
『月待ちの灯』――江戸・長崎、九月二十四日の約束
長崎の町では、日が暮れるとともに、
家々の軒先へ灯りがともり始めていた。
出島へ向かう道の石畳には、
昼間まで降っていた雨の名残が、薄く光っている。
潮の匂いに混じって、どこからか煮魚と醤油の香りが流れてきた。
港には、異国の船が静かに浮かんでいる。
その姿を、紙問屋の娘・お鈴は、
店の二階の小さな窓から眺めていた。
二十三になった。
同じ年頃の娘なら、もう嫁いでいる者も少なくない。
けれど、お鈴には、
まだ嫁入りの話を受ける気持ちになれなかった。
「……今夜も来ないのかな」
小さく呟いて、窓を閉める。
そのときだった。店の表から、父の声が聞こえた。
「お鈴、客だぞ」
「はい」
階段を下りると、店先に見覚えのある男が立っていた。
紺の着物に、少し擦れた風呂敷包み。旅装束ではない。
けれど、どこか遠くから、
戻ってきた人の顔をしていた。
「……宗吉さん」
男は照れくさそうに笑った。
「久しぶりだな、お鈴」
宗吉は、長崎から西へ少し離れた、村の出身だった。
幼いころ、父親に連れられて長崎へ来たとき、
この店へ紙を納めに通っていた。
お鈴とは、そのころからの付き合いだった。
幼い二人にとって、紙問屋の裏庭は秘密の場所だった。
宗吉が拾ってきた貝殻を、お鈴が紙に包む。
お鈴が描いた下手な花の絵を、宗吉が宝物のように懐へしまう。
そんなことをして遊んでいた。
だが、宗吉が十七になった年、父親が亡くなった。
家を継ぐため、村へ戻らなければならなくなった。
別れの日。
お鈴は何も言えなかった。宗吉も、何も言わなかった。
ただ帰り際、宗吉が言った。
「いつか、また長崎へ来る」
それから六年。
便りは、一度もなかった。
「……どうして」
お鈴の声が震えた。
「どうして、今になって」
「約束したからだ」
「そんな昔のこと……」
「俺は忘れていない」
宗吉は風呂敷包みをほどいた。
中から出てきたのは、一枚の紙だった。
長崎で扱われる和紙とは少し違う、素朴な紙。
そこには、拙い筆で、一輪の花が描かれていた。
お鈴が子どものころ描いた花だった。
「まだ持っていたの?」
「ああ」
「こんなもの……」
「俺には、こんなものじゃない」
お鈴は返す言葉を失った。
店の奥では、父がわざとらしく咳払いをした。
「お鈴」
「はい」
「店じまいをする。宗吉さんを送って差し上げなさい」
「……父さん」
「早く行け」
父は背中を向けた。
その口元が、ほんの少し笑っていた。
外へ出ると、雨上がりの夜風が頬を撫でた。
二人は並んで歩いた。
昔なら、何も考えずに走った道だった。
今は、隣を歩くだけで、妙に緊張する。
「村はどう?」
「畑ばかりだ。長崎ほど賑やかじゃない」
「魚は?」
「川魚なら食える」
「じゃあ、長崎の鯛は食べられないね」
「お前は昔から、魚の話ばかりだな」
「宗吉さんこそ、昔は饅頭ばかり食べてたじゃない」
二人は顔を見合わせて笑った。
笑ってから、お鈴は少し驚いた。
六年の歳月が流れても、
笑うときの息遣いだけは、昔と変わらなかった。
二人は港の近くまで来た。
海は暗く、遠くに船の灯りが見える。
「俺は明日の朝、帰る」
宗吉が言った。
「……そう」
「父親から、家のことを任されている」
「そうでしょうね」
「だから」
宗吉はそこで言葉を止めた。
しばらく海を見ていた。
「だから、もう一度だけ聞きたい。
俺と一緒に来てくれないか」
波の音だけが聞こえた。
「村へ?」
「ああ」
「長崎を離れるの?」
「そうだ」
「紙問屋は?」
「嫁に出るなら、父さんが誰かを探してくれる」
「でも……」
お鈴は海を見た。
この町で生まれ、この町で育った。
朝になれば店を開け、紙を並べ、帳面をつける。
夕方になれば母と食事を作り、父と囲炉裏を囲む。
それが自分の人生なのだと思っていた。
