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吉岡実の整理

    私は吉岡実を敬愛している。しかし、彼の何がそんんなに私を惹きつけるかについては、整理してこなかった。良い機会なのでそれを行う。

    『静物』1955年→『僧侶』1958年→『紡錘形』1962年→『サフラン摘み』1976年です。間には『静かな家』(1968)、『神秘的な時代の詩』(1974)があります。その順番で時系列で〈物〉→〈儀式〉→〈変形〉→〈言語〉という四段階で整理する。

    詩集 中心 作者/主体 言葉の状態 キーワード
    『静物』1955 物 後退する 硬質・凝固 物体、卵、死、静止
    『僧侶』1958 儀式・身体 さらに匿名化 配置・演劇化 僧侶、暴力、性、宗教、死
    『紡錘形』1962 変形・運動 不安定化 結合・変形 身体、女、形態、回転、異形
    『サフラン摘み』1976 言語そのもの 解体される 自律・増殖 語、音、文字、断片、生成

    『静物』――「私」を消して、物を見る『静物』は決定的な出発点です。1955年の私家版で17篇を収録し、吉岡自身が後に『僧侶』とともに「日本のウェットな風土や近代性に反発して書いた」と述べています。 ここで重要なのは、抒情主体の後退です。普通の抒情詩なら、

    私が卵を見る
    ↓
    卵によって私の感情が喚起される
    ↓
    私の悲しみ・孤独が表現される

    となる。

    吉岡はこれを切断する。卵そのものがそこにある。しかし単なる客観描写ではありません。物体が異様な密度を持ち始める。静物が生物のようになり、生物が物体のようになる。生/死の境界も曖昧になる。したがって『静物』は、「私は何を感じるか」から「物はどのように存在するか」へという転換だったと考えられます。ここは、いま考えている「アウト・オブ・リリック」の最初の重要な先行地点でしょう。

    『僧侶』――物が「関係」を始める

    『僧侶』になると大きく変わります。1958年刊、翌年に第9回H氏賞を受賞しました。 『静物』では物体が孤立していました。ところが『僧侶』では、僧侶/女/罪人/食事/性/暴力/死などが奇妙な関係を結び始める。ここで吉岡の世界は「静物画」から劇場になります。ただし物語ではない。誰が善人なのか悪人なのか、なぜ暴力が起きるのか、何を象徴しているのか――そういう説明がない。『日本現代詩辞典』も『僧侶』について、抽象的イメージと生理的感覚、形而上性と猥褻さを融合させ、生と死の不条理を照らすものと整理しています。 つまり、意味によって人物を結ぶのではなく、配置によって結ぶ。ここが非常に重要です。

    吉岡実には、ストリップ劇場によく通っていたという逸話がある。大岡信は、吉岡がストリップ劇場で、煎餅をかじる観客たちに混じって出し物を見ていると「気持ちが安まる」と語っていたことを回想している。地方のストリップ事情にも詳しかったという。吉岡陽子編の年譜には、死の三か月前、一九九〇年二月二十八日に道玄坂百軒店の道頓堀劇場を訪れ、それが「長年親しんだストリップ・ショーの見納め」となったことまで記されている。吉岡は筑摩書房に勤め、取締役まで務めた。社会人としてはきわめて常識的な人物だったという。その一方で、ストリップやポルノ映画を愛し、土方巽の舞踏を愛した。この落差に私は惹かれる。昼間は出版社の取締役として働き、夜には暗い小屋で裸の女を見る。吉岡はそこに何を求めていたのだろう。もちろん性的欲望はあっただろう。かし、それだけではないように思える。城戸朱里は、吉岡にとって「見る」ことが詩の発端にあり、その意味では舞踏や美術を見ることと、ストリップやポルノ映画を見ることは同じ次元にあったのではないかと指摘している。つまり、吉岡にとって重要だったのは、裸だけではない。見ることだった。吉岡自身、「わたしの作詩法?」で、詩は感情の吐露や自然への同化へ流れてはならず、「見えるもの、手にふれられるもの、重量があり、空間を占めるもの、実在」を意図してきた、と述べている。ここに吉岡の詩の核心がある。彼は内面を告白するのではなく、世界を見ようとした。しかも、一つの視点から見るのではない。ピカソの女の顔のように「あらゆるものを同時に見る複眼」を持ち、いくつもの支点をつくり、「複数の中心を移動させて、詩の増殖と回転を計る」という。これは驚くべき詩論である。世界には唯一の中心があるのではない。見る位置が変われば対象も変わる。複数の中心が移動し、その関係によって詩そのものが増殖し、回転する。だから吉岡の「見る」は、静的な写生ではない。見ることによって対象が変わる。そして言語化することによって、もう一度見る。朝吹享二が『サフラン摘み』について指摘した「重層化した窃視」とは、このことである。裸を見る。写真を見る。それを言葉にする。そして言葉になったものを、もう一度見る。見ることが反復されるたびに、対象は別のものになっていく。ここで私は、物理学者リチャード・ファインマンを思い出す。ファインマンにもストリップ劇場を好んだ逸話がある。カリフォルニア工科大学(Caltech)の教授時代、ストリップ劇場に通い、そこで物理学の計算をしたり、踊り子たちをスケッチしたりしていたことは、彼の伝記や回想録でも知られている。ここで重要なのは、ファインマンが裸体を眺める場所で、同時に高度な抽象思考を行っていたという事実です。彼にとって、官能的なものと知的なものは必ずしも対立していなかった。さらにファインマンは「Ofey」という署名で人物画や裸体画を制作していました。科学者であると同時に、身体の形態を観察する画家でもあったのです。

