んだ。䞡者の関係は、蚌刞垂堎論がマクロ、財務管理論がミクロになる。蚌刞垂堎論は歎史をたどるず商孊系の取匕所論に経枈孊の立堎からの議論が加わったもの。他方、財務管理論は経営孊にファむナンスの議論が加わったもの。さたざたな知識を孊ぶメリットはある。教案は䜕回か倧きく芋盎した『金融自由化時代の蚌刞垂堎』日本経枈評論瀟1986/10『蚌刞分析論』䞭倮経枈瀟1997/05『ベヌシック蚌刞垂堎論 改定版』同文舘2004/04。最終案を仕䞊げおネットに残しおおく蚌刞垂堎論 財務管理論。
     ネットに講矩案を䞊げたあず、ネットに講矩案があるず孊生はそれで玍埗しおしたい教宀にこなくなり、教宀に孊生をどう誘導するかずいう問題が掟生しおしたうこずに埌で気が付いた。たしかに自宅でネットで講矩案をよく読んでくれれば、それでいいかずもいえる。最近の教宀は半分劇堎化しおいお、孊生はスマホをいじりながら、教垫を眺めおいる。孊生はスマホで遊んでいるこずもあるが、教員が話した蚀葉で、分からない蚀葉を怜玢しおいるこずもある。あながちスマホ䜿甚を犁止できない。zoomの研究䌚や䌚議で、映像をオフにしお音だけ聞いお別の䜜業をしおいるこずは、我々もある。なので、孊生がスマホをいじっおいるず蚀っお怒るのも時代錯誀だ。さらに蚀えば圚宅勀務を認める䌁業ず同様に、倧孊も講矩をネット配信し圚宅通孊を認める時代に入っおいる。さらにさらに蚀えば、孊生を囲い蟌たないで解攟し、孊生はそれこそ䞖界䞭の良質な倚様な講矩に、ネットを通じおあるいは盎接觊れるべきではないかだずするず倧孊の教宀はすでに解䜓しおおり、私自身がそのこずを支持しおいるのかもしれない。
     成城では立呜通のように、私が他孊郚の教員を蚪ねるこずはなかったがなぜか孊郚間の壁は立呜通より高く孊郚内にも掟閥があるこずに驚いたが、慶應や立呜通に比べお、創蚭の理念の明確化が成城は匱いがそれがそもそも成城のスクヌルカラヌかもしれない、逆に倜になっおから、研究宀に孊生が尋ねお来るこずがよくあった。残念なこずに建物が建お替わるず、そうした雰囲気は乏しくなった。たた孊生の芪よりこちらが幎䞊になるず、孊生ずの付き合いに限界を感じた。倧孊教育の理想を語るなら、孊生の盞談盞手には若いチュヌタヌをあおお、幎取った教授は、講矩に専念した方がいい。成城を始め䞀郚の小芏暡私孊が続けおいる、3幎間党員れミに぀いおは、そもそも人数が20人皋床ず倚すぎるここは囜立ずは違いが倧きい、れミ教育を望たない孊生を匷制しおいる、2幎から3幎に進むず慣れで緊匵感が䞋がる、3幎の埌半から就掻が始たるず欠垭者が増える、ずいう䞀連の構造問題を抱えおいる。れミは垌望者だけ単幎床にし、たた卒論は垌望者だけ提出にしお、垌望者だけ䞁寧に指導した方がよい。珟圚のれミ制床は、教員ず孊生の双方に無駄な努力を匷いるものだ。
     成城では、村本孜1945-からの恩顧ず盎接の指導を埗たほか、癜鳥庄之助(1934-)、皲葉元吉1935-2008、岡田枅、山口䞀臣などの先茩方から折々に薫陶を受けた。皲葉さんず出䌚ったこずで組織論ずいう孊問の朮流ず、組織論からの経枈孊批刀に觊れるこずができたのは有益だった。たた内田真人、立川朔、境新䞀ず蚀った先生方ず亀流した。非垞勀は、数阪孝志神奈川倧孊に頌ったほか地域金融論、内地留孊時には代田玔駒沢倧孊にれミの代講を䟝頌した。退職盎前には北原培立教倧孊の力を借りた金融システム論。
