メインコンテンツへスキップ
見出し画像
Photo bykyo2024

付き合うことや結婚すること意義を再考する

    正装には力があるし、儀式は思わぬところで自分をとどめる。

    付き合っているとか付き合っていないとか、そういうのって重要ではないと叫んでいた1年半前。

    周りの友達や同期が「結婚」していくことに頭が追いつかなくて、「あいつらは批判能力を生まれつき持っていない」、とか喚くことで自分を保っていた。私たちの特別な関係性に一律の名前をつけようとすることが間違っているんだと、声をあげなきゃ何かが死にそうだった。(当時の意見には今でも40%くらいは共感しますけれども。)

    仲のいい同期が、人生のテーマは「破壊と再生」なのだと事あるごとに言っている。

    私なりにこれを解釈すると、自由を手に入れるためにはまず「破壊」が必要ってことじゃないのかと。ルールや枠組みに対して、真正面から反抗的になる時期があってこそ、自分なりにに柔軟にシンプルに、引いて足して組み替えて、再構成ができるんじゃないかと。

    そして「付き合っているとか付き合っていないとか」に対する自分の思考は「破壊」のフェーズが終わったらしい。けっこう前から再生(?)のフェーズには入っていたけど、完全に「破壊」が終わったことが分かる。

    形式ってけっこう重要なんだなと実感を伴って「腑に落ちた」、本日13時。

    思うに「付き合う」ということは、精神的に南京錠をかけるみたいなことなのではないか。カチャリと音がして、「鍵がかかったな」と相互に認識をする、事象としてはこれだけ。

    物理的には、いつでもあけられるし、壊せてしまう南京錠にどんな意味付けをするか、それが全てなのではないか。

    「鍵」を窮屈なものだと感じることもある、自分で「鍵」を保管することを大事にすることもある。それを奇跡だと思ってもいいし、その音を初詣みたいに「理由」や「覚悟」にしたっていい、安心してもいいし施錠できているのか不安になってもいい、アクセサリーにしたっていい、今まで壊してきた南京錠の数を自慢したっていい。

    とにかく南京錠をつけることによる「意味付け」がすべてを生み出している。

    少し前の自分が叫んでいたのは、生まれてすぐに知った「鍵」の定義、他人の南京錠の使い方、南京錠のついていた場所、そういうものに、私たちは囚われすぎなのではないか、ということで。

    南京錠はもっとクリエイティブに自由に使ったっていいし、別に「閉じる」ために使わなくたっていいし、扉につけなくたっていいよね、みたいなことが私はずっと言いたかったらしい。

    しかし、「形式」の持つ強さ、一般化、文化、常識、思ったよりも強くて、意味があるんだな、と。

    メモ:「社会」「ルール」

    この記事が参加している募集

     
     
    弁護士らしからぬエモい文章を書きます¦@東京 「あいうえおエッセイ」「法律エッセイ」連載中🍊🧡

    あなたへのおすすめ