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    これは吉岡実と比較する価値があります。吉岡は裸体を見ることから、言葉による異様な身体の構築へ向かった。ファインマンは裸体を観察し、線によって形態を捉えながら、別の時間には数式によって自然界の構造を探究していた。ただし、ファインマンがダンサーの動きから特定の物理学的発見を得たとまでは確認できません。それでも、両者には共通するものがあります。身体を観察することと、抽象的な構造を考えることが、一人の人間のなかに共存していた。この事実は、吉岡実のエロティシズムを単なる性的嗜好として片づけず、抽象的な詩の生成と結びつけて考えるうえで、有効な手がかりになります。
    そして、マティスの《ダンス》を加えることで、三者の違いも鮮明になります。吉岡は身体を言語へ変換した。ファインマンは身体を線で描き、自然を数式で記述した。マティスは身体を単純化し、運動そのものを絵画にした。三者を結ぶのは、肉体の具体性と抽象的な形式が、互いを排除しないということです。

    回る。揺れる。形が変わる。そこから抽象が生まれる。吉岡にも同じことが起こっていたのではないか。

    『僧侶』を読めば、そこには驚くほど生々しい肉体がある。女の股、陰嚢、月経帯、臓物、血、肉、穴。それらは宗教的イメージや死、動物、植物と奇妙に接続される。しかし、それは写実ではない。肉体を徹底的に見ることによって、肉体が抽象へ変わっていくのである。『紡錘形』という題そのものが象徴的だ。身体は形態になる。形態は運動する。運動は別の身体へ変わる。つまり吉岡では、肉体を見つめることが抽象を生み、抽象を極限まで進めることが、再び肉体を生々しくする。エロティシズムと抽象思考は対立していない。むしろ同じ運動なのである。

    ここでマティスの《ダンス》を思い出す。裸の人間たちが手をつなぎ、円環をつくって踊っている。一人ひとりの人物から、名前も職業も社会的地位も消えている。身体さえ極端に単純化されている。ところが奇妙なことに、単純化されればされるほど生命が強くなる。五人が踊っているのか。一つの円環が踊っているのか。分からない。人間が運動をつくっているのではなく、運動そのものが人間を動かしているようにも見える。

    私はそこから、フィンランドの夏至祭を見たときの衝撃を思い出す。白夜のなかで人々が集まり、踊る。そこでは人間が、職業や地位や日常的な役割から一時的に解放され、身体そのものへ戻っていくように見えた。おそらく、裸の踊りには何かがある。それは単なる性的なものではない。人間という輪郭が揺らぐのである。私と他者。見る者と見られる者。主体と客体。聖と猥褻。生と死。それらを隔てていた境界が、運動によって一時的に崩れる。

    吉岡自身、「わたしの詩の中に、大変エロティックでかつグロテスクな双貌があるとしたら、人間への愛と不信をつねに感じているからである」と書いている。吉岡のエロティシズムには、愛だけがあるのではない。不信がある。欲望しながら距離を置く。見たい。しかし全部を見てしまってはいけない。近づきながら遠ざかる。入沢康夫や大岡信が指摘した吉岡の禁欲性も、この問題と無関係ではないだろう。だから彼のエロティシズムは、放埒ではない。禁欲と侵犯が同時に存在する。見る。しかし触れない。近づく。しかし迂回する。露出し隠す。その緊張によって、吉岡の詩は異様なエネルギーを獲得する。そして『静物』『僧侶』『紡錘形』『サフラン摘み』という流れを、この観点から読み直すことができる。『静物』では、物を見る。『僧侶』では、身体を見る。『紡錘形』では、身体を形態として見る。そして『サフラン摘み』では、「見ること」そのものを見る。最後には、見られているものが女なのか、身体なのか、言葉なのかさえ分からなくなってくる。

