
「書きたいこと」と「読まれる形」は、同時に作らなくていい
最近、自分の文章が少し止まっていた。・・・認める笑
三日坊主、ではない。
書けないわけではない。
考えていないわけでもない。
・・・むしろ、考えていることは山ほどあるのだ。
会社で見た違和感。AIと壁打ちしていて気づいたこと。人が何気なく流していく場面で、なぜか自分だけが立ち止まってしまうこと。
僕は、朝礼で管理職が話す内容一つとっても、場合によってはニッコリ牙を剥き出すような物騒な事務屋だ笑
材料はある。たぶん、ありすぎる!
それなのに、いざ「記事にしよう」と思うと、手が止まる。
なぜか。
・・・すごく困るのだ!
頭の中ではグルグルしているのに、キーボードを前に手が全く動かない!
最近になって、少し理由が見えてきた。
・・・結論から言う。
僕は「書きたいこと」と「読まれる形」を、最初から同時に作ろうとしていたのだと思う。
「持ち帰り」を考えすぎると、自分の文章が薄まる
noteを書く以上、読み手のことは考えた方がいい。
これは間違いない。
自分だけが分かる言葉で、自分だけが気持ちよくなって終わる文章は、公開する文章としては少し弱い。それは、ただの自分語りに等しい。
もちろん、吐き出すこと自体が目的のログなら、それでいい。誰にも読まれなくても、自分のために残す文章には意味がある。
ただ、noteに置く以上、そこには読み手がいる。
フォロワーがいて、読みに来てくれた人がいる。
読んだ人が「で、これは自分にとって何だったのか?」と思ってしまうなら、どこかで橋をかける必要がある。
だから最近の僕は、記事を書く前に考えるようになっていた。
これは読者に何を持ち帰ってもらう記事なのか。
これは何の役に立つのか。
これはただの愚痴で終わっていないか。
これはちゃんと価値になっているか。
もちろん、大事な問いではある。ただ、この問いを最初に置きすぎると、僕の場合はかなりまずいことが起きる。
・・・文章が、急に優等生になるのだ。恐ろしいことに。
本当はもっと引っかかっている。
本当はもっと乾いた笑いがある。
本当は「なんでそうなるんだよ」と思っている。
それなのに、「読者に持ち帰ってもらうには」と考えた瞬間に、妙に整ったことを言おうとする。きれいな結論に寄せるし、それっぽい気づきにまとめる。
その結果、自分でもよく分からない、ぬるい文章になる。
本当に、「今日は曇っていた。(終)」のレベルになる。
凄まじい断捨離。
・・・もはや何も残っていない。
毒にも薬にもならない、というより、毒を抜きすぎて薬効まで消えている感じがある。漢方を煮詰める前に、水道で全部流している。
一体何をしているんだ、俺は汗
僕は、考えること自体にはあまり困っていない
一方で、AIと壁打ちしている時の自分は少し違う。
僕はそこで、かなり必死に自分の考えを言語化している。
こう書くと大げさだが、本当にそうだ。
頭の中にあるものを、何度も反芻しながら、できるだけ言葉にする。整っていなくても出す。矛盾していても出す。まだ結論になっていなくても、とにかく渡す。
・・・プロンプトの書き方?そんなもん、知らん笑
その段階では、読者のことを全く考えていない。
なぜそれが気になったのか。
何が嫌だったのか。
何を面白いと思ったのか。
まずはそこを掘っている。
すると、自分でも意外なほど考えや観点は出てくる。
つまり、僕は「考えること」ができないのではない。
「考えたことを、最初から万人向けの文章にしようとする」と、大失速するのだ。
ここを混同していた。
原液を出す工程と、読者に渡す工程は分けていい
ある書き手の文章を読んだ。
その人は自由だった。自分自身に素直だった。
カッコよかった。そして、最高にクールだった。
そう、僕はnoteで「推し」を見つけたのだ。
少し悔しいくらいに。
今回、かなり大きな気づきがあった。
ズバリ。書く工程は、分けていい。
まず、自分が考えたことを原液として、そのまま出す。
その時点では、多少まとまっていなくてもいい。愚痴っぽくてもいい。話が飛んでいてもいい。むしろ、その方が温度が残る。
まず出し尽くす。
そのあとで、読者に渡せる形へ編集する。
焦って、この二つの工程を混ぜない。
先に「役に立つ文章」を作ろうとすると、僕の文章は突然痩せる。
先に「なぜ自分はここで立ち止まったのか」を出すと、文章に火種が残る。
そして、その温度を残したまま、あとから入口を作る。
タイトルを考える。
ヘッダー画像の構図を考える。
突然抽象化に走らない。抽象の前に具体を置く。
読者が「これは自分にも関係ある話だ」と分かるようにする。
最後に、小さく持ち帰れる形を置く。
これは、文章を浅くすることではない。
深いところに行く前に、階段を置くことだ。
そしてそれは、僕の文章を読んでくれる人に対して、僕がまっとうするべき責任でもある。
失速は、失敗というより点検だった
振り返ると、最近の失速は単なる停滞ではなかった気がする。
勿論、書けない時期は気分が悪い。頭の中がウェエエェェェみたいな日、ある。
自分の中にあるものが鈍っていく感じがするし、他の人の発信を見ると、勝手に焦る。僕は書けていないのに、この人は書けている!
