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Photo byhidemaro2005

 今朝は国語の小テストを始めます。
はい、机の上は片付けてね。



 書いてる本人が伝わらないのは読み手の読解力が足りないからって思ってるケース。

 つまり
「私は言語化の達人です」
でも伝える努力はしてませんってやつ。
では、本当か検証しましょう。

【以下の文を読み、答えなさい】

「わたしたちは、いつも何かに祈っていて、
気づけばそれを愛と呼んでいるのかもしれない」

問1 この場合の愛とはなんでしょう?



 これは祈り?それとも愛?
カッコの位置で意味が変わる地獄にようこそ。
 
 設問は文系の皮をかぶった数学だよね。
頭の中で、
「主語はどこ?」
「これは形容詞?比喩?例え話?」
「どれとどれが並列で、何に掛かってるの?
って、構文解析モードに入らないと読めない。

 区分け・整理整頓・読解。
この三つを読者に課してくる時点で、もはや文章っていうより謎解き。
読み手の根気に甘えてるんだよね。

 読み終わったときに
「で、何が言いたかったの?」って聞きたくなるような文章は、やっぱり書き手の責任だと思う。

 主語がない抽象文は、先ほどの
「わたしたちは、いつも何かに祈っていて、気づけばそれを愛と呼んでいるのかもしれない」
……みたいな文章

→「誰が?」「何を?」「いつ?」が抜けてるのに、それっぽく美しく見えるから厄介。

 実際に読者は
「この言葉はどこに掛かるんだろう」という、
数式のカッコの位置を探る作業をしている。

愛=(祈り+気づき)÷ 寂しさ? 
それとも
祈り=(愛 × 無意識)? え、どれ?

「わたしたち」って誰?
→ もうここから混乱。
書き手と読者?人類?恋愛中のふたり?
→ 書き手の脳内しか存在しない曖昧な一人称複数。

「何かに祈っていて」
→ 何の対象かをあえて書かない
=深そうに見えるけど、中身が空っぽ。
→解釈次第で「推し」「健康」「元カレ」「締切」なんでも入る便利ワード。

「気づけばそれを愛と呼んでいる」
→ おい待て。
「それ」は何?祈ってた何か?祈る行為そのもの?
→ 結局「愛」と名付けたいだけで、意味はあとからついてきてない。

 この手の構文がヤバいのは、
「何にでも当てはまる」から一見共感を呼ぶけど、
結局、誰も何もわかっていないってところよ。
だから、答えは『何通りも愛がある』

 読者はどの人もヒマじゃない。
カッコの位置探して、主語を推理して、裏テーマを想像して受験生みたいな読み方を強いられる記事は、普通は途中で閉じられる。
読解して読もうとする人いない。

 ちゃんと意味をくみ取って読もうとする読者がいるから、こういう構文のヤバさが露呈するわけ。

 読み解いてくれる人は読みの格闘家だよ。
型が見えてるから、
「この構文、ジャブで崩せるな」とか「今の例え、右フック甘すぎ」と分かる。
気分は那須川天心、井上尚弥。

 ちなみに、この文章書いた人に
「主語ってどれですか?」質問すると
「そういうとこじゃないんだよね」と、
言われるので要注意。

 それでも
『伝わる人には伝わるから』って言う人がいる。

 ええ、そりゃ伝わりますよ。
読者が構文の修復からやってくれてるんだから。

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