    ここから、私は吉岡実を量子リアリズムと重ねて考えてみたい。吉岡自身がいう、

    複数の中心。
    予知できぬ断絶。
    複眼。
    増殖。
    回転。

    世界は一つの中心から確定されるのではない。対象も最初から一つの意味を持っているのではない。見ることによって関係が生じ、その関係から、その瞬間の現実が生成する。『僧侶』の女は「女」という一つの意味には収まらない。肉であり、穴であり、死であり、生殖であり、宗教であり、暴力であり、笑いでもある。それらが重なったまま存在する。一つの意味へ収束させない。ここに吉岡実の抽象がある。そして、その重なりをもっとも激しく発生させるものが、エロティシズムなのではないか。エロティシズムとは、性欲だけではない。境界が破れることである。身体と身体の境界が揺らぐ。主体と客体の境界が揺らぐ。見る者と見られる者の境界が揺らぐ。言葉と意味の境界が揺らぐ。そう考えれば、吉岡がストリップ小屋に通ったことも、土方巽の舞踏を愛したことも、『僧侶』の肉体も、『紡錘形』の奇妙な形態も、『サフラン摘み』の窃視も、一本につながってくる。人間が社会的意味を脱ぎ、身体になり、身体が形態になり、形態が運動になり、運動が言葉へ変わっていく。その生成を見ていた。身体と身体、見る者と見られる者、言葉と言葉が接触したとき、そこに一瞬だけ、それまで存在しなかったものが現れる。

    1962年の『紡錘形』の収録作には「老人頌」「果物の終り」「下痢」「紡錘形Ⅰ・Ⅱ」「裸婦」「呪婚歌」「巫女」「鎮魂歌」「受難」などがある。 タイトル群を見るだけでも分かるように、身体/宗教/性/死/物質が猛烈に混線してくる。ここでは「静物」のような安定した対象がなくなっていく。物 → 配置 → 変形と捉えると分かりやすいと思います。「紡錘形」という形そのものが象徴的。中心がありながら両端へ伸びる。回転する。糸を紡ぐ。あるものが別のものへ連続的に変形していく。だから『紡錘形』では、名詞が単に物を指示するのではなく、名詞A → 名詞B → 身体 → 性 → 死 → 神話という変換装置になっていく。シュルレアリスム的な「意外なもの同士の結合」からも、少しずつ離れていく。

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    そして1976年の『サフラン摘み』です。同詩集は高見順賞を受賞しています。 ここが、いま考えているブルトンとの比較では最重要だと思います。静物』ではまだ、作者 → 観察 → 物という構図が残っている。『僧侶』では、作者 → 奇怪な劇を構成するという構造が残る。『紡錘形』では、その構成自体が崩れ始める。そして『サフラン摘み』になると、作者が言葉を支配しているのか、言葉が作者を動かしているのか分からなくなる。ここで吉岡実は、単なる「シュルレアリスト」という説明から大きくはみ出してきます。

    そして、これを先ほどのブルトン問題と接続すると面白い。ブルトンは、意識 → 無意識へ向かった。それに対して吉岡実を、かなり大胆に図式化すれば、私 → 物 → 関係 → 変形 → 言語と進んだ詩人として読むことができます。『静物』で「私」を物の背後へ退かせ、『僧侶』で物と身体を異様な関係へ投入し、『紡錘形』でその関係そのものを変形させ、『サフラン摘み』でついには言葉そのものが生成運動を始める。ここにブルトンとの決定的な違いを見出せる可能性があります。ブルトンにはまだ「精神」がある。夢を見る人間がいる。無意識がある。オートマティスムによってそこへ接近しようとする。しかし吉岡実をこの四冊の軌跡として読むなら、「詩は人間のどこから来るのか」という問いそのものが次第に無効になっていく。作者の意識から来るのでもない。無意識から来るのでもない。物と言葉と身体と音と記憶が接触したとき、詩という出来事が発生する。