村へ行けば、畑仕事もあるだろう。
今まで知らなかった暮らしが待っている。
怖かった。
けれど、それ以上に怖いことがあった。
六年前と同じように、
何も言わないまま、この人を見送ることだった。
「宗吉さん」
「うん」
「私ね」
とお鈴は袖の中で手を握った。
「ずっと、待っていたわけじゃないの」
「……ああ」
「待っていたら、馬鹿みたいでしょう」
「そうかもしれない」
「だから、もう忘れようと思ったこともある」
「うん」
「でも、忘れられなかった」
宗吉は何も言わなかった。
ただ、少しだけ顔を伏せた。
「俺もだ」
その声は、波の音に消えそうだった。
「村で働いていると、夕方になるだろう。
畑から戻って、空を見る。
すると、長崎の海を思い出すんだ」
「海を?」
「違う」
宗吉は笑った。
「海じゃない」
お鈴を見る。
「海の向こうを見ていた、お前の顔を思い出す」
お鈴は、泣きそうになるのをこらえた。
昔なら、きっと泣いていただろう。
けれど二十三歳になった今、涙を見せることが少し恥ずかしかった。
「……ずるい人」
「何が?」
「六年も来なかったくせに」
「すまない」
「手紙くらい書けばよかったのに」
「字が下手だったから」
「そんなの理由にならない」
「そうだな」
宗吉は笑った。
「だから今度は、毎日でも書く」
「毎日は多すぎます」
「では三日に一度」
「それでも多いわ」
「では十日に一度」
「……それくらいなら」
二人の間に、静かな笑い声が落ちた。
その夜、月が雲から顔を出した。
水面に細い光が伸びる。
お鈴はその光を眺めながら思った。
人生は、きっと、
大きな出来事だけで変わるものではない。
戦が起きるわけでもない。
城が落ちるわけでもない。
誰かが歴史に名を残すわけでもない。
ただ、ある秋の夜。
一人の男が帰ってきて、
一人の女が「一緒に行く」と決める。
それだけのことで、昨日までとは違う明日が始まる。
「宗吉さん」
「なんだ?」
「明日の朝、見送りに行くわ」
「……ああ」
「それから」
「うん」
「一緒に帰ります」
宗吉は目を丸くした。
それから、ゆっくり笑った。
「待ってる」
九月二十四日の月は、
二人の影を長く石畳に落としていた。
翌朝。
長崎の町には、いつものように人の声が響いた。
魚売りの声。荷車の音。寺の鐘。港から聞こえる船の音。
何も変わらない朝だった。
けれど、お鈴にとっては違っていた。
小さな風呂敷に、着替えと櫛を入れた。
母が用意してくれた、干し魚と梅干しを包む。
父は何も言わず、店の帳場から小さな紙包みを渡した。
「これを持っていけ」
「何?」
「お前が子どものころ、宗吉さんに描いた花だ」開いてみる。
そこには、あの古い紙があった。
「父さん……」
「娘を嫁に出す親が、何も持たせないわけにはいかん」
それだけ言って、父は帳面へ目を戻した。
お鈴は頭を下げた。
「ありがとう」
外へ出る。
朝の光が町を照らしている。
宗吉が道の向こうで待っていた。
お鈴は歩き出した。
長崎の町を離れる。
少し寂しい。けれど、不思議と怖くはなかった。
隣には、六年前に約束をした人がいる。
そして今度は、自分の足で、その人の隣へ歩いていく。
港から吹いてきた風が、二人の着物の袖を揺らした。
秋の匂いがした。
その日から始まる暮らしが、
どんなものになるのか。
二人には、まだ分からない。
けれど――。
分からない明日を、一緒に迎えられる。
それだけで、十分だった。
あとがき
本作は、江戸時代の長崎を舞台に、長崎と周辺地域を結ぶ人々の往来や、異国船が行き交った港町の風景を背景として描きました。
宗吉とお鈴は架空の人物で、二人の恋と出来事は創作です。
当時の暮らしや町の雰囲気を損なわないよう配慮しながら、「歴史に名を残さない人々にも、それぞれの人生があった」という思いを込めました。