
俺の好きだったプロ野球選手~阪神で燃え尽きた反骨のサイドスロー小林繁
物心ついた時に好きになっていた。
正直なぜ小林繁が好きだったのかわからない。物心ついた時には、阪神タイガースの帽子をかぶり、小林繁の背番号19の阪神タイガースのTシャツを着ていた。大分で育ち、父親は、巨人ファンだったのに・・・
テレビ中継は、巨人戦しか映らなかったので小林繁が投げてる試合を見た記憶も正直ない、何度か見ているだろうけど・・・
とにかく野球が好きで阪神好きで小林繁が好きだった。

阪神で燃え尽きた反骨のサイドスロー小林繁
1979年、小林繁は「江川事件」の渦中で巨人から阪神へ強制的にトレードされた。羽田空港で突然告げられた移籍は、彼の野球人生を大きく変えた。巨人で18勝を挙げ沢村賞も受賞したエースが、球団の都合で放出される――その屈辱と喪失感は深く、本人は「自分は巨人に必要な投手だと思っていた」と語っている。しかし同時に、「巨人だけには負けたくない」という強烈な闘志が芽生えた。阪神移籍後の小林は、この感情を燃料にして全身全霊で投げ続けることになる。
阪神入団会見を終えた翌日、キャンプ地の高知・安芸には1万2000人ものファンが詰めかけた。地元ラジオは到着を臨時ニュースで報じ、「悲劇のヒーロー」を一目見ようと球場は異様な熱気に包まれた。ミーティングで小林は「巨人には伝統があるけれど阪神には伝統がない」と発言し、掛布雅之ら主力選手を驚かせた。だがその真意は「勝利への執着心の差」を指摘したものだった。阪神に足りないものを、彼は初日から明確に示したのである。
小林はブレイザー監督に直訴し、巨人戦に合わせて自らのローテーションを組むよう求めた。開幕2戦目の巨人戦で勝利すると、そこから怒涛の巨人戦8連勝。ベンチ裏で声を出して気合を入れ、試合前からピリピリした空気をまとい、記者が球場入りする姿を見るだけで「今日は小林が巨人戦に先発だ」と分かるほどだった。巨人戦での彼は、普段のクールさを捨て、闘志をむき出しにしていた。
1979年、小林は 22勝・防御率2.89・17完投 の圧倒的成績を残し、沢村賞とベストナインを獲得。史上初の「複数球団での沢村賞受賞」という快挙である。掛布は「巨人への意地を示した」と語り、阪神の生え抜きとして「こういう人に負けられない」という強烈な刺激を受けたという。阪神の選手たちにとって、小林の存在は“勝つための執念”そのものだった。
しかし小林自身は後年、この79年シーズンを「褒められた野球ではない」と振り返る。巨人への怒りと悔しさをぶつけるためだけに投げていた、と語り、「チームより自分が先に立っていた。世間に踊らされていた」と自己批判した。それでも、阪神ファンにとってこの年の小林は紛れもなく英雄であり、巨人をねじ伏せる姿は球団史に刻まれている。
翌1980年、後楽園で江川卓との初対決が実現。小林は5回4失点で降板し、江川が勝利投手となった。試合後、小林は「煩わしいことがこれで終わった」と語り、巨人への執念が少しずつ薄れていった。巨人戦での勝敗も次第に負け越すようになり、若手が台頭した巨人を「同じユニフォームでも別のチーム」と感じるようになったという。
阪神での晩年、小林は右肘の故障に苦しみ、踏ん張りが利かなくなった下半身を補うため肩に頼った投球でさらに肘を悪化させた。1982年には「来季15勝できなければユニフォームを脱ぐ」と宣言し、実際に引退を意識していた。球団の昇給姿勢や選手への扱いにも不満を抱き、「巨人に帰りたい」と漏らすこともあった。1983年、大島康徳にインコースのシュートを本塁打され、初めて膝が抜けるような虚脱感に襲われたことが引退の決定打となった。
1983年10月、小林繁は阪神での5年間を終え、静かにユニフォームを脱いだ。巨人への意地と反骨心で燃え尽きた阪神時代は、彼の野球人生の中でも最も激しく、最も人々の記憶に残る季節だった。