    これは私がいま考えている、意識でもない。無意識でもない。夢でもない。
    作者の精神のどこかに「真の詩」が隠されているとは考えない。という考えに接続できます。四冊のなかで「アウト・オブ・リリック」の直接的な先行者として最も重要なのは『サフラン摘み』**だと思います。ただし『サフラン摘み』だけを見るのではなく、『静物』=主体から物へ→『僧侶』=物から関係へ→『紡錘形』=関係から変形へ→『サフラン摘み』=変形から言語生成へという一本の運動として読む。吉岡実――エロティシズムと抽象のあいだ

    吉岡実の詩を『静物』『僧侶』『紡錘形』『サフラン摘み』という流れで読むと、そこには一貫した運動が見えてくる。それは、抒情的主体を後退させながら、物、身体、性、死、宗教、言葉を互いに接触させ、その接触によって詩的現実を生成していく運動である。『静物』において、まず「私」が後退する。物は作者の感情を象徴するために存在するのではない。卵や果実や器物は、それ自体として異様な密度をもって存在する。ここでは「私が物を見る」という近代的な主体―客体関係が揺らいでいる。ところが『僧侶』になると、孤立していた物が身体を獲得する。僧侶、女、肉体、食事、暴力、宗教、死。吉岡の詩は急激にエロティックになる。重要なのは、このエロティシズムが「作者の性的欲望の告白」ではないことである。むしろ身体は物質として現れる。肉体が切断され、接触し、侵入し、変形する。聖と俗、清浄と猥褻、生と死が同時に存在する。したがって吉岡のエロティシズムとは、「私があなたを欲望する」というリリックではない。それは異なる存在が接触するときに発生するエネルギーなのである。ここに吉岡実の抽象思考との奇妙な融合がある。通常、抽象と肉体は反対方向にあると考えられる。抽象とは肉体から離れることであり、エロティシズムとは肉体へ近づくことだからである。しかし吉岡では逆である。

    肉体へ近づけば近づくほど抽象化され、抽象化されればされるほど肉体的になる。

    『紡錘形』はその転換点として読むことができる。「紡錘形」とは具体的な形である。しかし同時に純粋な幾何学でもある。膨らみ、細まり、中心を持ち、両端へ収束する。その形態は身体を思わせながら、特定の身体ではない。女性器にも、臓器にも、植物にも、宇宙的形態にもなりうる。つまり吉岡にとって身体は固定された身体ではない。身体=形態生成の場なのである。

    ここから量子リアリズム的な読みが可能になる。古典的な世界観では、まずAという物体とBという物体が存在し、その後で両者が関係する。しかし量子リアリズムでは、存在を最初から固定された実体として考えない。観測、接触、関係によって、その都度ひとつの現実が生成される。この観点から吉岡を読むと、『僧侶』や『紡錘形』の奇怪なエロティシズムは別の姿を現す。接触することによって、男と女と身体が生成される。見る者と見られる者があらかじめ存在するのでもない。見ることによって、見る者と見られる物が同時に生成される。ここでは主語と目的語の関係さえ不安定になる。吉岡の詩に頻出する身体、物体、植物、宗教的存在、死者などは、独立した「もの」として配置されるのではなく、互いに干渉する。AがBに触れることでAも変わり、Bも変わる。だから吉岡のエロティシズムは、欲望の表現というより干渉の詩学として読み直すことができる。そして『サフラン摘み』に至ると、この干渉は身体から言葉そのものへ移っていく。音と意味、文字と身体、記憶と物質が干渉する。結果、作者が事前に所有していなかった第三の意味が発生する。そこに深層はなくてもよい。ここが決定的である。「僧侶」「女」「果実」「血」「花」「死」「サフラン」といった言葉が接触すると、その瞬間に意味が発生する。意味は作者の意識から出てくるのでも、無意識の井戸から汲み上げられるのでもない。関係のなかで生成する。これを量子リアリズム的に言えば、吉岡の詩において言葉は、確定した意味を運搬する容器ではなく、複数の可能性を保持したまま配置された存在である。「女」は女だけではない。「僧侶」は僧侶だけではない。「紡錘形」は紡錘形だけではない。それぞれの語は意味を確定しきらないまま存在し、他の語との接触によって一時的に意味を形成する。そして次の行へ進めば、その意味は再び変化する。したがって、意味 → 言葉ではない。言葉 × 言葉 × 身体 × 読者 → 一時的な意味である。吉岡の難解さは、読者を拒絶しているのではない。むしろ読者を詩の生成過程へ巻き込んでいると考えることができる。「これは何を意味するのか」と読者が考えた瞬間、その読者自身が観測者として詩の内部へ入る。ある読者には性的に見えるものが、別の読者には宗教的に見える。ある瞬間には死に見えたものが、読み返すと誕生に見える。観測のたびに詩が異なる状態として立ち現れる。吉岡実のエロティシズムと抽象思考は矛盾しない。同じ原理の二つの現れである。エロティシズムとは、身体と身体の境界が揺らぐ。抽象とは、物と意味の一対一対応が揺らぐ。詩は、言葉と言葉の境界が揺らぐことである。つまり
    身体の非確定性=エロティシズム
意味の非確定性=抽象
言葉の非確定性=詩という三層が、吉岡実において重なっている。だから四冊の展開も、先ほどよりさらに踏み込んで整理できる。

