
算命学|占い|コメントの問い「授かった器と、その歩き方」
今朝、読者様からまっすぐな質問をいただきました。
哲学と算命学、なぜ両方を勉強して書いているのか。
大事な視点での質問です。
少し考えました。
算命学は、授かったものを読む技術だと思っています。
生まれた瞬間に、もう決まっている型がある。
ずばり生年月日です。
それを干支や星で見えるようにする。
いわば、自分がどんな器なのかを教えてくれる地図です。
自分は本当はどういう人間なのか。
何に向いていて、何が苦手なのか。
こちら「占いツール」で命式を開くと、そのあたりがぼんやり浮かんできます。
でも、地図があっても、そこをどう歩くかまでは書いていません。
朝どんな気持ちで起きるか。
誰かに何を言うか。
迷ったとき、どっちを選ぶか。
そこは地図の外側の話です。
その外側を引き受けるのが、「哲学」のほうなんだと思います。
与えられた型を、どう生きるか。
何を大事にするか。
宿命という土台の上に、自分の運命をどう乗せていくか。
答えの出ない問いを、それでも手放さずに抱えていく。
「哲学」を日々の生活にとりいれるって、そういう「営み」なのです。
だから、片方だけだと、どうも足りないのです。
占い記事と哲学記事を交互に発信しているのもこのような意味もあります。
命式だけ読んでも「で、どう生きればいいの」が残る。
哲学だけ語っても「そもそも自分はどんな人間なんだ」が宙に浮く。
二つがそろって、ようやく一人ぶんの問いになる。
面白いのは、この二つが東と西で育ったこと。
東洋の算命学は、授かったものを受け入れるまなざし。
西洋の神秘の学びは、自分を高め、満たしていくまなざし。
受け入れる手と、満たす手。
両手で受け止めるから、落とさずに済む。そんな気がしています。
だから、両方を手放せないのです。
算命学が「何を授かったか」を教えてくれる。
哲学が「それをどう生きるか」を問い続ける。
繰り返しになりますが、この二つのあいだを、毎日ちょっとずつ行ったり来たり。
それがこの場所でやっていることです。
さて、今回の「ズバッ」とした問いをくださったクリエイター様を、この場を借りてご紹介させてください。
素晴らしい問いに出会えたことに、感謝しています。
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富士山麓よりあなたへ
ボンちゃん