
ロード・オブ・ザ・長崎⑪
↑この日記の続きです。

平和公園は、人種も性別も年齢も問わない多くの人たちで賑わっていました。
「この人たちは子ども連れだから、たぶん家族かな?」
「この人たちは仲が良さそうだから、たぶん友達かな?」
「この人たちは手を繋いで時折見つめ合っているから、たぶん恋人かな?」
と、わたしはひとり、ここに集ったみんなの関係性を想像しました。
「きっと、みんな、大切な誰かとここに来ているんだろうな」
と。

ここに来ると、思い知らされます。
ひとたび戦争が起きれば、その大切な誰かと、もう二度と会えなくなるかもしれないという事実を。
想像します。
自分の愛する誰かが、骨も残さず一瞬で灼き尽くされたり、大火傷を負ったまま長く苦しみ抜いた末に絶命したり、喉が渇いてたまらずに水を求めて彷徨う姿を。
…嫌だ。
すごく、すごく嫌だ。
自分が死ぬのも嫌だけど、そっちの方が、すごく、すごく嫌だ。

この地に遺されているのは、決して遠い過去の記録ではなく、近いうちにまた起きるかもしれない未来でもあります。
…どうしてこう、人間というのは、昔々の時代から、飽きることなく殺し合いを繰り返すのでしょうか?

戦争を起こす人たちは知らないのでしょうか?
命ってね、死んだら生き返らないんですよ。
知ってました?
知らなかったんですか?
もし、そのことを知っているのにわざわざ戦争を起こして、来る日も来る日も殺し合うのだとしたら、頭がどうかしていますよ。

人間の寿命なんて、たかだか数十年。
長くても、百年ちょっとしか生きられません。
限られたその命を、誰かを愛するために使えばいいのに…。
殺し合いに明け暮れる時間があるのなら、一分一秒でも長く、家族や友達や恋人と他愛のない話でもしたり、花や月や星を眺めて「綺麗だね」って笑い合ったりしていれば良いのに…。

…でも、きっと、世界平和を祈ってこの地に集った人たちでさえも、何かの歯車が狂ったら、このうちの何人かは、「戦争をしよう」とか「日本も核を持とう」とか言うようになってしまうのかもしれませんね。
それが戦争のこわさ。
時には、「大切な誰かを守るために」という思いから、銃や爆弾を持つ人もいるのでしょう。
でも、銃弾を発射する先には、そして、爆弾が炸裂する先には、自分自身や、自分の大切な人だけではなく、他の誰かの大切な人がいるんですよね…。

また核が使われたら、罪のない人たちが、また沢山死にます。
大人も、子どもも関係なく。
…すごく嫌だ。
誰が死ぬのも嫌だけど、特に、大人が勝手に起こした戦争に子どもたちを道連れにするなんて。
原爆投下によって命を奪われた子どもたちの中には、生まれた時から日本が戦争をしていて、「平和」を知らないまま死んでしまった子どもたちもいたことでしょう。
そんなのあんまりです。
ひどすぎる。

…『グラウンド・ゼロ』を目指して歩みを進めれば進めるほど、そうやって、腹が立つような、悲しいような、悔しいような、色んな感情がぶつかり合いました。

しかし、原爆は天から落とされたものではなく、空から人間が落としたもの。
それに至った過程も含めて、学んでいかないといけませんね。
その歴史を。
目を背けずに。

決して他人事ではないのですから。

『ロード・オブ・ザ・長崎⑫』に続きます。