    『静物』――物の解放
『僧侶』――身体と関係の解放
『紡錘形』――形態の解放
『サフラン摘み』――言葉と意味の解放

    そして、その全体を貫いているのがエロティシズムである。ただしそれは「性欲」の文学ではない。境界を越えて、異質なものが触れ合うことそのもののエロティシズムである。彼は「私」を消したのではない。「私」を中心から降ろした。その空席へ「物」を置いた。しかし物もやがて安定性を失う。身体と物が交錯し、形態が変形し、最後には言葉そのものが運動を始める。

    吉岡実は世界を記述したのではない。異質なものを接触させることで、それまで存在しなかった世界を詩の内部に生成した。

    そしてこれは、いま考えているアウト・オブ・リリックの議論にもつながります。ブルトンが「意識の外側としての無意識」へ進んだとするなら、吉岡はさらに奇妙な場所へ進んだ。意識でもない。
無意識でもない。
作者でもない。
物だけでもない。その「あいだ」で、身体と言葉が衝突し、一瞬だけ現実が発生する。私はここを、吉岡実を量子リアリズムから読む際の中心命題にすると非常に強いと思います。吉岡評価の出発点として重要なのは『静物』です。吉岡は1955年に私家版『静物』を刊行します。当初これを最後の詩集にするつもりだったとされますが、飯島耕一との出会いを契機に再び書き始めます。その後『僧侶』で1959年にH氏賞を受賞し、一気に評価を確立しました。ここで象徴的なのが、高見順による吉岡論の題名です。「物体としての詩」これは吉岡の本質をかなり正確に言い当てています。それまでの近代詩には、私 → 感情 → 言葉という基本構造があった。ところが吉岡では、言葉そのものが石や卵や果実のように置かれる。言葉は感情を「伝達する透明な媒体」ではなくなる。言葉そのものが物体になる。この転換が衝撃的だったのだと思います。

    大岡信は1959年、すでに『僧侶』について本格的な評論を書いています。後年も吉岡との関係は深く、追悼特集では入沢康夫、天沢退二郎、平出隆と吉岡を論じています。そこで大岡が興味深いことを言っています。戦争体験を経た吉岡が、「世界の悪意」から自分を守るために、つるっとして捉えどころがなく、それでいて構造的に強い形態を求めたのではないか、という趣旨です。吉岡の硬質性は、単なる知的遊戯ではない。その奥には戦争がある『静物』の卵や果実のような閉ざされた形態は、世界から隔絶された物体であると同時に、世界の暴力から身を守る殻でもあった、と読める。吉岡の「抽象」は、現実逃避というより現実の暴力に耐えるために獲得された形式だった可能性があります。

    『日本現代詩辞典』の星野徹による解説は、『僧侶』について、抽象的イメージと生理的感覚、形而上性と猥褻さを融合したものとして評価しています。さらにそこから、生と死の不条理が照射され、独特のブラックユーモアが生まれるとしています。これは先ほど話していたエロティシズムと抽象思考そのものです。

    普通なら、抽象=精神 猥褻=肉体 宗教=聖 性=俗と分離される。吉岡は全部を同一平面へ置いてしまう。僧侶―女―性器―食事―暴力―死―宗教が互いに接触する。しかも作者は「これはこういう意味です」と説明しない。そのため読者は、宗教詩なのか、エロティックな詩なのか、死の詩なのか、ブラックユーモアなのかを確定できない。

