
日和日記|深夜2時、布団に潜り込んだ瞬間に彼女が放った衝撃の一言
ぼくには秘密がある。
いや、秘密というほど大げさなものでもないか。ただ、ちょっとした"事情"だ。
それは、いびき。
眠りにつくと、ぼくは材木所のチェーンソーと化す。彼女いわく「最初は工事現場かと思った」。笑えない。本当に笑えないのだ。
だから彼女が翌日に用事があるときは、ぼくが先に寝るわけにはいかない。彼女の睡眠を死守するため、ぼくは夜更かし部隊の一員となる。パソコンの青白い光を浴びながら、動画を見たり、ネットサーフィンをしたり。要するに時間を潰す。
昨夜もそうだった。
リビングの片隅で、キーボードをカタカタと叩く。寝室からは何も聞こえない。まだだ。彼女はまだ起きている。ぼくの耳はレーダーのように、寝室の気配を探っていた。
そして──来た。
「スー……スー……」
深く、ゆったりとした呼吸音。それも、普通の寝息じゃない。彼女特有の、どこか豪快な寝息だ。初めて聞いたとき「女性でもこんな音出るんだ」と妙に感心したものだ。でも今では、これがぼくの就寝許可証である。
午前2時を回っていた。
風呂から上がって30分ほど経っていたが、冬の夜気に晒されて手足はすっかり冷えきっていた。指先なんて、まるで氷柱だ。こんな状態で布団に入ったら、彼女に蹴り飛ばされるかもしれない。でも、もう限界だった。
そっと寝室のドアを開ける。
部屋は真っ暗で、わずかにカーテンの隙間から街灯の明かりが漏れている。彼女の寝息が、規則正しく部屋に響いていた。よし、完全に寝ている。
ぼくは忍者のように──いや、もっと正確には侵入者のように──布団の端を持ち上げた。中はひんやりとしていて、外気との温度差にびくりとする。でも仕方ない。そっと、本当にそっと体を滑り込ませた。
枕の位置を手探りで確認する。よし、ここだ。
仰向けになって、天井を見つめる。何も見えないけれど。
彼女の寝息が、すぐ隣から聞こえてくる。安らかで、穏やかで、まるで波の音みたいだ。ああ、これで今日も一日が終わるんだな。ぼくは目を閉じた。
体の芯がじんわりと温まってくる。布団の魔法だ。意識が少しずつ、霧の中に沈んでいく。
そして──。
「こんばんは」
突如、彼女の声が闇を切り裂いた。
「えっ!?」
ぼくは飛び上がりそうになった。心臓が口から飛び出すかと思った。何だ、起きてたのか!? いや、でもあの寝息は──。
慌てて彼女の方へ顔を向ける。暗闇の中、彼女のシルエットがぼんやりと見えた。
「森進一です」
……え。
え?
今、何て言った?
彼女の声は、いつもと全く変わらない。落ち着いていて、冷静で、まるで天気予報を読み上げるキャスターみたいな口調だった。でも内容が──内容がおかしい。
「ど、どうした?」ぼくは恐る恐る訊ねた。
返事はなかった。
シーン……
静寂が部屋を包んだ。そして数秒後、再び彼女の寝息が聞こえ始めた。あの、豪快で安らかな寝息が。
ぼくの頭の中に、一つの光景が浮かんだ。魚をくわえた泥棒猫が、しれっと逃げていく後ろ姿。まさにそれだ。森進一を名乗っておいて、何食わぬ顔で夢の世界に帰っていったのだ。
翌朝、ぼくは彼女に訊いた。
「昨日の夜、何か覚えてる?」
「ん? 何も。ぐっすり寝たよ」
やっぱりか。
「森進一、知ってる?」
「誰それ? 歌手?」
彼女はきょとんとした顔でスマホを見ていた。完全に記憶にないらしい。
ぼくは確信した。彼女は寝言で、しかも物まねをしたのだ。
これまでの人生で、いろんな寝言を聞いてきた。友人は修学旅行で「おかわり!」と叫んだし、妹は「ゴールだ!」と寝ながら喜んでいた。でも、物まねをする寝言なんて初めてだ。それも森進一。渋すぎる。彼女、昼間に何を見ていたんだろう。
ちなみに、ぼく自身の寝言も相当ひどいらしい。彼女に言わせると「意味不明な呪文を唱えてる」とのこと。お互い様である。
この一件から、ぼくは大切なことを学んだ。
人間という生き物は、寝ている間も案外忙しい。脳は休んでいるようで、どこかで稼働している。無意識の領域で、不思議なことが起きている。
そして、共に暮らすパートナーの寝姿を観察することは、ある種の冒険に似ているということも。
あの夜、暗闇の中で「こんばんは、森進一です」と言われたときの衝撃は、今でも忘れられない。ぼくの心臓は本気で止まりかけた。でも同時に、なんだか可笑しくて、愛おしくもあった。
眠っている彼女は、まるで別人格を持っているみたいだ。昼間のクールな彼女とは違う、予測不可能な一面。それがたまらなく面白い。
今夜も、ぼくは彼女の寝息を待つだろう。
そして布団にそっと潜り込んで、次はどんなサプライズが待っているのかと、少しだけ期待してしまうのだ。
もしかしたら次は、美空ひばりかもしれない。
あるいは、石原裕次郎か。
いや、まさかのマツコ・デラックス──?
夜の闇は深く、謎に満ちている。