
美術館に通い続けて
#103 書き手:一陽アケル
森の中、湖畔に佇む美術館。
不思議で難解な美術を楽しむだけでなく、花盛りの季節に美術館の外の庭園をのんびりと歩いたり、企画展になぞらえた和菓子を湖の見える席で食べたりと、楽しみがいくつもある場所だった。
その美術館が、今年3月を最後に休館することになった。
◇◆◇
冒頭でも話したように、所蔵品や企画展は所謂現代アートが多い。
友人2人と誘って行き始めた時も、充実しつつも「僕らは何を見ていたのだろう」とやや、困惑しながら帰る事もあった。
『描き方の表現が違っても、花や人物は分かる。モネやシャガールいうんはええなぁ思う。
何を描いとるか分からんのはとっつきにくい』
兄貴分のタツゴロウはそう言った。
元々タツは、美術館で絵を見るより山や森などアウトドアが好きな性質だ。
初めはその様子を揶揄ってしまったが、本人は“分かりたいのに分からない”と真面目に向き合った結果だったことに気づき、反省した。そこから、タツがどう楽しんでくれるか考えてみた。
車で2時間ほど走る道すがら、企画展や作品の「ここはピンときた、ここは分からなかった」と話し合う時間がとても楽しかった。
カール・アンドレの展示を見た帰り、こんな話をした。
「現代アートって、森みたいなのかもしれないな」
『森か?』
「そう。この美術館って作品同士が共鳴して、空間を作ってる感じなんだよな。
森も、木や花をを一本見るために歩くっていうよりも、たくさんの木や草花の間を歩いて、街や家にはない空気や肌感覚を楽しむ」
『ほーん、そうか』
カール・アンドレの企画展は、まさしく森と呼べるものだった。
作品の上を歩いたり、立ち並ぶ彫刻を遠目で見たり、かと思うと木材の木目を覗き込んだり、見る側のアプローチに委ねられていた。
タツの相槌は、伝わったか伝わらなかったかは微妙ではあったが、それからもぼくの歩みに合わせて一緒に展示を見てくれた。
『まあ、アケルの反応が面白くて見とるとこもあるしな』
『あ~分かる、よくわかんない作品も、一緒に見ている人がどう思ってるかで、楽しくなるよね』
もう一人の友人、クレオも応じる。
「ぼくはやっぱり感覚派だからかな。目で見て、絵画や彫刻の質感を感じて、そこから好きになる」
『そうだね。アケル、好きな作品の周りをぐるぐる回ってたこともあるし』
「その話はやめてくれ」
車の中だったので、ハンドルを抱きかかえるようにして顔を伏せた。
アレクサンダー・カルダーの動く彫刻…モビールだ。現代の糸や紙で作るモビールではなく、硬い鉄の棒と板だ。
色とりどりの鉄が自由自在に曲がり、風がなくとも自重で気ままに揺らぐ。
なにせ美術館の中で動く展示、というのを初めて見たのだ。
つい夢中になって作品の周りを何周も回ってしまった。流石に監視員の方もいて、止められるほど危うい動きはしてはいなかったが、今思い出すと顔が赤くなる。
そんな失敗もあったが、川村記念美術館では沢山の好きな作品を見出すことができた。
結局のところ、ぼく個人はとことん感覚派で、自分のチャンネル…目と目が合うように作品を好ましく感じるかどうかだった。
分かる、と感じるものは理由もなく惹きつけられるし、分からないものは歴史背景を解説されてもピンとこない。
賑々しく立ち並ぶヴィーナス像。
横を通るだけで、揺らぎを変える鮮やかなモビール。
全身茶色な、とぼけた様子の紳士は、「やぁ、よく来たね?」と話しかけてきそうだ。
森に潜む獣の呼吸のように、微かで力強い素描。
※記事末に作品名、タイトルを記載。
チャンネルの合った作品から作家を知り、アートの歴史を垣間見ることができた。
戦争とアート。
価値の崩壊とアート。
困難や絶望に立ち会った時、なぜぼくたちは創らずにはいられないのだろう。
作品と作品との余白で、ぼくたちはそんな話をした。