    美術批評家の宮川淳が吉岡を論じていることも非常に重要です。その論考のタイトル「言語の光と闇――吉岡実のエクリチュール」「思想」「内容」「人生」ではなく、エクリチュール=書くこと/書かれた言語の働きとして吉岡を捉える。つまり吉岡は、単に優れた「詩人」だったのではなく、言語を素材として扱う作家として、美術や造形の側からも読める存在だった。これは吉岡が装幀家でもあったこと、土方巽との交流があったこととも無関係ではないでしょう。実際、吉岡を論じた人々を見ると、詩人だけではありません。塚本邦雄、澁澤龍彦、宮川淳、土方巽、中西夏之、種村季弘、高橋康也、金井美恵子など、短歌、幻想文学、美術、舞踏、小説へと領域が広がっています。吉岡実は「詩壇の中だけの詩人」ではなかった。

    入沢康夫――「解読ルールがない」そして量子リアリズムとの関連で、私が最も重要だと思うのが入沢康夫の評価です。追悼座談会で入沢は吉岡について、「共通の解読ルール」があるならよいのだが、吉岡はそれを読者に与えず、そもそも実際にそのようなルールが存在しないのではないか、という趣旨の発言をしています。そもそも最終解が存在しない。これはブルトンとの差を考えるうえでも重要です。シュルレアリスムなら、その背後に夢や無意識という深層を想定できる。しかし吉岡では、表層 → 深層 → 真という垂直構造そのものが成立しない。平出隆の指摘も重要です。平出は『神秘的な時代の詩』以降の吉岡について、詩が「多構造性」を持たなければ分解してしまうという問題意識が、その後の方法へ向かわせたのではないか、と述べています。「多義性」ではなく、多構造性という言葉が面白い。一つの構造の中に意味が複数あるのではない。

    ここまでを総合すると、私は六つの理由に整理できると思います。第一に、抒情的な「私」を詩の中心から降ろしたこと。感情を告白するのではなく、物と言葉そのものを前景化した。第二に、日本語を「意味の伝達手段」から物質へ変えたこと。言葉に重さ、形、硬さ、配置、質感を与えた。第三に、抽象と思考を肉体から切断しなかったこと。これが吉岡の最大の特徴でしょう。抽象的なのに生臭い。知的なのに猥褻。幾何学的なのにエロティック。宗教的なのに冒瀆的。この矛盾を解消しなかった。第四に、意味を一つへ収束させなかったこと。入沢のいう「共通の解読ルール」が存在しない。だから吉岡の詩は何十年経っても「解読済み」にならない。第五に、詩を他ジャンルへ開いたこと。装幀、美術、舞踏、俳句、短歌、幻想文学などと接続した。吉岡論を書いた人々の多様さ自体が、その越境性を証明しています。そして第六に、自分自身の方法を壊し続けたこと。

    量子リアリズムから見ると、別の角度から読み替えられます。

    高見順――物体としての詩
    星野徹――抽象と生理、形而上と猥褻の融合
    宮川淳――エクリチュール
    大岡信――強固な構造
    平出隆――多構造性
    入沢康夫――共通の解読ルールの不在

    これらは別々の批評のようですが、一つの方向を指しています。吉岡実は、言葉によって一時的な世を発生させた詩人だったのではないか。ここに量子リアリズムから吉岡を読む突破口があります。

    『静物』なら、物がある。『僧侶』になると、物と身体が関係する。『紡錘形』では、関係そのものが変形する。『サフラン摘み』以後、言葉同士の関係によって現実が生成する。したがって、先ほどの四冊の整理をもう一段深化させるなら、『静物』=存在→『僧侶』=関係→『紡錘形』=変容
    →『サフラン摘み』=生成となります。そしてここで、吉岡のエロティシズムも重要になります。エロティシズムとは「性について書くこと」ではなく、二つの異質な存在が接触し、互いの境界を失う瞬間である。抽象も同じです。物と意味との固定された対応関係を壊す。したがって吉岡において、

    エロティシズム=身体の境界の攪乱、抽象=意味の境界の攪乱・詩=言語の境界の攪乱という三つの運動が重なっている。この観点から見ると、吉岡実が戦後詩でこれほど評価された理由を、私はこう言い換えられると思います。吉岡実は「私」を表現するために言葉を使う詩から、言葉と物と身体の関係そのものが未知の現実を生成する詩へ、日本語詩を移動させた。だから彼は「反抒情」の詩人であるだけではない。むしろ、作者より先に詩が存在し始める地点を、日本語の内部につくった詩人と考えたほうがいい。これは、いま構想されている「アウト・オブ・リリック」のかなり重要な前史になります。そしてその先に吉増剛造を置くと、吉岡=物・構造・生成 → 吉増=声・身体・文字・現場 → アウト・オブ・リリック=作者/意識/無意識という中心そのものの撤去という系譜が見えてきます。

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