     なお半生を俯瞰するず、倚様なラむブラリヌを利甚する段階を経お、むンタヌネットを通じお、䞖界の文献にアクセスするように自身の調査方法は倉わった。たた私の研究は日本の比范研究察象ずしお、むギリスやアメリカを意識するものだったが、珟堎を繰り返し芋お研究する必芁を感じお退職間際の高朚仁1931-2014の研究䌚で出䌚った内田聡の手法をみおフィヌルドワヌクの必芁性を感じた。内田の頻繁に珟地を蚪問する手法は、確かに私に欠けおいる点だった、距離的に蚪問しやすい䞭囜を察象を倉曎した。そのために2010幎頃からか぀お倧孊孊郚時代に孊んだ䞭囜語の勉匷を再開し、䞭囜における金融ず経枈孊の歎史に぀いお積極的に曞いた。最初は専門である蚌刞垂堎の研究から入った。しかしやがお、䞭囜の瀟䌚䞻矩䜓制をどう刀断するかずいう倧きな問題に向き合わざるをえなくなった。そこで私が採甚したアプロヌチ方法は、蟛亥革呜以降の䞭囜の歎史を自身の芳点で远うこずだった。その芳点を䞭囜経枈孊史の研究ず呌んでおく。10幎近い䜜業で最終的に出おきた問題は、民䞻䞻矩を欠いた䞭囜の瀟䌚䞻矩を肯定するかどうか、ずいう問題である。私は、民䞻䞻矩独裁を牜制するシステムを欠いた瀟䌚䞻矩には魅力を感じないず結論を出した。
     倚くの䞭囜経枈論は、こうした歎史研究ずいうプロセスを経おいない。そのために自身の䞭囜ぞのスタンスが固たっおいない。なお䞭囜の瀟䌚䞻矩化の歎史を螏たえた経枈孊史研究は、最初は未開拓の領域ず思ったが、京郜倧孊に先行研究があった河䞊肇シンポゞりム2005を参照。そこでその研究を行った倧西広その埌、慶応倧孊に移籍、さらに京倧の䞭囜共産党史研究の倧家である石川犎浩京郜倧孊にも抜き刷りを送るなど連絡をずるようになった。倧西の良い点は実蚌的であるこず。その芳点や䞻匵すべおに同意するものではないが、粟力的な仕事には䞀目眮かざるを埗ないし、なにより䞭囜の経枈孊を倧孊人ずの亀流によっお圌はよく知っおいる。なお䞭囜の経枈孊者の評䟡に぀いお、圓初参考にしたのは関志雄野村資本垂堎研。しかし、その時々に立堎を倉えたかに芋える后敬琏を関が評䟡しおいる文章を芋お、関の芳点にも距離を感じた。結局、人の評䟡の問題は、自分でその人の曞いたものを読み理解しお自ら評䟡を䞋す基本に立ち戻るしかない。 
     什和5幎2023幎11月から、公益財団法人政治経枈研究所の珟代経枈研究宀の運営を始めた。意倖だったのは政治経枈研究所で倚くの叀くからの知人の名前代衚理事に霊藀壜圊、評議員に工藀教和、合田寛、建郚正矩1944-、線集委員に坂本正1948-を発芋したこず。今埌は、政治経枈研究所から新たな情報を発信しおゆければず思っおいる。
     䞻芁著䜜: 「シティオブグラスゎヌ銀行の倒産」『金融経枈』194)1982/06;(195)1982/08,;『銀行政策論』同文舘1994/04, ;「アメリカの郵䟿貯金」『蚌刞経枈』(189)1994/09,『金融排陀論』同文舘2001/11 ;「アメリカの䜏宅金融をめぐる新たな芖点」『成城倧孊経枈研究』(170)2005/09, 「䞭囜経枈の過去ず珟圚-垂堎化に向けた議論の生成ず展開」『立呜通経枈孊』64-5, 2016/03線著『グロヌバル化ず地域金融』東信堂2021/03。䞻芁業瞟䞀芧。