・・・なんて傍迷惑なやつだろう、僕は笑
特に、自分と近い匂いのする人が、すでにうまく形を作っているのを見ると、なかなか効く。
ああ、これをやりたかった。
昔、自分も似たことを考えていた。
でも、やらなかった。 (←くそぅ!焦)
しかも、向こうの方がはるかにうまい。 (←ここが重要だ!)
そういう感覚は、正直ある。
ただ、僕はそこで終わらせる必要はない。
終わらせる気もない。これは僕のnoteだ。
他人の発信を見ることは、時に、自分の現在地を点検することにもなる。
自分は何に惹かれたのか。
何を羨ましいと思ったのか。
どこを真似したいと思ったのか。
逆に、どこは自分と違うのか。
そこを見ていくと、単なる比較ではなくなる。
「あの人になりたい」ではなく、「あの人を見て、自分の足りない構造が見えた」になる。
今回は、まさにそれだった。
僕に足りなかったのは、書きたいことそのものではなかった。
自分のログを、読者が拾える形に変換する工程だった。
これからは、まず好きに立ち止まる
だから、これから少し気の持ちようを変える。
最初から完成品を作ろうとしない。
まず、自分が立ち止まったものを出す。
会社の変な空気でもいい。AIと話していて見えた人間のおかしさでもいい。副業ですっ転んだ話でもいい。たんなる思いつきの雑記でもいい。
軽い話でも、深い話でもいい。
大事なのは、「これは記事になるか」より先に、
「なぜ自分はここで立ち止まったのか」を見ることだ。
僕の場合は、そこに自分の文章の原液がある。
そのあとで、読者に渡せる形にする。
読者のために書くことと、自分の原液を消すことは同じではない。
むしろ、自分の原液が残っていない文章は、読者にとっても薄い。
人に読んでもらうために必要なのは、別人になりきることでも、派手なキャラクターを演じることでもない。
自分の頭の中への入口を読者の前に作ることだ。
・・・俺の頭の中、覗きたい人・・いる?
原点回帰は、後退ではない
僕は、少し考えすぎていたのだと思う。
役に立つこと。
読者が持ち帰ること。
有料にできること。
フォローされること。
どれも大事だ。だが、それらを最初に置きすぎると、自分が何を書きたかったのかが分からなくなる。
だから一度、原点に戻る。
会社員として思ったことを書く。
AIと壁打ちして見えたことを書く。
副業でうまくいかなかったことを書く。
人が通り過ぎるところで、自分が立ち止まった理由を書く。
僕が考えたことを書く。
まず芯を出す。そのうえで、読者に届く形へ整える。
これは、ただ好き勝手に書くという話ではない。
好き勝手に見たものを、あとからちゃんと読者に渡すという話だ。
僕の中では、かなり大きなアップデートだった笑
・・・いいねぇ、PDCAが回ってるぜ笑
書きたいことを削って、読まれる文章にするのではない。
書きたいことをちゃんと掘ってから、読まれる形にする。
たぶん、順番が逆だった。
これからは、まず立ち止まる。
それから、渡す。
その方が僕の文章は、ちゃんと僕のままで、少しだけ外に開いていける気がしている。
おまけ
ヘッダー画像の落選。
捨てきれなかった一連。最初はカラスだった。
でも僕はカラス<狼、なものでね・・・。
カラスを黒狼に置き換えたら、思った以上に“壁打ち相棒”感が出てしまった。・・・ニュアンスが「四つ足」だった。

