メインコンテンツへスキップ
見出し画像
Photo byhidemaro2005

御霊へ手を合わせられないのかな

     わたしは小学生の頃から、いわゆる「右寄り」の教育を受けてきた。

     学校の図書室に『はだしのゲン』はなく、平和教育らしいものは高校のホームルームで初めて触れた程度だ。

     だから、戦争というものが身近に感じられるようになったのは、祖父母の話を聞いてからだった。

     祖父は人間魚雷「回天」の指導に携わっていた。自分もいずれ乗るつもりだったと、淡々と語っていたことがある。初めて遊秀館で「回天」の実物を見たとき、わたしはその場に立ち尽くした。

     これに、うちの爺さんが乗るはずだったのか。
    鉄の塊を前に、そんな現実が胸に迫った。
    「回天」があったからこそ、わたしは今ここに生きている。
     その事実が、重くもあり、不思議な縁でもある。

     母方の祖父母は恋愛結婚だった。祖母は広島県呉市三条で生まれ、実家の二階には海軍の寮が入っていた。海軍の人たちに慣れ親しんだ祖母と、徳山市(今の周南市)から九州へ帰る途中の祖父が意気投合したのだ。

     なぜ徳山経由だったのかは知らないけれど、二人の出会いは戦争の混乱の中で生まれた奇跡だった。

     祖母は小学校高学年から山口県に移り、高等女学校を卒業後、教員養成の道を歩んでいた。

     ちなみに、父方の祖母は実際に教員だったから、家系に教育の血が流れているのかもしれない。

     だが、祖母が十代後半の頃、山口県光市の光海軍工廠が爆撃を受け、多くの同級生が命を落とした。

     祖母は光市に住んだことはなかったが、女学校の友を一挙に失い、広島に原爆が落ちた時には「自分も死んでしまいたい」と願うほど絶望したという。うちには代々、メンタルが脆い血が流れているらしい。
     でも、祖母はどこかのタイミングで鋼のような強さを身につけた。

     山口県の親戚宅で法事に訪れた際、祖母の伯母が教えてくれた。戦争末期、祖母は生きることを諦めかけていたと。

     ところが、玉音放送を聴いた瞬間、彼女は「やっと終わった」と涙を流し、周囲が落胆する中で一人、喜びが溢れたそうだ。

     光海軍工廠では「回天」の研究と製造が行われていたから、戦後、祖母は爆撃跡を訪れるうちに祖父と巡り会ったのかもしれない。彼女の心が立ち直ったのは、祖父の存在が大きかったのだろうと思う。

     3月10日は東京大空襲の日。
    8月6日は広島原爆、8月9日は長崎原爆、そして8月15日は終戦記念日だ。

     けれど、今の日本人の多くはこれらの日付すら知らない。

     わたしは日本を核保有国にすべきかどうかは置いておいて、せめてこうした日くらいは記憶に留めておきたいと思う。

     祖父のように愛国心を胸に生きた者も、祖母のように戦争の傷を抱えながら立ち直った者もいる。そのどちらにも敬意を払う意味で、御霊に手を合わせたいのだ。

     遊秀館の「回天」の前で立ち尽くしたあの日、わたしは祖父の覚悟を感じた。

     祖母が語る「やっと終わった」の一言には、苦しみと解放が凝縮されている。先祖が生き抜いた歴史の上にわたしたちがいるなら、せめて手を合わせるくらいはできないだろうか。過去を忘れず、今を生きるために。

    東日本大震災をきっかけに作られた曲ですが
    御霊に捧げます


     
    人の淋しさは対象によって癒される、淋しさ わたしの淋しさは 万物でも癒されない定めの淋しさ 手に握る砂が指から零れてしまう 狂人には沈黙を、佳人には微笑みを わたしはわたしの道を歩んでいるだけなのに ©️ももまろうめこのnoteは私に著作権があります 無断転載禁止です

    あなたへのおすすめ