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Photo byuchuu_art

或る男の手記

     ○○○○年九月二十六日 雨

     美容院に行かなくちゃ。前髪は引っ張ると顎に達しているし、伸び切った襟足は無造作に跳ねている。あとは秋服も買わなくちゃ、と思いながら秋雨が続いて例年より肌寒い九月が終わろうとしてなお、ポロシャツにジャケットを羽織って仕事に出ている。先週からそれらのことをずっと考えているのになかなか実行できないままいる。

     若い頃、二十代半ばくらいまでは、インテリアやファッションにこだわることは好きだったし、美味い食事を摂ることも幸せのひとつだった。なのにある日ぱたりとそれらに興味が持てなくなってしまった。単純な話、興味の対象が移った、ということだ。限りある時間と金をそんなものに費やすなんてもったいないと思うようになった。それに着飾って華やかなものに囲まれたとて、未熟な俺自身には見合っていないとも思っていた。
     それからは髪の毛は自分で切って──後ろ髪は上手く切れないので肩甲骨あたりまで伸びた頃に美容院に行っていた──、夏はよれよれのアロハシャツを、冬はほつれて色褪せたセーターを着ていた。食事というものにも実は興味がなかったことに気づいてからは鍋やカレーを数日分作って毎日同じものを食べていた。
     今どきあまり目にしない「○○荘」というアパートに住んでいた時期もあった。玄関の鍵は古いトイレによくあるような、丸いドアノブの真ん中をぽちっと押すと鍵が閉まるタイプのものだった。玄関の鍵が、だ。なんにせよ、当時の俺にとっては荷物が置けて眠ることができる場所があればなんだって良かった。

     貧乏性というわけではなく、そんな生活をしていても金が手元に残ることはほとんどなかった。旅行や高価な本や、興味あるものには惜しみなく金を費やした。それは三十代の半ばに差し掛かった今も変わらない。

     でも、最近変わったことがひとつあった。

     家族や友人と話すとみんなして俺のことを心配するのだ。
     淋しくはないか、とか。いずれきっと素敵な出会いがあるよ、とか。お金は困っていないか、とか。悩みはないか、とか。
     悩みなんて、生きている限り誰しも抱くものではないか。なぜみんなして俺のことを心配しているのかよく解らなかった。
     あまりにも心配する彼らに気を使って、俺は自分の限界について相談してみた。志と呼べるようなものがない自分はこの先どうなるのかわからない、と話してみた。
     「誰かのために生きるってことが必要だと思うよ」
     と、家族や友人は言った。
     前の女と別れて以来、誰かと一緒に生きることについて考えることは保留していた。でも──天邪鬼なのだろうな──それを宣言されてしまうと、独りでいたい俺のことを否定されたようで、そんな彼らのことを否定してみたくなった。

     だから、まず身なりを気にするようにした。
     美容院へ行き、長年ロングヘアだった髪の毛はばっさり切って短髪に整え、古い洋服は全て処分して清潔なシャツを揃えた。
     食事にも気を配るようにした。栄養を考えながら野菜や果物をバランスよく摂ることを心がけ、運動することも習慣化した。
     身につける装飾品や香りにも注意を払い、毎朝家を出る前に鏡を覗き込んで他人からどう見られているかを意識するようにした。

     次第に毛質や肌艶が良くなってゆき、鏡の前には健康的な三十代の男ができ上がっていった。

     再び家族や友人と会うと彼らは驚いた顔をした。
     何があったのか、とか。恋をしているのか、とか。自信に漲っている、とか。そんなことを言っていた。
     彼らが見ているものとは何なのだろう。よれたアロハシャツと皺のないシャツ。伸びた癖っ毛と整髪料で整った髪。それらはただのシンボルであって俺とは何の関係もない。
     「その気があるのなら紹介したい人がいる」
     と、知り合いが言った。
     俺は馬鹿らしく思ってしまった。そして同時に、自分自身の存在がそれほど儚いものだと知ってしまった。
     性格が変わったわけでないにも関わらず、俺は以前よりも人から好かれるようになった。それまで社交辞令的な話しかしなかった相手もよく話しかけてくるようになった。俺は鏡の前で練習した微笑を作って相槌を打つだけで良かった。話なんてまともに聞いてもいないのに。

     俺はきっと疲れはじめているんだ。見合っていない外面に合わせて生きることに疲れたんだ。髪だろうがシャツだろうが、何だって良いじゃないか。馬鹿馬鹿しい。俺は勝手に生きてやる。だからもう、勝手に心配しないでくれ。
     知っているか? 髪の毛は伸びるものだし、服はただの布切れなんだぜ。

     
     

    羊男

     
     
    30代男の戯言。 雑記散文、もしくは作り話。

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