◇◆◇
2月、ぼくたちは美術館のクロストークイベントを聴きに行った。
『あれ、ここ。何も飾られてないね』
「そうだな」
楕円の部屋、左右に窓があり木漏れ日が室内に注がれている。
開放的だが、真っ白な壁には何も飾られていなかった。
数年間通い、色彩や質感にこだわったカラーフィールド・ペインティングなど、大型の作品が展示されているのを何度か見てきたが、壁に何も飾られていないのは初めてだ。
『なんもない展示か?…それにしては、不思議な空気じゃな』
タツは耳をそば立てるようにして、周囲を見回した。
がらんどうなのに見えない何かが息づいている、そんな存在感があった。
部屋のかつての名前は、ニューマンルーム。
バーネット・ニューマンの大作“アンナの光”を飾る為に設えた部屋だ。
圧倒される赤の面に、白のライン。
シンプルな絵画だが、絵の前で立ち尽くすしかない感覚に陥る。
…などと描いてはいるが、実はアンナの光、2013年に美術館から離れてしまっており、ぼくは実物を見た記憶がない。
記憶がない、という微妙な表現は、子供の頃に一度だけ、アンディ・ウォーホルの企画展で川村記念美術館を訪れたことがあったからだ。
子供ながらにウォーホルのマリリン・モンローや不穏な電気椅子の作品ははっきり記憶に残っていた。
しかし子供には難解だったか、ニューマンルームの巨大な絵画の記憶は全くといっていいほどなかった。
それから幾年も経ち、ある美術雑誌でバーネット・ニューマンに衝撃を受け、川村記念美術館にかつてあったことを知った。
なぜ覚えていないんだろう?と愕然とするほど、ニューマンの作品に魅了されてしまった。
それはプレミア価格の画集を買い、ネットでの展示感想を漁るほどで、川村記念美術館へ通う一つのきっかけにもなったともいえる。
がらんとした部屋だが、クロストークには多くの人が集まっていた。
ゲストはコレクションの修復を担当された岩井希久子さん。
ニューマンルームの説明…“建物を作品に返す”というコンセプトのもと、休館までこの空間には何も飾らないこと。
そして、アンナの光について。
アンナの光は、元は木枠とキャンバスであったが、大型の作品ほど画布がたわみ、作品に歪みが生じるため、日本のパネル技術を用いて修復されたことを丁寧にお話し頂いた。
トークが終わり、部屋に静けさが戻る。
一瞬の余白。
ふいにぼくは、部屋に入った時に感じた存在感の正体は“アンナの光”だと思った。
作品にも魂があるのだろうか。
以前クレオと“魂”について話し合ったことがあった。
その時ぼくらは、
“魂は、人と人で分け与えられるものなんじゃないか?物に宿るのは、その物を愛した人の魂のカケラであり、集合体なのでは?”と1つの答えを出した。
アンナの光に魂があるとするなら、それは作家の魂というより多くの鑑賞者に見出され、作品に籠もった眼差しではないか?
全ては空想だ。けれども、かつてあった作品に、ここまで思いを馳せられる場所はそうそうない。
作品の魂が訪れ、それを感じる鑑賞。
“建物に作品を返す”…ぼくはそう解釈した。
ある程度人がはけた後、部屋の出入り口に立つと、ぼくは帽子を取り軽く頭を下げた。立つとクレオも、ぼくの様子で察してくれたのか、壁に目礼をした。
白一色の壁、休館までは何も飾られることなく、ただそこに在る。
※DIC川村記念美術館は、2025/3/31まで開館されています。
参考作品(タイトル:作者)
賑々しく立ち並ぶヴィーナス像
ブーケ:ジム・ダイン
横を通るだけで、揺らぎを変える鮮やかなモビール
黒い葉、赤い枝:アレクサンダー・カルダー
全身茶色な、とぼけた様子の紳士は「やぁ、よく来たね?」と話しかけてきそうだ
Mr.チョコレート:ジャン・デュビュッフェ
森に潜む獣の呼吸のように、微かで力強い素描
抽象:ヴォルス