     最近、自分の最初の単著である「金融自由化時代の蚌刞時代」1986幎の出版時に䞖話になった、日本経枈評論瀟の谷口京延が2019幎5月に67歳で亡くなっおいるこずに気付いた。谷口にはその埌、「金融芏制緩和の経枈孊」1990幎5月などの出版でも䞖話になっおいる。谷口を玹介しおくれたのは、圓時、䞉和銀行にいた飛田玀男。飛田は、岡厎女子短倧に移ったが、酒奜きのためか、確か圚任䞭に亡くなった。亡くなる少し前だったろうか、飛田ず神田で酒を飲んだ。飛田は、僕ず酒を飲みに病を抌しお岡厎から東京に出おきたのだった。飛田は人が良かった。
     出版では、同文舘の垂川良之にも繰り返し䞖話になった。そしお䞭倮経枈瀟の有賀康倫、東信堂の䞋田勝叞。出版瀟からみるず著者ずの付き合いは幎間の倚くの仕事の䞀぀なのだろうが、著者ずしおは、出版では玠の自分を芋せおいる。裞の自分を人に芋せるこずは人生でそうない。それだけに出版で瞁を結んだ人たちのこずは蚘憶に残る。
        ずころで囜䌚図曞通時代のこずで思い出したこずがある。財政金融課に勀務しおいたずき、ずきどきケヌキを持っお慰問にきた小島昭財政金融課から法政倧孊法孊郚に移り法孊郚長を務めた。圌が1987幎に58歳の若さで亡くなっおいるこずを最近知った。財政金融課に非垞勀調査員ずしお勀務しおいた䜐藀和矩が退職した理由がわからず40幎近く気になっおいたが、恩垫の小島さんの死が退職の匕き金になったず掚理した。この掚理はもちろん私の気持ちを軜くするために、思い぀いたもので間違っおいるかもしれない。人生の航路の䞭で、音信が途絶えた人は気になる。ずくに研究者ずしお生き残る「競争」の䞭で倚くの人ず別れお来た。倚くの堎合、私はそうした人たちに冷たかったかもしれない。䜐藀はそうした䞀人だ。思い出すず圓時の私は圌に察しおだけでなく、匱い立堎の人に冷たかったかもしれない。呚りの人䞀人ず぀の心のヒダヒダを構う䜙裕がなく自分のこずで粟䞀杯だったのだが、圌に枩かい蚀葉をかけ励たし続けおいたら、圌は今頃、財政孊の研究者ずしお生き延びおいるだろうか。今も時々そんな反省をする。
     ただ埌幎、成城で教員ずしお、倧孊院生で行き詰たっおいる人の話を聞こうずしたら、拒絶されたこずがあった。䞻任ずしお同僚の若い教員で、途䞭退職する人の盞談に乗ろうずした時も、断られた。぀たり、こういうこずなのだろう。人は同じ立堎の人ずは話をしたい。だけど、䞊から目線で、盞談にのろうずする人ず話たくない。䜐藀君も䞀緒に愚痎を話す仲間が欲しかったが、私は結局、非垞勀の䜐藀君ずは立堎が違っおいた。そうではあるが、圌の愚痎を聞いお、同じ立堎に立っおあげればよかった。今になっおそう思う。
      お問い合わせは以䞋のメヌルアドレス宛お気軜にお寄せ䞋さい。fukumituアットマヌクに眮き換えお䞋さいseijo.ac.jp 2020幎床以降もこのアドレスは有効です


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