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突然始まる競歩大会

    駅までの道のり。
    夫に「もうちょっと早く歩いてよ」と急かされたことがある。

    私だって、亀ほどゆっくり歩いているわけではない。早歩きが身体に良いことくらい、重々承知している。
    でもね、君と私にはね、17cmの身長差があるんだよ。そして座るとだいたい目線が合う。ってことは私の足は少なくとも15cm弱は短いってことでしょ。てことは歩幅も全然違う訳よ。かっこよく言うとストライドね。
    あとさ、そんなに急がなくてもいい時間に家出てるんだし、二人で話しながら歩いてるんだから、そこまで早くなくてもいいでしょうよ?
    それに、月の使者が来ていたらね、痛み止め飲んでたって、お腹も腰も「だる重おも~」なんだからね。

    最近はそういう理屈を理解して、少し速度を緩めてくれたり、数年前に捻った足首が寒さとか気圧で痛んで困ったときは、手を差し出してくれたりと、優しいところもある夫だけど、なぜか彼はいつも早く歩こうとする。
    もしや、私よりも早歩き健康法に傾倒しているのか。

    早く歩きたいとき。
    そんなの私にだってある。

    働いていたときは、Ben Folds Five のSports And Wine を聴きながら駅までの道のりを大きめのストライドでシュタシュタと歩いていた。
    駅に着くまでに何人の人を抜かせるかと、何人もの選手をごぼう抜きして箱根駅伝で区間賞を取るイメージで、人知れず挑んでいた。
    あ、もちろん月の使者を抱っこしている時を除いてね。

    だいたいの出走者は、私がごぼう抜きチャレンジをしていることなど知らない。自分が出走していることすら気づいていない。みんな、大概眠そうな顔を引っ提げて、自分のペースでもくもくと歩いている。私だけが軽快な音楽と共に、その横をすり抜けていく。よし、これで3人目。

    ただ。
    たまにいるのだ。いつもの通勤時間にはいないメンバーが。
    そして彼は、私がその横を颯爽とすり抜けようとすると、その気配を横目でちらりと察知し、急にその歩幅を広げ、速度を上げ、私の進路にグインと肩を差し込んでくる。
    その瞬間、私はさらにブーストをかける。こういうこともあろうかと、ごぼう抜きチャレンジにはまだ8割のエネルギーしか割り当てていなかった。
    残り2割を今こそ解き放つのだ。

    かといって、あからさまに歩数を増やして彼の肩ごしに前に出るのは、いささかカッコ悪い。それでは「なにをぉ!」という必死さが出てしまい、せっかくの軽快な音楽も興ざめだ。
    私は鬼の形相ではなく、微笑みを浮かべた余裕しゃくしゃくの顔を作る。
    そして、ストライドを大きくする。動かすのはもはや足の付け根ではない。腰だ。足は腰から生えているから腰から前に進め。早歩き健康法のショート動画でそんなことを聞いたことがある。
    腰から動かせば、私のストライドもきっと最大限に広がるはずだ。

    焦らなくていい。相手の靴音を聞け。相手のリズムを越えるな。むしろ遅くしろ。こちらの方が足が短いのに、歩数が少ないのに、余裕で抜かしていく、その構図を取れ。

    私は10割のエネルギーを注ぎ込み、じわじわと彼を捉え、そして抜かす。
    あ、抜かすつもりはなかったけど、なんか普通に歩いていたら抜かしちゃいました、という顔で抜かす。
    そして駅の改札口に滑り込む。

    私の勝ちだ。
    透明のゴールテープがひらひらと私のお腹でなびいている。


    と、ここまでが、働いていた頃の私の「人知れぬ脳内箱根駅伝・競歩部門」の全貌である。

    さすがに今は、分刻みのスケジュールで動いているわけでもない。もうあんな不毛な戦いは卒業した……はずだった。
    なのに、今でもたまに一人で早歩きしているとき、あの「気配察知型のライバル」に遭遇すると、脳内でSports And Wineの前奏が鳴り始めてしまうのだ。

    相手の加速に合わせて、私もすかさず腰から足を前に送り出す。平日の昼下がり、住宅街の細い道で、見知らぬ大人二人がポーカーフェイスでデッドヒートを繰り広げている。
    相手が角を曲がって大会が強制終了したとき、じわじわと上がった息を整えながら、ふと思う。
    私は一体、誰と、何のために戦っているのだろう。

    思えば、いつも私の気配を察して急にトップギアを入れる彼らも、別に遅刻しそうなわけではないのだろう。ただ「抜かれたくない」という、本能のようなものが競歩スイッチを押してしまうのではないか。
    信号待ちでは赤になった瞬間にスマホを見るくせに、歩道で抜かされそうになると急にアスリートの顔になるのだから、人類は忙しい。

    そう考えると、うちの夫がいつも早く歩こうとするのも、あの「抜かれたくない動物のサガ」みたいなものなのかもしれない。

    先週末、一緒に買い物に出かけた夫は、やっぱり私の3歩先をシュタシュタと歩いていた。でも話はしている。前を行くくせに前を向いて喋るな。声の波形が後ろに届かないだろ。

    夫はきっと、私が腰から歩くスキルを持っていることを知らない。
    私が本気を出したら、3歩の差なんてすぐに追いついて抜けてしまうのだけど、夫の前ではアスリートになる必要はないのだ。
    「一生ついてきてください」とは言われたけれど、「抜かしてほしい」とは言われていない。

    「ねぇ、だから足の長さがさぁ!」
    妻としての私の競歩大会は、この3歩先を行く背中を追いかけるために始まるのだ。





     
     
    関東で暮らす関西人。 短くて小気味いい文章に憧れる長文書き。 私というピースはどこにもピタッとハマりにくいなと感じ続けた人生で、ようやくしっくりくる夫と娘に出会えた気がする。 最近登場の減ったアイコンとサムネのクマは自作:イクマちゃん (命名:パルサー君)

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